★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

祭りにまつわるエトセトラ

2023-10-29 16:39:13 | 大学


教師をしていると学生の虚言癖をどうするかはいつも悩まされるけれども、倫理自体を教えてもだいたいだめで、実力をつけないと結局は嘘をつくようになるということを教える必要があるのだ。しかし、この必要性から逃避していつも倫理だけいう教師が多くなる。教師という職業、もともと少し嘘をつくことが必要だということもあって、そういう心のからくりがわからなくなった人間もたぶん多いんだろうと思う。

このような意識の欺瞞と惰性は日常性という維持が目的のせいでもある。これだと息が詰まるので、人間は、嘘を虚構という花火にすることによって昇華してしきり直しをするという発明を行った。スポーツ大会や祭りもその一種であろう。スポーツが虚構化されているのは言うまでもなく、いわゆる「文化」だってそうなのだ。だから、文化祭も少しスポーツの祭典の香りがしないでもなく、スポーツに文芸臭も付着しているのだ。

昔の学生に会って、黄表紙とか太宰の話をしてするする通じるいうちは世の中捨てたものではないが、誰も彼も疲れている。

文化祭で、こういう疲れを別のものに変形しなくてはならない。

もっとも、わたくしくらいになってくると、学園祭への参加は、秩序維持(警備)ぐらいだ。ゆえに、なにゆえ我が輩は秋空のなかを出勤しているのであるかと思わざるをえない。

海の向こうでは相変わらず戦争である。無駄な批判的能力をそぐと肯定する力はおろか伝言も精確にできない人間が大量生産されることがわからないようなやからは教育に関わってはならない。当たり前であるが、戦争責任やらなんとか責任は、その主体がどう評価され信用されているかによる。で、個人を超えた主体の場合は、過去の歴史や現在や未来(の見方)によってその信用は変化し、「やはりやばい」や「不幸にもやばい」、「なくなってもかまわんのでは」といった価値によって規定される。我々は価値から生ずる責任にむかって歩んでいる。今戦争をやっている国でさえそうなのだ。

学園祭でなんか文化の香りがなくなったとか言うてるそこの同世代のおじさんに告ぐ。その香りのいくらかは酒のにおいである。バッカスは退場せられた。学園祭の治安維持係の一角を担っているので、コロナ開けの学生の酒喜乱舞を怖れていたのであるが、とっくに学内では普段から飲酒が禁止されていた。チャットGPTにきいてみた。

酒の香りとの関連について言えば、一部の学園祭ではアルコール飲料を提供することがあります。ビールやカクテルなどのアルコールの香りは、祭りの一部として楽しまれることがあり、社交的な雰囲気を醸し出すことがあります。ただし、未成年者へのアルコール提供は法律に反する場合があるため、適切な規制と監督が必要です。
 学園祭は、文化とエンターテインメントが融合する場であり、多くの異なる香りが出会う場所でもあります。その香りは、参加者にとって楽しい思い出と共に残ることでしょう。


そういうことを聞いてんじゃねえんだよ。

学生の展示を見て回るとそれなりに文化はある。文芸部の展示は、自分たちの同人誌と好きなライトノベルとかイラストとかが同一平面に並んでいるカオスで、しかもえらく盛況だなと思ったら、ほぼ部員が客みたいに騒いでいるという、読者文化論的に非常に興味深い事態が展開されている。美術部はこれにくらべて作品をみてくれみたいな感じが強く、展示の裏のすごく奥に眼光鋭い部員が座ってるみたいな感じがいつもの感じである。ジャズ研はいつもがんばっている。

2023-10-27 23:06:19 | 文学


たんぽぽの花は、こちょうと楽しく話をしていました。それは静かな、いい日でありました。たちまち、カッポ、カッポという地に響く音が聞こえました。
「なんだろう。」と、たんぽぽの花はいいました。
「なにか、怖ろしいものが、こちらへやってくるようだ。」と、こちょうはいいました。
「どうかこちょうさん、私のそばにいてください。私は怖ろしくてしかたがない。」と、たんぽぽの花は震えながらいいました。
「私は、こうしてはいられませんよ。」と、こちょうはいって、花の上から飛びたちました。
 そのとき、カッポ、カッポの音は近づきました。百姓にひかれて、大きな馬がその路を通ったのです。そして、路傍に咲いているたんぽぽの花は馬に踏まれて砕かれてしまいました。
 野原の上は静かになりました。あくる日もあくる日もいい天気で、もう馬は通らなかった。


――小川未明「いろいろな花」


復るに迷う。凶。

ポストモダンとプーランク

2023-10-26 23:36:04 | 思想


貫魚。以宮人籠。无不利。

八〇年代に「現代思想」のヒーローたちがいたような気がしたが、気のせいだったかもしれない。わたくしはまだ木曽にいたのでかなり勘違いも混ざっていたが、いつか、村上龍とか柄谷行人とかおしゃれなバーみたいなセットで美女と一緒に映っていて、文学思想はもしかしてモテるのであろうかと思った。「以宮人籠。无不利」である。しかし八〇年代とは、貫魚のような不気味な時代であった。

そのモテる人たちの側や大学で、うち捨てられたと思った憤懣が――例えば、浅田彰の「構造と力」よんでなにを間違えたか「構造改革とコミュニケーション能力」ばっかり論じる人を生み出した。そうなった人はすみやかに手を上げよ。

力の概念はいったいどんな風に把握されたのであろうか。わたしはしっかり考えたこともない。しかし、例えば、権力の勾配みたいなことばかり考えてる人は、例えば子供たちが仲間にはプレッシャーの分配に神経を尖らせるのに、上の?教師にはぞんざいに全員の尻ぬぐいをさせたりするみたいなことを無視する。こんなことは役人と政治家、子供と親、上司と部下みたいな関係はもとよりいろんなところにあるにもかかわらず。結局、力のイメージがプロレタリア文学の頃と変わらなかったからではないのか。クラインの壺は壺であることをやめない。

ジムノペディは、サティが壺をみて思いついたという説がある。どうりで妙に長いわけだ。壺はどこまでいっても壺であった。ケージも長い。わたしも浅田の推薦するケージの『鳥たちのために』を予備校時代によく読んだ。わたくしは、どちらかというとプーランクの方が好きである。前にも書いたけど、わたしはプーランクに向いていると昔のピアノの先生が言ってて、結局弾かずに音楽生活をやめてしまったが、いまは結構弾きたいと思う。もう指がうごかない。

2023-10-25 23:30:08 | 文学


「何か変ったことはありませんでしたか」
 と云った。夫人が、
「べつに、なにも」
 と云うと、看護婦ははじめてほっとしたような顔をして、
「今、奥さんの室から何人か出て往ったような気配がしますから、不思議に思ってますと、この次の次の病室にいる患者さんが、ふいに天井へ指をさして、何か来た、何か来たと云いながら、呼吸を引きとりました」
 と云った。それを聞くと気丈な夫人も思わずぞっとした。


――田中貢太郎「天井裏の妖婆」

藤子F不二雄のSF短編集読んだがけっこう面白いね。書き込みがあまりないから世界が透明で澄んでいる。「ドラえもん」の人気だって、そういうところに支えられていたのだと思う。わたしが江戸川乱歩以来の不気味な妖の方向があまり好きではないのはそのせいかもしれない。「富江」の人はシュールレアリスムだから心が洗われる。

2023-10-24 23:23:44 | 思想


賁其須 賁如濡如。

そのひげをかざる。しっとりと濡れている。

虚飾とおもわれてもわれわれの着飾る欲望は進化を促進させるもののようだ。尻尾を蜘蛛の形に変えた蛇とか、葉っぱに変えた蜥蜴とかが平気でいるのがこの世界であり、そろそろわれわれもへそからスマホが生えてきてもおかしくはないと思われる。それもおしゃれな形で生えてくるに違いない。

それにこの部屋の乱雑なこと。すこしは片づけたらどうだ。本は出しっぱなし、新聞紙は散らかしっぱなし、障子までが穴だらけじゃねえか。まさか「太陽の季節」の影響じゃあるまいな?

――梅崎春生「つむじ風」


これでさえ、虚飾かもしれない。そういえば、内田樹氏なんかは今考えてみると保守本流であって、そこには、欲望を抑制してもいるところの着飾りすらあった。武道や筋肉はその一部に過ぎない。今日は行きがかり上、内田樹論を90分間しゃべったが、10年前よりも見通しよくなったかんじがあるな。やっぱり10年は必要な側面ある。内田樹氏に同調していた連中が、つぎつぎにこれまた保守である民主党やら何やらを見捨ててラディカリズムに走った。このプロセスがないと内田氏の保守としての自己証明は証明されなかったのである。

学生の意見をきいているとときどき、社会はリアルに存在せずネットにあるみたいな感覚があるんじゃねえかと思うことがある。その社会というのが、内田氏から離れたラディカリズムであり「変容するような世界」を形成したからである。リアルな世界の方は、内田氏の「そんなもんである」様態を超えて「合理的なんとか」に向かって組織されていった。今日は、啓蒙思想とフランス革命の理念の関係についても少し授業で喋ったが、我が国では完全に「合理的」ということばの使い方がおかしい。ほぼ指示に従うみたいな意味になっている。誰の指示なのか、何の指示なのか、考えるつもりもなく、考えている連中はだいたい処世術との関係に於いて考えている。

噬膚滅鼻

2023-10-23 23:59:47 | 思想


六二。噬膚滅鼻。无咎。

日本のテレビは、笑ってるか喰ってるか嘘ついているかであるが、笑いと嘘が結びついているのはまあわかるとして、喰うことはなにかちょっとみるとやはり我々の本性をありありと示すようである。我々は顔を肉に埋めるほどの食べ方はもうしなくなっているようにみえるけれども、上のように、鼻をツッコむぐらいはあるかもしれない。

わたしはもともとレジスタンスに向いていない偏執狂なのであろう。いつも鼻を肉につっこんでいるようなものだ。もともと興味があった神社の世界に結婚式を神式でやって以来のめり込んでしまい、結婚記念日にも近所の廃屋の神社に調査に行くような体たらくである。そもそも結婚式なぞ因習ぐらいに考えていたくせに、結婚式の写真がまるで犬神家であり、古き日本を復活させてしまったところをみても、根本的に者に即すというか偏するという習性がわたくしならびにわたくしの周囲で巻き起こることだ。この國で興ることはそういうことが多い。

どこかで白川静も「写すことが学問の第一歩」みたいなことをいってたし、写実主義は日本の文学の根幹をつくったが、結局は、偏執狂的な性格を後押ししている。「転向」現象ですら、そういう現象だったのではないかとわたくしは疑っている。

村上龍なんか、そんなことをはじめから分かっていて、無理やり物に即する代わりに、物を動かしたり物を壊したりする作戦に出ていたが、――結局、かれの本性は、「おれはちがうぜ」という反偏執みたいな偏執であって、まさにZ級やカルトに絶対にならないかわりに、「だいじょうぶマイフレンド」みたいな映画で自縄自縛に陥る。これはこれで、我々にはよくある話なのだ。

子供・賭・戦争

2023-10-22 23:32:38 | 思想


初六。童観。小人无咎。君子吝。

子供のように観る。小人であれば災難を免れ、君子であれば面倒なことになる。考えてみると、そうかもしれない。庶民が大人びてリーダーが子供っぽくなったときに一番まずいような気がする。戦争なんかのときにはまさにそうだ。

最近はじけている二つの戦争をみるに、そのそもそもの原因とされている起源的観念が虚妄であるとは言え、それとは関係なく、リーダーが子ども的であるときをついて、運命は民族の恥辱というものを生起させる。恥辱によって民族が延命するのは運命ではないのだ。滅亡もあり得るからである。

菊花賞というのがテレビでやっていたから、細と一緒にみてみたが、二人ともそもそも競馬がなんなのか全く知らない。わたくしなんかも、「みどりのマキバオー」と「ウマ娘」ではたくさんレースを観たが、きちんとレースを観るのは初めてだ。結局、スタートするまでの悠長な時間に堪えられずに、結局レースはみなかった。最近のテレビでみると、馬たちは実にいい体をしている。――つまり、わたくしは羞恥心をおぼえた。なんで実物の馬なんだよ、背中にひっついている生物誰だよ、半裸ではしらせんなよストリップかよという感想しか浮かばない。夕方やっていた競輪のほうはレースを観た。細く薄い機械に乗った生物の不安定なかんじ、非常に不安をかき立てるね。。。競馬は見ている側がパワーアップした気になる。

哲学者のなかには、競馬の哲学なんかをやっている人もいるし、文学者にも競馬を使う人や論じる人がいる。彼らは、しばしばそれを偶然性と賭けの本質に結びつける。わたくしの印象としては、ボートレースも含めて、どことなく虚実の皮膜を感じるところがこれらの競技である。たぶん、賭や偶然性は、虚構性をベースに生じる。戦争の時のように現実が賭狂っているときには、よのなかが夢心地になっていて、その中から出るのは難しい。

ときどき、一日めんぱを作り続けているのが俺の本体で、調子こいて授業でしゃべっているおれは虚構なんじゃないかと思う。先祖がそういう職人だったことを意識しているからかもしれないが、ときどき伝統とはこういう形で我々を襲うものである。卒業論文の頃、古本に囲まれてこたつでまずい茶を飲みながらしゃこしゃこ書いていた頃が、いちばんしっくりくる自分の姿で、それ以降はなにかおかしい。夢の中を漂っている気がする。たぶん、日常のなかで戦争が起こっているからである。

甘言考

2023-10-21 23:17:06 | 思想


六三。甘臨。无攸利。既憂之无咎。


甘言で相手に臨むと、何の得もないが、態度をあらためて災難はなし。

これは一般論として容易に実現可能と考えられるかもしれないが、そんなことはない。人手不足だかなんだかしらないが、大学なんかが学生の就職戦線そのものに対して甘言を弄している場合がある。何の手先になるつもりなのか、ご機嫌をとっているつもりなのかわからないのだが、大学生はそこまで馬鹿ではなく、甘言を弄している人間を基本的に馬鹿にするものである。むろん周囲にいる大人も馬鹿にしている。しかし、そういう態度を表明する人間は少なく、始まるのは「計算」である。狡賢い計算をしがちな人間をつくりだすのは甘言なのだ。そうやってなめられた人集め係はどうするかといえば、権力を欲する。

かくして、ブラックなので人が集まらないとか言われている職業は大概徴兵に近い人の集め方になってゆくわな。で、ほぼ兵隊だから死んで恋みたいなことになるから人不足になる、という悪循環がはじまり、何が原因か分からなくなってしまうのである。こんな簡単なプロセスも、所謂「現場」にいると分からなくなるのが人間である。

仕事のやり方にたいする甘言も、一見リベラリズムを装っていても人間の現実を無視している限り詐欺である。仕事は適当にやって人には優しくみたいな生き方はなかなか難しい。たいがい、仕事ができない即ち人を蔑視している、みたいなことになりがちだ。だからワークワイフバランスみたいな発想でやってたら人間関係、ひいては社会がますますぎくしゃくしてくるわけである。当たり前のことである。

弱者救済みたいな甘言も、弱者との共生をうたっていてもそうである。弱者をみんなで支えていこうという発想には、一見弱者とは言えないような者も含めた人間の根本的な弱さという事態をちょっとなめているところがある。精神的な「健康」もそうだけど「健康」であれば強いというものではない。

本当は、そういうことが分かっているからこそ、我々はフィクションを使って夢に逃避する。例えば、「ウマ娘」というアニメーションを少し見たが、――あまりに速く走りすぎたので骨折して安楽死させられてしまった現実の馬をアニメで死なせなかったのは、いい話であると同時に、過労死する人間のほうが、馬に近い現実を示していると思わざるをえぬ。我々は、文字を習いすぎた結果、こういうカラクリが、単に虚構で楽しんでいるだけだという認識がおおきく現実から遠ざかるものであることを忘れる。

ポール・フライシュマンの『マッチ箱日記』という絵本がある。イタリアからの移民の語り手が、子供時代、まだ文字が読めないとき、アメリカで野球をみた。それは嬉しかったと言うしかないものだったが、理由は父親と一緒に座っていられることと「働かなくていいだろ」ということであった。それは娯楽ではなかった。父親との休息だったのである。野球は文字を勉強することと同様に難しかったと彼は言う。彼は植字工となるが、彼の思い出を形作る日記は最後まで文字ではなく、記念の「モノ」であった。――もっとも、作者は、文字文化をありがたがっているようであるのだが。

わたくしは、この絵本を古本で買ったが、――前の持ち主が漢字に全てルビを振ってくれていた。そういえば、以前、わたくしは、資本ということばを使ったら共産党員と思われた。我々の世界はそんな世界である。

2023-10-20 23:07:37 | 文学


山の中腹から瀬戸大橋は夜中も架かっている。

こん からり
 足を踏み違えて橋詰から橋詰までこの音のリズムを続け通させるときは、ほんとにお腹の底から橋を渡った気がして、そこでぴょんぴょん跳ねて悦んだ。母親は「この子の虫のせいだからせいぜいやらしてやりましょう。とめて虫が内に籠りでもしたら悪い」そういって新しい日和下駄をよく買い代えて呉れた。たいがい赤と黄色の絞りの鼻緒をつけて貰った。
 こういう風に相当こどものこころを汲める母親だったが、私の橋のさなかで下駄踏み鳴らしながら、かならず落す涙には気がつかなかった。私は橋詰から歩いて行ってちょうど橋の真中にさしかかる。ふと両側を見る。そこには冷たい水が流れている。向うを見ると何の知合いもない対岸の町並である。うしろを観る。わが家は遠い。たった一人になった気がしてさびしいとも自由ともわけもわからぬ涙が落ちて来る。頭の上に高い太陽――こういう世界にたびたび身を染めたくて私は橋を渡るのを好んだのかも知れない。


――岡本かの子「橋」




2023-10-19 23:22:45 | 思想


初六。幹父之蠱。有子考无咎。厲終吉。九二。幹母之蠱。不可貞。九三。幹父之蠱。小有悔、无大咎。六四。裕父之蠱。往見吝。六五。幹父之蠱。用誉。上九。不事王侯。高尚其事。

父や母の不祥事をきちんと処理するとよいらしい。逆に父の不祥事に寛大である、すると出かけたときに面倒に会う。王公に仕えない、すると志を保てる。

こんなかんじなので、易経もなかなかやるではないかと思ってもみるのであるが、考えてみりゃ、占ってみなけりゃ、こういうなかなかやるではないかという思いもわいてこない。それは悪い事ばかりではない。占ったおかげで自分がなにか運を良き寄せた感じがでるし、実際、なにか運気というものは風に乗って運ばれてきそうな気がするわけである。これは漢字のしゃれにしては我々の実感とあう。

花袋の「一兵卒」を読むと、そこにはほとんどハイデガーに接近するギャンブル的な感覚があるのだが、それはなにか科学と衝突してしかも和解しそうな感覚である。つまり占いでなんとかなりそうではない世界なのである。死がそういう確実な、しかも科学によって穏やかにもなるかのように錯覚するみたいな世界がやってきたことは、われわれの心の世界を半分奪い去ったと思う。

日常生活でほんとに追いつめられれば自然に占いに入って行く人は多い。因果によっては幸福は訪れないからだ。しかし、追いつめられる程度が戦争のようなものになってしまうと死そのものがなにか幸福であるかのような最悪の突破口が勝手に開きはじめる。しかもそれは占うより前に必然性としてわれわれを縛るものである。

とりあえず、四書五経に易が入っていることに比べれば、わたくしのいらつきなどどうでもよいことにしておこう。

ことばの不在

2023-10-18 19:33:34 | 思想


今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。草莽崛起の人を望む外頼なし。されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし

吉田松陰がわりとすきな人には数人会ったことがあるが、なんだろ、どちらかというと永遠に崛起しないような人であって、明治時代の官僚みたいなかんじさえ思わせる。なぜであろうか。

これに対して、『馭戎慨言』なんかの影響は尊皇攘夷以上にあったのかもしれない。馭戎が宣長の造語だとして、ウクライナやパレスチナにこういう造語みたいなものは存在しているんだろうか。ことばに牽引される戦争というのも滅びつつあるのかも知れないが。モナリザが日本に来たとき、それに向かってスプレーを発射した方の評伝である、荒井裕樹氏の『凜として灯る』を読んだが、きわめて平坦に散文的というより心情描写的である。つまりこれはことばが後景に退いた本である。最近の草莽堀起の本はそういうものが多い。

頑張ってる、を価値の最上階に置いている人々がいまの日本を良くもわるくも支えているわけだが、これも行為の結果を問わないだけでなく、そこにはことばがないのだ。下準備とかを一年でやるべきところを五年かけて丁寧なふくらませかたすると、いかにも研究っぽくなる。が、実際の研究スピードは鈍るしなにか精神的に堕落するものがある。ここにもことばの不在という問題がある。宗教に限らず、ことばはそういう時間の引き延ばしを許さないはずである。人生一〇〇年なんかもことばに対立するものである。