すべて、月・花をば、さのみ目にて見るものかは。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨のうちながらも思へるこそ、いとたのもしうをかしけれ。よき人は、ひとへに好けるさまにも見えず、興ずるさまも等閑なり。片田舎の人こそ、色こく、万はもて興ずれ。花の本には、ねぢより、立ち寄り、あからめもせずまもりて、酒飲み、連歌して、果は、大きなる枝、心なく折り取りぬ。泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけなど、万の物、よそながら見ることなし。
ここに限って言えば、兼好法師は、直接目で見るより想像力で楽しむ教養人よりも、粗雑に直接性で楽しむ人々をよく見ているといえると思う。兼好法師の想像力とは、――こういう無教養のやからの行為まで延々想像出来ることも含んでいるものである。この前の部分で、自分と趣味が合う都が懐かしいみたいなことを言っているので、このどんちゃん騒ぎをしている者達は田舎者なのかも知れない。あ、「片田舎の人」ってはっきり言ってますね。。。
がっ、田舎者のわたくしをしていわしむれば、田舎者が直接的な快楽に溺れるのは、田舎には都会の連中にはわからない美しい風景が沢山あることも関係しているのである。東京人が想像力で観念的な世界で遊んでいるときに、われわれ田舎もんは、輝く山陵と虫たちの乱舞の中で心ときめいているのだ。独歩の「武蔵野」なんてかなりあまく、郊外から外へ外へ行くべきなのだ。「泉には手足さし浸して、雪には下り立ちて跡つけ」ることこそ、美の体験だ。そういうことが分からない兼好法師は勝手にグラデーションの世界で遊んでろ
二人は、やっと眠りつきましたが、いろいろの夢を見ました。
おじいさんは、まだ元気で、河へ釣りにいった夢を見たり、おばあさんは、まだ若くて、みんなと花見にいったことなどを夢に見ました。
翌日、二人は、あの赤いかんの中の粉を捨ててしまおうかと話をしていました。そこへ、小包よりおくれて、せがれから、手紙がとどきました。
その手紙によると、赤いかんにはいっているのは、ココアというものであることがわかりました。田舎に住んでいるおじいさんや、おばあさんには、まだそうした飲み物のあることすら知らなかったのです。
「こんなものを、なんで私たちが知ろうか。」といって、おじいさんと、おばあさんは、顔を見合わせて笑いました。
――小川未明「片田舎にあった話」
息子からココアが送られてきた話で、ご飯にかけて食べてみたが目が冴え眠れない。やっと寝たが、夢を見た。息子はなんで小包と一緒に手紙を入れてないのであろうか。――それはともかく、この話のいいところは、おじいさんおばあさんが若い頃の夢を見るところである。彼らはここで若い気持ちを思いだし、ココアを捨てようと思ったりするのではないだろうか。若い感性は、多くのものを捨て去る潔さを伴っている。わたくしは田舎者として思うのだが、この潔さも田舎の美の特徴であり、これがないと都会の毒物に一気に浸食されてしまうのである。ココアなんて得体のしれない混ぜものにみえる。もっとも、ココアのおかげで、おじいさんおばあさんの脳みそが冴えたのかもしれないのだが……。