都の使いは三ヶ月かかって武蔵の国に行ってしまった姫君を見つけ出した。でも、姫は「ここはもう気に入ってしまいました。これが私の運命です。この男に命じたから私はここにいるのだ。もう一回言うがこれは「宿世」だ。早く帰り、そう言いなさい」と使いを追いかえした。使いの報告を聞いた帝曰く、
『いふかひなし。そのをのこを罪しても、いまはこの宮をとりかへし、都にかへし奉るべきにもあらず。竹芝のをのこに、生けらむ世のかぎり、武蔵の国を預けとらせて、おほやけごともなさせじ』、ただ宮にその国を預け奉らせ給ふよしの宣旨くだりにければ、この家を内裏のごとくつくりて住ませ奉りける家を、宮など失せ給ひにければ、寺になしたるを、竹芝寺といふなり。その宮の産み給へるこどもは、やがて武蔵といふ姓を得てなむありける。それよりのち、火焚き屋に女はゐるなり」と語る。
意外だったのは、武蔵の家を宮中のようにつくり換えたことだ。酒樽の上のひしゃくがくるくるすることが面白かったんではないのかっ、この姫は。宮中と同じくしてどうすんだ、絶対宮中から金でただろう。で、姫が死んだ後、その建物を寺にしたそうである。←あやしい……寺にする必要はあるのか……。
とにかく、よくわからん話であり、――よく知られた「伊勢物語」の、好きな女を強奪したが途中で女を鬼に食われる話の方がなんとなくリアリティがあるのは、物語ばっかりに頭を浸しているわたくしのような人間の悪い癖であろう。よくしられているように、坂口安吾は、この手の話が好きで、「文学のふるさと」があるとか言うておる。しかし、考えてみると、文学の故郷は上の「ひしゃくがくるくる」の話が生ぬるいと感じるブルジョア精神にこそあり、女を鬼に食われる話なぞ、恐怖以外のものではない。本当は、男の方も殺されたのだが、「伊勢」の業平物語の側面を捨象出来ない語り手が、男を生かしただけではなかろうか。
孝標の娘はここでも期せずして空間的な広がりを感じさせる話を紹介している。都に行きたい自分が、都から自ら望んで武蔵に行ってしまうところにロマンを感じる。この空間的に交差する感じが彼女を興奮させているに違いない。
その中に柴の束はだんだん燃やしつくされて、すつかりおしまひになりました。炉の火が消えてしまふと一所に、男はぱつちりと目をあいて、
「御苦労々々々。もうかへつてもよろしい。」
と云ひました。お秋さんは大男を怖いと思ふ心は、全く消えてゐました。けれどこのまゝ洞の中に一しよに居やうとは思ひませんでした。
立ちあがつて洞の外へ出て見ますと、雪のとんねるは、いつか消えてしまつて、あちこちに梅の花が咲いてゐます。うぐひすや目白の声もきこえます。
「あゝもう春だ。」
とお秋さんは、ふしぎさうに呟きました。洞の中にゐたのは一時間ばかりと思ふのに、早くも一冬を過してしまつたのです。
――土田耕平「雪に埋もれた話」
空間的にも時間的に長かった「竹芝」話に比べれば、これは洞窟で大男に命令されて火をくべていたら一冬超していたという話で、空間も時間も短い。これが庶民の世界で、時間は圧縮され続ける。