★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

呪!10万回閲覧

2011-02-27 07:05:25 | 映画
昨日、このブログを覗いた方の中に、閲覧合計10万回目の方がいらっしゃいました。誰だか分かりませんからこちらから何かを差し上げることはございません。そのかわり、私は昨日の深夜、木下恵介監督の「女の園」をなんと二回続けて観てましたから、10万回目の誰かさん、今日は「女の園」をあなたが観て下さい。そして見終わったあと、感想を次から選びましょう。私が何でも答えて差し上げる。

1、昔の女子大の学生って相手のことを「様」付けで呼んでたのかっ→知りません。試しに初デートで相手を様付けで通してみてください。

2、「女の園」という題名から淫らなことを考えてしまった私は駄目な人間ですか?→駄目な人間です。

3、出演者──高峰秀子、高峰三枝子、久我美子、岸恵子──この四人全てと結婚したい→世界平和より難しいです。がんばって下さい。

4、学生運動を支持している映画だ。けしからん。→あと50回観て下さい。そのあと「日本の夜と霧」と比較し、レポートを提出せよ。

5、高峰秀子の学生服姿がみれただけで私は幸福です→「笛吹川」での高峰さんの老け役を観て眼を覚ませ。あと、着せ替えフィギアは買わない方がいい。

6、というか、これ誰が主人公なのか教えてくれませんか?→断る。

7、「女の園」、「ゴジラ」、「七人の侍」、「二十四の瞳」、「近松物語」、「ローマの休日」が一緒の年の作品とか、昔はすごいね→ばかもの。その年は、中日ドラゴンズ日本一の年だ。

8、面白くなかった→お前とは絶交だ。

叙情コイル

2011-02-27 02:07:40 | 漫画など


最近、レンタル屋で『電脳コイル』という作品をかりてきたのだが、これがなかなかよい。そういえば、数年前にNHK教育でやっていた番組だ。眼鏡型ウェアラブルコンピュータが普及した日本の田園都市が舞台。その眼鏡(「電脳メガネ」)をかけると現実世界にほぼ重なった仮想現実が見えるのだが、小学校6年生たちがそれををつけながら暮らしている話。仮想現実の中には仮想のかわいいペットやかわいいウィルスみたいなものがいて、それらと戯れながら、しかも日常生活を送ることができる。途中までしか観てないが、絵の動きがとても素晴らしいように思われた。しかし、郊外の都市というのは、こんなに美しいのであろうか?私は箪笥で青大将が寝ているような山中で育ったから、郊外にノスタルジーを感じることはない。のみならず、東京あたりの出身者の書く最近の「郊外論」は、以前の「兎追いしかの山」的なものより気取ってていやだ──が、『電脳コイル』の世界は、ほとんど独歩の「武蔵野」のような雰囲気を漂わせている。

こんなのを幼児時代から観ることができる今のこどもたちに二秒ぐらい嫉妬した。私の世代は、マジ×ガーZとか×グ×ートマジン×ーとか、妖怪×間ベ×を幼児時代に見させられたために、いまだにオートバイに乗っていれば巨人の頭に乗っかって悪の大将を駆除できるとか、自分以外の人間は妖怪以上にひどい奴らとか思いこんでいる節がある。仮想現実どころの話ではない、単なる仮想妄想である。それに比べてなんという叙情的リアリズムだ。よほど心優しい人間ができあがるに違いない(棒読み)。この世代には、思春期を過ぎたら、ちゃんと「楢山節考」をみせとかなければ……

上は、そのなかにでてくるウイルス駆除ソフトのサッチー。

「過ぎし江戸」対ポポフ

2011-02-25 23:00:00 | 音楽


双葉社の『過ぎし江戸の面影』を眺めながら、ポポフの交響曲第1番を聴く。プロヴァトロフとモスクワ国立交響楽団。人民の敵=形式主義者時代(笑)の作品。ソ連で演奏禁止を喰らった作品であるそうだ。この曲に対抗心を燃やしたショスタコーヴィチが第4交響曲を書き、これも理由はよく分からんが引っ込めてしまったのは有名な話であろう。ソ連の文化官僚の皆さんが、ここに煮えたぎる革命的ななにか(なにかがなになのかは分からんが……)を聴きとれないのはいけないねえ。あ、聴き取れたから禁止したのか。革命のあとに革命をやろうとしちゃいけないからなっ。(ついでに人民の友時代の第2番も聴いてみたが、所々同じような、なにものかの響きがしてるではないか。寝そうになったけど。

第三楽章の、スクリアビン的フィナーレの盛り上がりのなかに、木琴がぴんぽこぴんぽこぽん入ってくるのがすばらしいなあ。この木琴のとこだけやってみたい。

『過ぎし江戸の面影』は、幕末に日本を訪れた外国人の言葉とかを引きながら、江戸末期の写真に色を付けたものが並んでいる。私は、ものを外側からみりゃ客観視できるという発想は自己慰撫的であると思うので、好まない(笑)「裸体への無頓着さ」(82頁~)とか「驚愕の遊郭」(104頁~)とか、ここらへんを言いたかっただけちゃうんかと……。

悲しみは×松で幾歳月

2011-02-24 23:40:20 | 映画
今日は、「尼提」、「年末の一日」、「点鬼簿」に頭を使った。疲れた。

……明日は二次試験である。

で、英気を養うために、「喜びも悲しみも幾歳月」を観る。主人公の灯台守の夫婦が最大の悲劇に見舞われるのが、彼らが男木島灯台にいたときである。×松の高校に通っていた息子が不良(!)に刺されて死んでしまうのだ。「二十四の瞳」で×川県を持ち上げておいて、この仕打ちはひどいっ。木下恵介監督、あんたはひどいっ。監督は「二十四の瞳」の子役たちの演技が下手なので、かなり怒っていたらしいのであるが、その仕返しであろうか。

夫婦の一代物であるが、二人が年老いていくところまで描ききらないのがよいね。新婚旅行に旅立つ娘の乗った客船を、灯台で見送り、泣きながら「もうこれでよい」と言うきよ子(高峰秀子)に対し四郎(佐田啓二)が「俺はそうは思わないよ、これから楽しいことがあるような気がするよ」と言うのだが……。最後に旦那、はじめていいこと言ったっ!。といっても、結婚してすぐにも殆ど同じことを言っているんだがな……。しかし本当に苦労した後では言葉の輝きが全く違った。そこで、明らかにこれからも苦労続きである彼らの幾歳月が、暗から明に反転するのである。我々がしばしば忘れてしまう、心の傷が消えないにもかかわらず苦労が報われるということの意味を、こういう映画は教えてくれる。それでも心が晴れないときもあろう、そんなときはそれを吹き飛ばすごとく霧笛をならせばいいらしいぞ。私は納得した。

結論:いつも俺だけが儲かりますように、と願っている私は反省しろ、真面目に働け!

芥川龍之介対フルトヴェングラー

2011-02-24 06:01:02 | 音楽


芥川龍之介の「尼提」などを読みながら、フルトヴェングラーの第2交響曲を、朝比奈隆と大阪フィルの演奏で聴く。どことなく意地悪な芥川に比べて、フルトヴェングラーの真面目なところはよいです。先日BGMなどと言って申し訳ありません。求道者的なワーグナー、無神論者ブルックナー、禁欲的なチャイコフスキー、打楽器が嫌いになったマーラー、循環形式はもういいよと思ったフランク……などの魂の数々が活き活きとうごめいているではないかっ。なんとなく、諸井三郎の交響曲第3番のような響きもしているし、私が高校時代に創ろうとしてた交響曲にも似ておるぞ。盗作か?

朝比奈隆の演奏は、世に言う朝比奈教の人達が「尼提」の釈迦以上に不気味だったので、あまり聴いてなかったのだが、これはいいではないか。フィナーレは本当に感激した。これに較べると、マルティノンの交響曲第2番のフィナーレなどちゃらちゃらして聞こえるなあ。フランスはナチス協力をちゃんと反省せずに勝利したのがまずかった。というのは冗談だが、やっぱり国破れて山河ありという境地の中で交響曲は書かれるべきであるなあ。カダフィの国とか、あそこあたりの作曲者のみなさん、傑作を書くときがきましたっ。

芥川龍之介は、やはり関東大震災で動揺している場合ではなかったぞ。東京大空襲のあとで第二の「河童」や「蜃気楼」を書くべきであった。

Something's Coming──安保闘争51年

2011-02-22 05:19:06 | 文学

♪Something's Coming

文献整理をしてたら、昨年の『週刊読書人』の6月4日号で、西部邁と長崎浩が「六〇年安保闘争五十年」という対談をしていたので、つい読んでしまう。教養小説みたいだね、彼らが安保闘争後の人生について言っていることは……。私は、もっと狂信的なものを読みたい気分である。とはいえ、彼らの安保闘争の気分というのは、♪Something's Coming♪ ではなく、ブントの書記長・島成郎が言ったという言葉──「ガソリン撒くぞ」といった感じだったのかもしれない。それに「うるせえ」と反駁した西部も、気分としては「ガソリン撒くぞ」なのだ。私は、「ジェーン・エア」の火事の場面を想い出した。

あいあんまんあいあんまん

2011-02-21 02:57:26 | 映画
芥川龍之介を読みながら寝っ転がっていたら眠くなってきたので、久しぶりにテレビをつけたら、「アイアンマン」といういきなり舌を噛みそうな邦題の映画をやっていたので、半分寝ながら観た。兵器会社の天才社長が相棒の奸策でアフガン(←?)で洞窟に閉じこめられ鉄でアームスーツ?をつくって脱出、米国に帰ってから自らの趣味だか復讐だか世界平和だか、理由はよくわからんが、より洗練されたアームスーツ?をつくり空を飛びまわったり悪者を退治したりするお話。最後、自分の正体を隠すと思いきや、記者会見で「ぼくがあいあんまんだよ」で終了。

こんな感じですね



主人公が、アームスーツ?をコンピュターで作っていくところは面白かったな。男の子の夢という感じだ。あとはたぶんどうでもいいかんじ。こういうヒーローはなぜ敵との対話をせんのか?「きみのやってることは間違ってるよ」ぐらいは言ってもいいだろう。少なくとも相手の名前を聞けっ。サンデル教授を見習え。あと、邦題をつける人ね、今からでも遅くはない、日本人の民度をあげるために「厳窟王」に変更してくれ。

フルトヴェングラー対シュレーゲル(笑)

2011-02-20 01:56:29 | 文学


何かの座談会で、マーラー好きとブルックナー好きは完全に分かれており、特に後者が好きな場合前者を聴くことはない、と言っていた人がいた。言いたいことはなんとなく分かるが、現実には嘘だと思う。マーラーはこけおどしだがブルックナーはそうではない、プロコフィエフはメロディアスだがショスタコーヴィチはそうではない、……こんな言い方もそうである。嘘をつけっ。

というより、嘘をついているつもりではないのだ。対象をできるかぎり総体として捉え得る能力は、音楽に限らず訓練によってできあがってくるものだ。私は楽器演奏などをやめてしまって久しいが、どうもこの頃、音楽を聴いていても音がきちんと聞こえているか自信がない。確かに音自体は聞こえているに決まっているが、私の言っているのはそういう意味ではない。対象が文章の場合は、もっと露骨にそうである。基本的に我々は、知っていることが書いていなければ認識できない。学生の論文を読むときですらそうだ。文章の言いたいことに耳を傾けられなければ我々は学者として終わっている。それを、社会党的な善意だとか(違うかw)、対象を神秘化してはならぬとか、否定神学的な構えはよくない(これも違うかw)とか言っているうちに、サマリーか三分間録音程度の集中力しかなくなってしまうのだ。あとは、音楽や文章などの形式をあげつらったりするだけになる。作品は読者や聴衆に対するサービスじゃないんだよ……。難解さに対してナルシシズムを見るナルシシズムには、いい加減飽きがきたんだけども。

というようなことを、今日、シュレーゲルとかフルトヴェングラーの長~い作品に触れていて思った次第だ。あ、シュレーゲルは断片が多いから長いとは言えないか(笑)昨日再読した、芥川の「浅草公園」も断片の積み重ねだけど、断片を積み重ねると異様に長さが増幅されているような感じがするねえ。それにしても、フルトヴェングラーの交響曲は、BGMとして結構いけるっ。フルトヴェングラーは、他人の作品の演奏の時には聴く側を音楽だけに縛り付けようとする癖に、自分の作品はそうでもないのはおもしろいなあ。彼の文章を読んでもそう思うのだが、彼は他人の作品の奥底まで、あるいは世界の果てまで行こうと努めていたので、自分の奥底の方はどうでもよかったのではなかろうか。今日読んだシュレーゲルに関してもなんとなくそんな気がした。私は、かかるとき、ロマン派のイロニーを、それに対して持ち上げられてきたユーモアに対して評価する道はないかと考えた。