
いみじう恐ろしうこそはべりしか。納殿にある御衣取り出でさせて、この人びとにたまふ。朔日の装束は盗らざりければ、さりげもなくてあれど、裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず。
大晦日に宮中に強盗が入った。現場に紫さんがかけつけてみると、二人の女房がはだかで転がっている。恐ろしい出来事であった、しかし、中宮が衣装倉から衣装を取り出してあたえた。正月の服は盗られなかったから――「さりげもなくてあれ」(何事もなかったような顔でいた)そうである。ここらあたりでもう笑いの因子が動き出している。何か彼らの言葉でもあればそうでもないのだが、そのさりげない様子が逆に昨日の様子を呼び寄せる。で、「裸姿は忘られず、恐ろしきものから、をかしうとも言はず」なのである。おかしいとも言えないために余計「おかしい」わけである。
ここらで嗤うのをやめとけばいいのに、芥川龍之介「女体」なんかになると、虱になって女体を睥睨する世界が展開する。ほとんど志村けんの「バカ殿」の世界であるが、志村のものよりよほどいやらしい。そしてもっと馬鹿馬鹿しく真剣である。
おそらく我々の世界は行動の世界の幅を想起出来なくなっている。つまり自由がないと、泥酔したクズ親父やどうしようもなくヒステリックなおばさんとかというありえない「典型」に対する反省だけでなく、人間のちょっとしたいらいらみたいなものや悲しみに対する感度を失ってしまうのだ。ハラスメントに対する意識が向上したこと自体は進歩のようにみえるが、それは自由の増大とセットになっていなければならなかった。目を背けたくなる様々な人間の様態をみることをやめ、コミュニケートもしなくなっているのに、倫理だけを守れるというのは人間の場合幻想である。
――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が出来たのである。
しかし、芸術の士にとって、虱の如く見る可きものは、独り女体の美しさばかりではない。(「女体」)
おもうにここは「しかし」で接続すべきところであったろうか?