最近、仲代達矢主演の「帰郷」をみた。藤沢周平の原作で、舞台は木曽福島である。というより木曽福島の八沢が主たる舞台で、わたくしが生まれ育ったところである。なるべく木曽福島ににせてがんばってつくってはいたが、ヤクザもんの主人公とその娘のいる八沢の家が、ちょっと地理的にちがう感じである。八沢はどちらかというと、江戸期には漆器産業の職人長屋街だった。映画では一応漆器作りの職人の家になっていたが、家の感じがどこかの農家に似ていた。たしかに、そこは物語的に、――30年ぶりくらいに?戻ってきた親父と父親をしらない娘の修羅場を、職人長屋でやらかすのはあまり感心しない。まわりの家から人が押しかけてしまうかもしれない。
おもしろかったのは、老いた主人公が昔の悪友(いまはヤクザの親分)を斬り殺す場面で、コミカルな老人のチャンバラがあったことだ。これはもう少しでチャップリンのそれみたいになりそうであった。「モダンタイムス」で、チャップリンが機械に巻きこまれてゆく滑稽な場面があるが、これは機械文明以上に、チャップリンの本質を表していて、彼の動きはある種の機械の動きなのである。いまも、人間的なものと生成変化をむすびつける論者も多いが、我々は機械に生成変化しかかかっている。
我々は論理とかいいながら、好き勝手なことを機械的に口に出すようになっている。論理とは機械である。わたしは、パラフレーズとか要約の作業に人間的なものが残ってゆくのだと思う。これこそがコミュニケーションを成立させるもので、そのじつ論理なんてのはその一側面にすぎない。
例えば、学生のレポートは、読んでむしゃくしゃしながら成績つけることがあり得るが、これは機械的な反応だ。その前に、きちんと学生にむけたコメントを書いてみるといいというのが私の経験である。そうすると学生の言いたいことがわかることがある。むろん、言いたいことがわからなくなってしまう場合もある。これは研究においてもそうであるはずで、そうやって誤解している論文が大量にあるかもしれない。ネットでは一部の表現に脊髄反射しがちと言われてるけど、本や論文にたいしても基本的におなじようなことはあって、自分なりに対象をパラフレーズする作業がものすごく大事だとわかる。意見をつくるために読書するのです、みたいな、――「中学国語」みたいなことをやっているからやべえのである。
だいたい意見というのは論理的に導き出した者であるといことは、――「感情的」だということである。ある感情に基づかなければ、論理は一貫しないという自明の理を忘れたところに、論理は成立する。ネットではすべてが過激に大げさになってしまう、と言われるが、学歴差別や偏差値による大学差別や男女差別や障害者差別とかその他もろもろの、現実のそれは、文字に表せないほどものすごいものであることを忘れてもらっては困る。それとの戦いが不可能なほどひどいのである。だからネットに「論理=感情」が流れてしまうのだ。
国語の先生はなんとなく感じているとおもうが、――国語を崩壊させているのは歴史の授業の質的変化もひとつの要因である。大学生のレポートみても、歴史観がものすごく奇妙だ。これはネトウヨとか新しい歴史教科書の影響とか、そういうことじゃなく、もっと根本的な、言葉中心史観みたいなものの浸潤である。たとえば「高度成長でみんな希望を持ててた」みたいなのをほんとに信じちゃう類い。これをやられると、国語は崩壊する。言葉には背後の何かが必要だという自明の理をわすれたものはもはや国語ではない。英語と国語を並列的にできるとかいう意見もわからなくはないが、背後にあるものの問題でそれは問題外だとわかる。コミュニケーションは言葉でやってるのではないのである。英語には背後の権力が存在しているではないか。