犬の頭は撲地と落、さと濆る鮮血の勢ひ、五尺の紅絹を掛たるごとく、激然としてその声あり、聳然として立冲る、中に晃く物こそあれ、と左手を伸して受留れば、鮮血の勢ひ衰へて、遂に再び濆らず。信乃は霤る刃の水氣を、袖に拭ふて、遽しく、鞘に納めて腰に帶、彼切口より出たる物を、濃血拊除てつらつら見るに、是なん一顆の白玉也。その大さ豆に倍して、紐融の孔さへあり。
犬の頭を切り落とすと、さ、と血潮が迸る。五尺の赤布を掛けたような勢いで、激しい吹き出す音と高くたちあがるそのなかに光り輝く物があった。受け止めると血が止まる。
――なんじゃそりゃ?数珠の玉は蛇口かっ。それにしてもすごい血潮である。もはやタランティーノの映画の血潮のごとし。馬琴のセンスが面白いのは、ここまで気合いの入った描写をしておきながら、その玉は「豆に倍して」と、ここでお豆さんがでてくるところがなんかかわいい。というか、馬琴の文章のなかには案外我々の小世界が突然紛れ込むのである。
寺田寅彦は、ディオゲネスの『哲学者列伝』を引いて、ピタゴラスが守っていた「豆を食べちゃだめ」という戒律について紹介している。
またアリストテレスの書物を引用して、「豆は生殖器に似ているから、あるいはまた地獄の門のように、ひとりでつがい目が離れて開くから」ともある。何のことかやはりよく分らない。それからまた「宇宙の形をしているから」とか「選挙のときの籤に使われる、従って寡頭政治を代表するものだから」ともある。
――「ピタゴラスと豆」
よくわからんが、恐ろしい博覧強記にもかかわらず、八犬伝というのはある種の行き詰まりを見せている書物なのかもしれなかった。やはり近代の衝撃で馬琴の世界は、上のような滅茶苦茶な世界に直面したのであった。狂気は明らかに後者にある。
今日、日本を代表する漫画家であろう吾妻ひでお氏が亡くなったが、氏の漫画の所謂「シュール」なものは、一体いかなる想像力だったのであろう?わたしはあまり読んでないので、はっきりとは言えないが、吉田戦車みたいな狂気を相対化するようなやり方の一歩手前で、立ち止まっていたような気がする。吉田戦車の向こうには松本人志とか、もっと向こうには「すごいよ!マサルさん」みたいな日常への帰還までがあるのだが、それはある意味、漫画にあった暖かく狂った「世界」を棄てることであった。それを棄てずにやれるとれば……、これは非常に難しい道だったに違いない。
ある意味で、吾妻氏のマンガは、八犬伝の豆を否定した「ピタゴラスの豆」だったような気がする。