★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

水の女

2022-08-31 23:20:52 | 文学


まだ夢をむすばぬうちに。火もへし車に。女弐人とり乗て。飛くるを見るに。正しく傳助が女房也。是を押て。焼かねあつるは。我なれし。ひさが姿の替る事なし。今ぞおもひを晴申しけるぞと。いふ声をばかりして消ぬ。三月十一日の事なるに。日も時も違はず。若狭にて一声さけびて。むなしくなりけるとや。

海から井戸へ、すると空からやってくる。これは水の女である。

転向

2022-08-29 23:38:25 | 文学


おふねは浦々めづれば。家中の舟は磯にさしつけ。阿波嶋の。神垣のあたりまでも荒し。若き人々。酒興せしに。俄に高浪となり。黒雲立かさなり。長十丈あまりの。うはばみの出。鱗は風車のごとし。左右の角枯木と見えて。くはゑん吹立。山更にうごくと見て。いづれもさはぎけるに。間近くきたりしに。御長刀にて拂ひたまへば。おそれて跡にかへる。大うねりして。小舟は天地かへしてなやみぬ。沖より十弐人乗し。小早横切に押と見えしが。蛇蝎一息に呑込。身もだへせしが。間もなく跡へぬけて。汀に流れつきしを見るに。残らず夢中になつて。かしら髪一筋もなく。十弐人つくり坊主となれり。

怪物に飲み込まれてでてきたときにはみんな恐怖の余り坊主になってました、という「十二人の俄坊主」。世の中には、十二人の怒れる男とか、ほかにも十二人の話がいろいろあったような気がするが、十二人の怒れる男たちの場合、人間性の変化というより、人生が明らかになることで空気が徐々にかわってゆくお話であって、中学か高校のときだったか、ある劇団がきて上演していったのをいまもおぼえている。最後に、不良息子を抱えた親父が「転向」することでようやく全体の意思表示も覆る。この話し合いをリードした男の我慢強さに思春期のわたしはびっくりしたが、――当時の教師をはじめ、最後の親父の「転向」であるとみていたようだ。わたくしはそりゃそうなんだが、こういう親父は人に言われなきゃ「転向」はしないんだがな。。。とわたくしは思った。しかし、この親父が馬鹿だとは思わない。いろいろ考えて「転向」したことは確かである。

「転向」とは、なんだか権力や空気が怖ろしいから日和ったというより、ある種の理詰めでうんうん唸ってぎゅいんと曲がってた、みたいなものが多いのだ。戦後の「転向」論議は、たいがい「転向」者の内的な経験をなめている。吉本隆明ですらそうであった。吉本は種々の理論的試みにくらべて「転向論」はだめな部類に入ると思うのだ。同時代人としての感覚を軽視するわけにはいかないが、なぜみんなあっさりとしているのかちょっと不思議である。

思うに、我々の「転向」は大概「堕落」であり、上昇ではない。安吾は――かいていないけど、そこら辺は自覚していて「淪落」ではなく「堕落」の人として戦後のヒーローになった。下降的なセンスというか、進んでそういうところに行きたがる人が多いのが昔から不思議であったが、最近気付いたのだのだが、重力だ。草葉の陰に下降してゆく重力が我々を縛っている。この感覚は、自分の思考さえも重力の結果として認識させてしまうのではなかろうか。

学校とパンドラの箱

2022-08-28 23:45:17 | 文学


所の馬かた四五人。此女良をしのび行て。うき世の事どもを語りつくして。情といへど。取あへずましませば。荒男の無理に。手をさしてなやめる時。左右へ蛇のかしらを出し。男どもに喰付て。身をいためる事。大かたならず。何れも眼くらみ。氣をうしなひ。命を不思義にのがれ。其年中は。難病にあへり。其後はのり物。芥川にありともいへり。または松の尾の。神前にも見へ。つぎの日は。丹波の山ちかく行。片時も定めがたし。後にはうつくしき禿に替り。または八十余歳の翁となり。或は㒵ふたつになし。目鼻のない姥とも成。見る人毎に。同じ形にはあらず。是に恐れて。夜に人里の通ひもなく。世のさまたげとなりぬ。

沖田瑞穂氏が最近『怖い家』という本を書かれてて、閉鎖空間の神話的意味について論じていたが、確かに、箱というのはすべてパンドラ的な不気味さがあるものだ。美女が乗っていたのでイジワルしよう思ったら蛇が出てきてかみつかれ、少女になったり翁になったり、目鼻のない姥になったり、ひとによって見え方がちがうし、場所もちがったりするのであった。もっとも、この乗り物は摂津から京にかけての街道にあった。不気味なのは動く箱であった。安部公房の箱の先駆である。しかし、本当に怖いのは移動しない箱であって、家も監獄も〈怖い家〉の一種である。

学校もそうである。

昼間テレビ見てて、なにかの教団の内部を取材したドキュメントかと思ったら、どこかの小学校だった。こんな職場が平気な人間は意外とすくないぞ、、、、。わたくしは、ずっと学校のブラック化は部活問題に矮小化されちゃだめだと主張している。原因は世間や文科省であっても、問題は職場全体が精神の自由みたいなものを排除して成り立っている場合が多すぎることだ。これはわれわれの社会が望んでこうなった側面が大きい。児童たちは、よくあんな猫なで声の大人に耐えられるな、小学生のおれだったら一気に登校拒否だ、と思うが、――案外上手くいっているという点が重要である。児童たちも社会の(――というより、社会に対してすら閉じている「家庭」の)産物で、彼らが学校を強制している側面を看過していては議論は始まらない。

大学の教員養成がこの20年ぐらい、教員養成に特化したような教育に舵を切ったことと現場のブラック化は関係があると思う。そもそも、なんでも「特化」するとブラック化するにきまっているのである。外部との関係が失われるわけだから。教科書をおしえるためには、教科書の外部が分かっていないと駄目で、それがないのにおしえりゃ、そりゃ教室がある種の宗教に似てくるのは、当たり前の話である。所詮学校は学校に過ぎず、適当にくぐり抜けなければ大変なことになるくらい、教育の歴史をちょっとでも勉強すればわかるはずである。そういうことを知ることと教師として一生懸命やるのは全然矛盾しない。しかし、教員がこれを矛盾と感じるようなロボットになってしまっては、もはやおしまいというほかはない。別に終わる訳じゃなく、地獄が天国的に続くだけだ。

でも外部を失わないようにとかいうと、世間知らずにならんように社会に一回出てこい、とか無意味な意見が叢生するにきまっている。なぜ無意味かといえば、社会は学校よりも狭い箱であって、そこには子どもという外部すら存在しない、パンドラの箱であるからである。大きい箱が小さい箱よりも外側にあるとは限らない。パンドラの箱とは、社会のような箱が閉じ込められているがゆえに、一度あけたら一気に外部面するやっかいな箱である。たいがい、「家庭」のような閉鎖空間でのルサンチマンが、一気に投影されうるのが社会で、まだ学校はその次だ。先生の存在には、社会が家庭の攻勢で崩壊するのを防いでいる側面だってあるのである。このまえの暗殺事件は社会に対するテロであるが、わたくしには、時々ある学校へのテロの方が厚い壁を乗り越えているように感じられる。わたくしはむかしから、学校に対するテロと社会に対するテロとを比較してものを考えるべきだと思っている。

狐の威力

2022-08-27 23:45:11 | 文学


俄坊主になし、姫路にかへれば、門兵衛・内儀も姿をかへてありし。様子聞きて悔やめども、髪は生えずしてをかし。


「狐四天王」のお話、弦楽四重奏のような構成で、姫を殺された狐四天王の復讐は、すべて人間の頭を丸めてしまう。それを「をかし」で閉めてしまう西鶴に迷いなし。これに比べると、近代人は何かひねりを加えておかないと納得しない。

雨ふり坊主フリ坊主
 田圃もお池も一パイに
 ドッサリ雨をふらせろよ」
 太郎はその手紙を丸めて坊主の頭にして、紙の着物を着せて、裏木戸の萩の枝に結びつけておきました。
 その晩、太郎の家で親子三人が寝ていると、夜中から稲妻がピカピカ光って雷が鳴り出したと思うと、たちまち天が引っくり返ったと思うくらいの大雨がふり出しました。
「ヤア、僕の雨ふり坊主が本当に雨をふらした」
 と太郎は飛び起きました。
「僕はお礼を云って来よう」
 と出かけようとすると、お父さんとお母さんが、
「あぶない、あぶない。今出ると雷が鳴っているよ。ゆっくり寝て、明日の朝よくお礼を云いなさい」
 と止められましたので、太郎はしかたなしに又寝てしまいました。
 あくる朝早く起きて見ると、もうすっかりいいお天気になっていましたが、池も田も水が一パイで皆大喜びをしていると、田を見まわりに行っていたお父さんはニコニコして帰ってこられました。そうして太郎さんの頭を撫でて、
「えらいえらい、御褒美をやるぞ」
 とお賞めになりました。
「僕はいりません。雨ふり坊主にお酒をかけてやって下さい」
 と云いました。
「よしよし、雨ふり坊主はどこにいるのだ」
 とお父さんが云われましたから、太郎は喜んで裏木戸へお父さんをつれて行ってみると、萩の花が雨に濡れて一パイに咲いているばかりで、雨ふり坊主はどこかへ流れて行って見えなくなっていました。
「お酒をかけてやると約束していたのに」
 と太郎さんはシクシク泣き出しました。
 お父さんは慰めながら云われました。
「おおかた恋の川へ流れて行ったのだろう。雨ふり坊主は自分で雨をふらして、自分で流れて行ったのだから、お前が嘘をついたと思いはしない。お父さんが川へお酒を流してやるから、そうしたらどこかで喜んで飲むだろう。泣くな泣くな。お前には別にごほうびを買ってやる……」


――夢野久作「雨降り坊主」


ここまでひねられるとてるてる坊主のありがたさがどこかに流れてしまう。そもそもこの太郎とお父さんはどのような容姿なのであろうか。せめて太郎は坊主頭であって欲しいものである。二葉亭の頃から、容姿の描写をやめて表情の描写にうつっていったが、これの果てにアニメーションの世界があった。彼らの衣装はいろいろあるが、基本、仮面のような顔に表情が表れるほうが重要である。「耳をすませば」なんか、初めて観たときからあまり好きじゃなかったんだが、やっぱあれは東京を中心とした世界のにおいだと思う。あれが少しずれると大江健三郎の「セブンティーン」になるんだよ。自由は、葛藤を悩みにかえ、気分の推移が悩みを解消させる。しかし人生が決定的に変化する状態に立ち至ると「転向」しないといけなくなってしまう。「セブンティーン」に起こったのはこっちである。存在していないのは人を強要する外部である。東京を中心とした我々の生態の最後の砦は〈父〉だった、この二つの作品には〈父〉はない。キャリア形成があるだけだ。

狐は父よりも強要する力があったということであろう。「狐四天王」は、姫を殺したやつの親族まとめて攻撃したのである。

言論と腕押し

2022-08-26 23:15:39 | 文学


「さらばうでおし」と、両人まけず、おとらず、三時あまりも、もみあへば、短斎も中に立ち、両方へ力を付けて、かけ声雲中に、ひびきわたつて、三人ながら姿をうしなひて、この勝負しつた人もなし

「雲中の腕押し」は不思議な話だが、好きな話である。戦とは殺し合いであるが、もと戦人とはおもえぬ仙人?たち。腕相撲をしながら箱根山中から雲の中に消えてゆく。

ツイッターなどの戦場がダメなのは、つい殺し合いを「ブロック」とか言うから罪悪感がでちゃっていらいらするのであった。「絶交」とか「今生の別れ」とか「おいそこの汚え手を引っ込めろ」とか言えばいいのだ。殺し合いをなんらかの形でなんとかする技術は、日本で長年工夫されてきたのだ。それをシステム上喧嘩しないようにコントロールできると思っているなど、明らかに頭が悪いのではなかろうか。

私は腕相撲などはメッタにやったことがないが、終戦直後、羽織袴で私のところへやってきた右翼の青年の集りの使者の高橋という青年(今、私の家にいる)、これも柔道二段らしいが、これをヒネッて、その時以来、腕相撲では気をよくしていたせいだ。
 この高橋は、私のところへ講演をたのみに来たのである。右翼青年の集りが拙者に講演をたのむとは憎い奴め、ウシロを見せるわけにはいかないから、当日でかけて行くと、二十人ぐらいの坊主頭の若者どもが小癪な目をして私をかこんで坐る。この小僧めらが、と思ったから、天皇制反対論を一時間ばかり熱演してやった。歴史的事実に拠ってウンチクを傾けたのであるが、ウンチクが不足であるから、ちょッと傾けると、たちまちカラになる。こんな筈ではなかったが、と、あっちのヒキダシ、こっちのヒキダシ、頭の中をかきまわして、おまけに話しベタとくる。闘志は満々たるものだが、演説の方は甚だチンプンカンプンであったらしい。


――坂口安吾「熱海復興」


安吾は徹底的に地上にこだわる人なので、ちょっとでも地上から浮き上がろうとする右翼青年に腕相撲で挑んだ。しかし、そのまえにちゃんと演説をやっている。そういえば、「雲中の腕押し」でもかなり仙人たちの昔話が多かったようだ。いまは、いきなり言論で戦おうとする怖い人ばかりだ。

自明の理

2022-08-25 23:04:18 | 映画


最近、仲代達矢主演の「帰郷」をみた。藤沢周平の原作で、舞台は木曽福島である。というより木曽福島の八沢が主たる舞台で、わたくしが生まれ育ったところである。なるべく木曽福島ににせてがんばってつくってはいたが、ヤクザもんの主人公とその娘のいる八沢の家が、ちょっと地理的にちがう感じである。八沢はどちらかというと、江戸期には漆器産業の職人長屋街だった。映画では一応漆器作りの職人の家になっていたが、家の感じがどこかの農家に似ていた。たしかに、そこは物語的に、――30年ぶりくらいに?戻ってきた親父と父親をしらない娘の修羅場を、職人長屋でやらかすのはあまり感心しない。まわりの家から人が押しかけてしまうかもしれない。

おもしろかったのは、老いた主人公が昔の悪友(いまはヤクザの親分)を斬り殺す場面で、コミカルな老人のチャンバラがあったことだ。これはもう少しでチャップリンのそれみたいになりそうであった。「モダンタイムス」で、チャップリンが機械に巻きこまれてゆく滑稽な場面があるが、これは機械文明以上に、チャップリンの本質を表していて、彼の動きはある種の機械の動きなのである。いまも、人間的なものと生成変化をむすびつける論者も多いが、我々は機械に生成変化しかかかっている。

我々は論理とかいいながら、好き勝手なことを機械的に口に出すようになっている。論理とは機械である。わたしは、パラフレーズとか要約の作業に人間的なものが残ってゆくのだと思う。これこそがコミュニケーションを成立させるもので、そのじつ論理なんてのはその一側面にすぎない。

例えば、学生のレポートは、読んでむしゃくしゃしながら成績つけることがあり得るが、これは機械的な反応だ。その前に、きちんと学生にむけたコメントを書いてみるといいというのが私の経験である。そうすると学生の言いたいことがわかることがある。むろん、言いたいことがわからなくなってしまう場合もある。これは研究においてもそうであるはずで、そうやって誤解している論文が大量にあるかもしれない。ネットでは一部の表現に脊髄反射しがちと言われてるけど、本や論文にたいしても基本的におなじようなことはあって、自分なりに対象をパラフレーズする作業がものすごく大事だとわかる。意見をつくるために読書するのです、みたいな、――「中学国語」みたいなことをやっているからやべえのである。

だいたい意見というのは論理的に導き出した者であるといことは、――「感情的」だということである。ある感情に基づかなければ、論理は一貫しないという自明の理を忘れたところに、論理は成立する。ネットではすべてが過激に大げさになってしまう、と言われるが、学歴差別や偏差値による大学差別や男女差別や障害者差別とかその他もろもろの、現実のそれは、文字に表せないほどものすごいものであることを忘れてもらっては困る。それとの戦いが不可能なほどひどいのである。だからネットに「論理=感情」が流れてしまうのだ。

国語の先生はなんとなく感じているとおもうが、――国語を崩壊させているのは歴史の授業の質的変化もひとつの要因である。大学生のレポートみても、歴史観がものすごく奇妙だ。これはネトウヨとか新しい歴史教科書の影響とか、そういうことじゃなく、もっと根本的な、言葉中心史観みたいなものの浸潤である。たとえば「高度成長でみんな希望を持ててた」みたいなのをほんとに信じちゃう類い。これをやられると、国語は崩壊する。言葉には背後の何かが必要だという自明の理をわすれたものはもはや国語ではない。英語と国語を並列的にできるとかいう意見もわからなくはないが、背後にあるものの問題でそれは問題外だとわかる。コミュニケーションは言葉でやってるのではないのである。英語には背後の権力が存在しているではないか。

平凡さと奇妙さ

2022-08-24 23:00:12 | 文学


其の跡に通るものを、「何」と聞くに、「是は正しく、鳥類なるが、おのが身を大事がる」といふ。 また見に行くに、行人、鳥足の高あしだをはきて、道をしづかに歩み行く。 さてもさてもあらそはれぬ事ども也。「とてもなぐさみに、今一度ききたまへ」と、いづれも虫籠をあけて待つに、道筋も見へかね、初夜の鐘のなる時、旅人のくだり舟に、乗りおくれじといそぐ風情。 二階のともし火に映りて見るに、一人は刀・脇指をさして、黒き羽織に、すげ笠をかづき、今一人は、挟箱に酒樽を付けて、あとにつづきて行く。 「あれを」とへば、「弐人づれ也。壱人は女、一人は男」といふ。 「宵からの中に、是計りが違ひぬ。我われ見とめて、なる程大小迄さして、侍衆じや」と申す。 「いな事也。女にてあるべし。おのおのの目違ひはなき」と申せば、又人を遣はし、様子を聞かせけるに、樽持ちたる下人に少語は、「夜舟にて、其の樽心掛けよ。酒にはあらず、皆銀也。夜道の用心に、かく男の風俗して、大坂へ買物に行く」と申す。 よくよく聞けば、五条のおかた米屋とかや。

一種のゲームを思わせる話であるが、鳥足の高あしだの男が出てから俄然不思議な感じになる。そのあとの虫籠窓の中の男たちがみえ、なんだか妙な空間に入り込んだ感じである。そこでは男に見えるものが女である。酒ではなく銀である。女は米屋の女主人である。。。

研究は、平凡さのなかに奇妙さを見出すことで、これは物事を疑うよりも難しい。疑うことなら、小学生だってつねにやっている。しかし疑うだけだから、そのものは変わらず、平凡さを受けいれるしかなくなる。その苦行は、コンプレックスとなってあらわれる。かように、勉強にコンプレックスをもつように教育されてしまうと、なかなか自分に対する研究も、世の中に対する研究にも踏み切れず、つねに「学びつづける」ことになる。生涯教育って、もちろんその危険性があるわけだ。得た情報のゆらぎとして何かがおこる可能性はつねにあるけれども、われわれはもっと機能が悪い機械だと考えておいたほうがよい。心はやはり情報処理の部位とはちがうところにあるのではなかろうか。

勉強に熱中できるひとというのは、自分の姿が消える人だ。しかし研究の人はちがう。とにかく、パソコンかしゃかしゃやってる自分の姿を思い浮かべただけで不気味すぎていやになるタイプである。メタバースとやらをやってる俺の姿はもはや木曽馬のカワイイ馬糞レベルである。これに耐えられる人の心とは何であろうか。

一部で、人事のときに学歴ではなく経験がものを言うようになるのだという説が囁かれていた。一見、深そうな議論に見えるが、勉強をさぼって虫取りしてましたみたいな子どもが常に偉大であるわけではなく、むしろ怠け者のボンクラである。ほんとに、自己欺瞞も巧妙になりすぎて疲れる世の中である。もっと堂々とした世の中になってもらわないと困る。わたくしは経験といったら、ただ「純粋経験」に限ると言いたいくらいである。西田幾多郎も受験では苦労したから劣等生の味方に違いない。――そんなわけないだろう。

もうはじっている何もかも

2022-08-23 23:18:02 | 思想


エマニュエル・トッドの「第三次世界大戦はもう始まっている」を少し読んだ。以前、「なんとかはなかった」という誤解しか生まないような著作を書いたヨーロッパの有名な学者がいたが、こういうのは評判悪いから、これからは「もう始まっている」がいいな。確かに、なんでももう始まってはいるからな。。。

分身とぬいぐるみ

2022-08-22 23:02:58 | 文学


高校のころ、家で手乗りインコを肩に乗せて楽しく生活していた。ときどきインコがウンコする。だからわたしはいまでも蝉からおしっこかけられてかえって嬉しかったりするのではないだろうか。できれば細も肩に乗せたいくらいである。

というのは、冗談だとしても、我々は自分をつくるために、自分と二重写しになりうる何かを必要としている。宇佐見りん氏がぬいぐるみかかえて執筆したらいい調子とおっしゃってたが、わたしもむかし左肩にネズミのるいぐるみくくりつけて書いたらけっこうよかった。この変態がと思われるのは百も承知であるが、執筆というのはかくも狂っている行為なのである。わたくしは、小学校の絵日記というのは、けっこうよい手段だと思うのだ。自分の分身を定着出来るからだ。文字では無理なのである。高校の非常勤してたときに、あるクラスの子達がみんな鞄に隠せるぐらいのぬいぐるみ持っててそのときにはちょっと馬鹿にしてたけど、あれは友達というか分身というかトーテムというか、なんなんだろうね。。。

芥川龍之介もドッペルゲンガーに恐怖してないで、ぬいぐるみもって書けばよかったのではないかと、いまは本気で思っている。

ラ・モオルは、――死と云ふ仏蘭西語は忽ち僕を不安にした。死は姉の夫に迫つてゐたやうに僕にも迫つてゐるらしかつた。けれども僕は不安の中にも何か可笑しさを感じてゐた。のみならずいつか微笑してゐた。この可笑しさは何の為に起るか?――それは僕自身にもわからなかつた。僕は久しぶりに鏡の前に立ち、まともに僕の影と向ひ合つた。僕の影も勿論微笑してゐた。僕はこの影を見つめてゐるうちに第二の僕のことを思ひ出した。第二の僕、――独逸人の所謂 Doppelgaenger は仕合せにも僕自身に見えたことはなかつた。しかし亜米利加の映画俳優になつたK君の夫人は第二の僕を帝劇の廊下に見かけてゐた。(僕は突然K君の夫人に「先達はつい御挨拶もしませんで」と言はれ、当惑したことを覚えてゐる。)それからもう故人になつた或隻脚の飜訳家もやはり銀座の或煙草屋に第二の僕を見かけてゐた。死は或は僕よりも第二の僕に来るのかも知れなかつた。若し又僕に来たとしても、――僕は鏡に後ろを向け、窓の前の机へ帰つて行つた。

――「歯車」


第二の僕とは、芥川龍之介そのものだったのだと思う。このような分身問題が深刻なのは、我々に限らず、近代の文章は、一種の言文一致を目指していて、分身をそのままにしておくことが出来ない。大学院の頃だったら、むしろ新しい文語をつくるんだみたいな意識があった。分身というより自分の芸術的彫刻をつくっているかんじである。まわりにもそういうのがいたとおもう。しかし、世の中うまくいかないもので、心にもないことをいう文体というものに彫刻がなってしまうことがある。

不思議なことに、何もしてないのに、昨年よりとても文体がねじ曲がった感じになった。柳田と折口のせいかもしれない

艶笑的テロリズム

2022-08-21 23:56:51 | 文学


おのおのこはやと、談合して、指折の娘どもを集め、それか是かとせんさくする。未白齒の女泪を流し、いやがるをきけば、「我我が、命とてもあるべきか」と、傘の神姿の、いな所に氣をつけて、なげきしに、此里に色よき後家のありしが、「神の御事なれば、若ひ人達の、身替に立べし」と、宮所に夜もすがら待に、何の情もなしとて、腹立して、御殿にかけ入、彼傘をにぎり、「おもへばからだたをし目」引やぶりて捨つる。

これは艶笑譚として有名な「傘の御託宣」である。処女たちがこんな傘に捧げられるのはいやです殺す気ですか、といったところ、未亡人が「神様のことなのでわたくしが身代わりに行きます」といって、傘のモトにいったが何も起きないので、「考えてみたら見かけ倒しじゃねえか」と言って傘を引きちぎったという結末である。そもそも、どっかとんできた傘を神様にしてしまった村人が一番狂っているのだが、それをシモの隠喩のほうから暴いた未亡人は素晴らしい。――というより、日本の神様信仰というのは、そもそも、柱、そういえば性的なイメージだなあ、と、こういうところがありながらのものであって、別にここで何かが破壊されたわけではない。むしろ、日本の通常運転なのである。確かに、表現そのものは近世らしいのかも知れないが。。

思うに、このような打ち壊し的な神殺しは、テロ的なのかも知れない。破壊することでしか、価値が動かない。これは権利のための行動、パルチザン的なものとはちがう。我々の国はやはり、内戦と全体主義のくり返しをまだ続けているのである。これでは、侵略戦争への抵抗など夢のまた夢である。太平洋戦争のときもそうで、われわれの戦争のやりかたはテロ的だったのだ。愛国心は基盤に権利のための行動が横たわっていないといけないのだ。以前、シラスの仏教講座で、仏教には否定の契機が基盤にある宗教で、かならず肯定の思想に敗北する、ということを聞いた。たしかにそうかもしれない。

否定の契機と停止の契機はたぶん、文脈によってかわるだけで、おなじものだ。われわれは貶し言葉として「思考停止」とよく言うけど、自分でもそれを経験したことがあるから言っているのである。しかし、実際、文字通りの「思考停止」なんていうのはどんな石頭でも起こっていない。いわゆる思考停止の思考運動様態みたいなのというのは面白いテーマだだ。

柄谷行人の「日本近代文学の起源」は、一種の伝統創出行為であった。なまのままの現実は滅亡の危機にある。だから、制度的なものであったということで復活させるのである。ある意味ルネサンス的な思考である。江藤淳になく柄谷にあったのはそういう衝動である。それに無自覚なアカデミシャンはかれの方法を系譜学とかいって真似たが、この両義性をよく分かっていなかったのかもしれない。そもそも我々には、否定や肯定などというものが思考の実態として存在するのであろうか。

伊勢田哲治氏の「フィクションはいかにして理由つきの主張を行うか」で、映画「スターシップ・トルゥーパーズ」は、反ファシズムという作り手の主張を必ずしも実現していないとみている。映像を主語とすると、述語たる意図がなかなか機能しがたい。しかし、それは主語や述語が映像にきちんと合わさる概念であればの話である。エイゼンシュタインの時代から問題だったそれはいまだに問題である。

日本の夏、敗退の夏(2022)

2022-08-20 23:44:44 | ニュース


わたくしはいろんなところを放浪してきたので、沢山の心の故郷を持っている。甲子園大会はその心の戦いである。太字は心の故郷を表している。

木曽青峰 1-6 上田西……(T T)

高松商(香川)14-4佐久長聖(長野)……そりゃねえよ、だれだよこの組み合わせ考えたの。。高松に清原連れてくんじゃないと(くどい)

愛工大名電(愛知)2ー6仙台育英(宮城)……予備校行っただけの愛知、正直どうでもいい

●天理(奈良)2-1山梨学院(山梨)……田舎もん同士、誠にお疲れ様です。

明秀日立(茨城)4-5仙台育英(宮城)……東北地方同士、誠にお疲れ様です。

高松商(香川)2-1九州国際大付(福岡)……あれっ、もしかして強いのでは?

高松商(香川)6ー7近江(滋賀)……近江と言えば、義仲殿が討ち死になさった場所。田んぼが凍らないとか、どんだけ空気が緩んでいるのだ決して許さぬ。

●ヤ 9 - 7 中……リアル・ドベゴンズではないか

……すべて負けました。

天井に四つ手の女あり

2022-08-19 23:56:29 | 文学


あたりを見れば、天井より四つ手の女、㒵は乙御前の黑きがごとし。腰うすびらたく、腹這にして、奥さまのあたりへ寄と見へしが、かなしき御聲をあげさせられ『守刀を持て、まいれ』と仰けるに、おそばに有し蔵之助とりに立間に、其面影消て、御夢物語のおそろし。我うしろ骨とおもふ所に、大釘をうち込と、おぼしめすより、魂きゆるがごとくならせられしが、されども御身には何の子細もなく、疊には血を流して有しを

西鶴はどちらかというと瞬間的な冴えの人のような気がする。「見せぬ所は女大工」でもこういうところがすごくうまくて、オチがかすむほどである。西鶴にもなんだか不思議なミソジニーがありそうだとは思う場面でもある。

われわれはしかし、瞬間の独特さが、どのように人生に影響するか考えてきた文化の中で生きている。そういえば、むかし「テロは瞬間だが未来を照らす」とか言ってたお兄さんたちがいたけれども、なんというか――テロは割と昔から過去を照らすよね。。今回も、照らされるのは過去である。

そういうときには、哲学者は西田幾多郎は瞬間を隙間とみてそこに何が入っているか、当てはまるかと考え、文学のほうは、なにが未来に数珠つなぎになるか、つまり瞬間の重なりのほうを見てる傾向はあると言えばあるかもしれん。

歴史的世界の生産様式が非生産的として、同じ生産が繰返されると考えられる時、それが普通に考えられる如き直線的進行の時である。現在というものは無内容である、現在が形を有たない、把握することのできない瞬間の一点と考えられる。過去と未来とは把握することのできない瞬間の一点において結合すると考えられる。物理的に考えられる時というのは、かかるものであろう。物理的に考えられる世界には、生産ということはない、同じ世界の繰返しに過ぎない。空間的な、単なる多の世界である。生物的世界に至っては、既に生産様式が内容を有つ、時が形を有つということができる。合目的的作用において、過去から未来へということは逆に未来からということであり、過去から未来へというのが、単に直線的進行ということでなく、円環的であるということである。生産様式が一種の内容を有つということである、過去と未来との矛盾的自己同一としての現在が形を有つということである。かかる形というのが、生物の種というものである。歴史的世界の生産様式である。これを主体的という。生物的世界においては既に場所的現在において過去と未来とが対立し、主体が環境を、環境が主体を形成すると考えられる。而してそれは個物的多が、単なる個物的多ではなくして、個物的として自己自身を形成するということである。しかし生物的世界はなお絶対矛盾的自己同一の世界ではない。

――西田幾多郎「絶対矛盾的自己同一」


同じ生産が繰り返されることなんかホントにあるのだろうか。生物たちでさえ、繰り返していないのではなかろうか。つまり、天井を這ったりしているのではなかろうか。

太鼓のきもち

2022-08-18 23:03:08 | 文学


毎年の興福寺の法事にいる事ありて、東大寺の太鼓を借りて勤められしに、一年東大寺より太鼓を貸さずして事を欠きける。衆徒・神主の言葉を、「当年ばかりは。」と添へられ、やうやう借りて仏事を済ましぬ。其の後東大寺より使者を立つれども、太鼓を戻さず。興福寺の寺中、集つて評判する。「数年貸し来つて、今此の時に到り、憎き仕方なり。唯は返さじ。打ち破つて。」といふものあれば、「それも手緩し。飛火野にて焼け。」と、あまたの若僧・悪僧進みて、方丈に声響き渡りて鎮まらず。其の中に学頭の老法師の進み出でて、「今朝より聞くに、何れもの申し分、皆国土の費なり。某が存ずるには、太鼓を其の儘、当寺のものになせる分別あり。」と。「筒の中に『東大寺』と先年よりの書附を削り、新しき墨にて元の如く『東大寺』と書き記し、此の事沙汰せず、東大寺に戻せば、悦び宝蔵に入れ置き、重ねて出だす事なし。


太鼓をかさぬと言い出した東大寺にむけて、興福寺の知恵者が一度「東大寺」と書いてあるのを削って、上から「東大寺」と書いて返却したのだった。で、興福寺側が「預けておいた太鼓を取りに来たよ」と東大寺に出向いて打擲されるが、こうなると東大寺側がはじめ興福寺と書いてあったものをけずって東大寺と書いた可能性が出てきて、もちろん、興福寺側の策謀である可能性も思い浮かびはするが、どっちとも可能性としてはありうることになり、奉行は中をとって、「所有は興福寺、置き場所は東大寺」という風にしたのであった。

めでたしめでたし。――なのであろうか。

そもそも、この太鼓は、ある輩、あ藤原鎌足ね、――が、香川の房前浦で竜宮にとられた宝珠をとりかえすときに海上でどんどんと叩いたものであった。細かいことは忘れたが鎌足は、房前の海女をナンパして子どもを産ませた上に、潜ってとってきてとか頼んだのが話のはじまりであった。そのとき竜王を酔わせるために太鼓を叩いたのである。

竜は太鼓で酔わないし、海女をどこまで潜らせるつもりだこのスカタン

というわけで、興福寺の馬鹿たちはさっさと太鼓を自作すればよいのだ。だいたい、日本で知恵者というのは、どうでもよいものの本質は指摘せずに、仲間割れを避けるための知恵しか出さないのである。

太鼓は、自分は誰かに叩かれなければ、声の出せないのを忘れて、体中に力瘤を入れて意気込んだが、勿論音の出る筈はない。自分の間抜けに気が付いた太鼓は、暫くぼんやりする程がっかりして恥しがった。けれども、恥しいと云うのが口惜しい太鼓は、すっかりやけに成って、いきなりゴロッと小さい粟粒の上に圧かぶさってしまった。
 そして「如何うだ此でもか! ハハハ」
と嬉しそうに笑った。
 太鼓は雨が降っても、風が吹いても粟の上にがん張っていた。がその下では粟が、しずかに地面の水気を吸っている。
 其から半年程経って、又同じ芝生の上に飛んで来た小鳥は、腐った太鼓を貫いて、一本の青々とした粟の芽が、明るい麗らかな日光に輝きながら楽げに戦いでいるのを見た。


――宮本百合子「一粒の粟」


宮本百合子は正義の人であるから、これを人間の話として書いているのだが、実際は我々は太鼓ではない。太鼓は誰かに叩かれるだけでなく、つくられたものである。私は、西鶴の話でも宮本百合子の話でも、最初に太鼓をつくった人が一番エライと思う。

歎異の中を歩め

2022-08-17 18:48:00 | 思想


悲しきかなや、幸いに念仏しながら、直に報土に生まれずして辺 地に宿をとらんこと。一室の行者の中に信心異なることなからん ために、泣く泣く筆を染めてこれを記す。名づけて歎異抄というべし。外見あるべからず。[…]親鸞僧儀を改めて俗名を賜う、よって僧に非ず俗に非ず、 然る間「禿」の字を以て姓と為して奏聞を経られおわんぬ。彼の御申し状、今に外記庁に納まると云々。 流罪以後「愚禿親鸞」と書かしめ給うなり。

「歎異抄」は、迫害にあった親鸞とその弟子たちが「外見あるべからず」(外部に見せてはならぬ)と言ったもの。言ってみりゃ秘密文書である。いまはなんだかベストセラーの一つにもなってしまっており、なんだかその理由はよくわからないが、悪人正機、他力本願の主張とは別に、唯円が書いたと言われる本のなんとなく焦点があってない、素人くささが残るかんじがその理由ではないだろうか。日蓮のそれのように、自分お言葉が刃のようになっているものは、われわれを彼方に連れて行くけれども、われわれの多くは老いても別にそういうことを望んでいないのだ。生悟りが心地よいというのはある。

私は田舎育ちではあるが、その中でも街道筋のもと職人街の長屋家屋育ちなので、隣の家と壁一枚で繋がっているかんじだったが、生活音はたてても?自分から出る足音とかはあまり甲高くならないように育ってる気がする。現代人はなんとなく自分が音を立ててることに無意識な人が多くなったようなきがする。むろん、むかしのおじさんたちのでかい声はいまとは比べものにならないんだが、それでも不快ではないしゃべりというものはあった。われわれは動物なので、動きや出す音などは非人間的な動物的なところがある。それを人間にみせる作法がいろいろあるんだと思うが、それを訓練する機会が減っているのだ。で、むかしはもう少しあの人は何何教でとかなんとかでということを身近に話してた様な気がするんだが子ども心に指標だなと思ってたのは、その人間的動作のちょっと違いである。その点、今の大学生はかなりの割合どこかに入信してるんじゃないかと思わせるところがある、たぶん勘違いである。

思い込みも多分にあるんだろうが、勉強やり過ぎておかしくなったな、みたいなことがある種の常識であるような共同体は無論排外的でもあるけれども、いわゆる勉強が、現実に利用出来るとか役に立つとか真理だとかいう以前に、あるゾーンに入っちまうことであることは自覚している人が昔は多かったと思う。何でもいいけれども、すごい長篇小説を読んだら世界が違ってしまうようなことが勉強でも起きているし、面白い学問はそういうもんだ。いまのリベラルや保守がおかしいと思うのは、自分の勉強したことが、直接現実に繋がっていると思っていることかな。そのゾーンの壁は良くも悪くも最後まで存在してるのではなかろうか。やたら会話文とか入れて学問の世界を日常に繋げようとする問題とかが、なにか「不快」なのはそのせいだろう。日常と学問はお互いに敬して遠ざけるみたいな感じじゃないと、おたがいに暴力的になってしまう。ほんとは昔から敵対的ではあったが、それは社交的人間的動作とともにあったから大丈夫であったに過ぎず、言葉だけだと喧嘩になってしまうのであった。

こういうときに、日蓮のような現実との対決がよいのか、歎異抄みたいなゾーンにはいったよという日常という引き延ばしの中を生きるか、――我々の世界はいまだ、この選択の幅の中をうろうろしているのである。歎異抄のなかに駄目な考えとして反論されているものはすべて、この引き延ばしを欺瞞と感じるためにでてきた異見なのだ。

しかし、そこでうろうろしているというのは、観念的な把握かも知れない。我々の世界はもっと罪と罰の世界である。のみならず近代社会は、罰を性急に下さない正義を選んだために、罪と罰の中間地帯を延々歩まされるのである。個人的な体験でもあるが、嘘をついても大丈夫であるような環境になれると、ある種の罪悪感の持続で人の精神は容易におかしくなることがある。鬱の原因にもなってるかもしれない。モラルが人の精神を破壊する場合もあるけれども、崩壊から救ってる面はかなりあるのだ。許されることによる罰というのは文学ではよく扱われるけれども、もう少し注目されてもいいんじゃねえかと思う。