★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪口礼賛におけるプラス面とマイナス面

2020-02-29 23:18:18 | 文学


人の上言ふを腹立つ人こそ、いとわりなけれ。いかでか言はではあらむ。我が身をば差し置きて、さばかりもどかしく言はまほしきものやはある。されど、けしからぬやうにもあり、また、おのづから聞きつけて、恨みもぞする、あいなし。また、思ひ放つまじきあたりは、いとほしなど思ひ解けば、念じて言はぬをや。さだになくは、うちいで、笑ひもしつべし。


人の悪口に対して腹たてるひとって訳分からないですね。どうして言わないでいられます?自分のことはさておいて、これほど非難したく言いたいことってあるかしらっ?

完全に同意します。がっ、あの居住空間で悪口言ってたら筒抜けでしょうが、と思うのは現代人だけで、実際の悪口はちょっと聞いただけでは悪口ともなんとも言いがたい言い方をしていたのかもしれない。我々は、その点、外に声が漏れない密閉空間になれていて、ほとんど犯罪に近いことを口走る人さえあるのは周知の通りだ。ネット空間でもその調子なのでみんな困っているわけであるが、ネットは空間ではない。ネットは世界中に行き渡った直通電話なのだ。悪口は筒抜けと知るべし……。

最後の「笑ひもしつべし(笑いもしてしまいたいところです)」も正直だ。悪口は溜飲を下げるためでも批判をするためでもなく、殆どの場合笑うためにやっているのである。笑いの欲望を強める文化は、自然と悪口も強くなる。現代をみたまえ……

いったい私にとっては笑うべき事と笑う事とはどうもうまく一致しなかった。

――寺田寅彦「笑い」


さすが科学者はちゃんとこういうことが分かっているから素晴らしいと思う。清少納言は正直で人間の生態がよく見える人ではあったが、気持ちそのものに正直になりすぎるところがあった。人文的なものに対する科学はやはり必要なのである。最近は、笑いと悪口と、自分の気持ちだけに正直な人々が溢れかえっている。科学が人間に向かわずに、人間の生活だけに向かっている時代の特徴であろう。

人に思はれむばかり、めでたきことはあらじ

2020-02-28 23:12:02 | 文学


世の中に、なほいと心憂きものは、人ににくまれむことこそあるべけれ。誰てふもの狂ひか、我、人にさ思はれむ、とは思はむ。されど、自然に、宮仕へ所にも、親、はらからの中にても、思はるる、思はれぬがあるぞ、いとわびしきや。
よき人の御ことは、さらなり、下衆などのほどにも、親などのかなしうする子は、目立て、耳立てられて、いたはしうこそおぼゆれ。見るかひあるは、ことわり、いかが思はざらむ、とおぼゆ。
ことなることなきは、また、これをかなしと思ふらむは、親なればぞかしと、あはれなり。


世の中で、やはりとてもいやなのは、人に憎まれることだよね……。という清少納言であるが、このあとが非道い。「狂人であっても自分が嫌われたいとは思いませんよね、しかし、愛される人と愛されない人っているんだよねー……。」のっけから差別連発である。「身分が高い人は勿論、下々のものでも親などがかわいがる子どもは目立ってかわいがられるよね。カワユイ子はもちろんだよね。可愛がれないなんてことは絶対にない。いやいや、大した容姿でもない子でも親ならばかわいいと思うはずだとしみじみ思われるよね……。」

お前はだから嫌われるんだよ……。嫌われてたどうか知らないが……。

しかし思うに、そもそも「かなし」という感情がどことなく差別的である可能性はあると思うのである。最近日本人もやたらかわいいを連発しているが、だんだん差別的になっている。かわいいと、きもいなんてのは殆ど表裏一体であり、かしこい女子などが「きもかわいい」なんてのを発明していた。

親にも、君にも、すべてうちかたらふ人にも、人に思はれむばかり、めでたきことはあらじ。

清少納言の最後のまとめがこれである。結局、清少納言が言いたいのは、かわいがられることなのである。自分がかわいがるのではない。この受け身こそが、「かわいい」の正体だ。このことばは、猫の尻尾みたいにくるんと自分の方を向いているのである。

物体の運動について

2020-02-27 23:48:26 | 文学


五月ばかりなどに山里にありく、いとをかし。草葉も水もいと青く見えわたりたるに、上はつれなくて草生ひ茂りたるを、ながながとたたざまに行けば、下はえならざりける水の、深くはあらねど、人などのあゆむに走り上がりたる、いとをかし。
左右にある垣にあるものの枝などの、車の屋形などにさし入るを、急ぎてとらへて折らむとするほどに、ふと過ぎてはづれたるこそ、いと口惜しけれ。蓬の、車に押しひしがれたりけるが、輪の回りたるに、近ううちかかりたるもをかし。


昔、古典の先生が、平安朝の表現には全体的に動きがないね、と言っていたが、これなんか、イメージビデオみたいなスピード感がある場面である。水がほとばしりあがり、何かの枝が、車の中から捕まえようとして行き過ぎてしまう。こんな風景も面白いが、最後の「蓬が車に押しひしがれていたのが、車輪が回ってあがってくるときに、近くに引っかかっているのはおもしろいね」という記述が子どもっぽい視点で面白い。与謝野晶子の、

場末の寄席のさびしさは
夏の夜ながら秋げしき。
枯れた蓬の細茎を
風の吹くよな三味線に
曲弾の音のはらはらと
螽斯の雨が降りかかる。


これよりも、昭和のモダニズムをみるようなのが清少納言である。川端とは違うが、一種の「末期の眼」が清少納言にはある気がする。川端の「笑ふべきかな僕の世界観はマルキシズム所か唯物論にすら至らず、心霊科学の霧にさまよふ」(「嘘と逆」)とは自嘲に非ず。これこそがモダニズムの心性である。失意を味わった者はこういう空間に誰しも迷い込む。このなかで却ってモノの運動する姿が顕れてくることがある。近代で「虚無」という言葉が重要なのは、そういうモノを誘い込む状況があるからである。安部公房の「Sカルマ氏の犯罪」で、虚無がラクダやユルバン教授を飲み込む場面があるが、あれはSFではないのである。

漢・清少納言

2020-02-26 23:09:06 | 文学


風は嵐。三月ばかりの夕暮れにゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横さまに、騒がしう吹きたるに、夏とほしたる綿衣のかかりたるを、生絹の単衣重ねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにかと思ふも、をかし。
暁に、格子、妻戸を押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。
九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉、椋の葉こそ、いととくは落つれ。
十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。


風は嵐。この段は漢・清少納言の面目躍如たるものがある。嵐を呼ぶ男・清少納言。
もっとも、やたら太鼓を叩いたりする嵐を呼ぶ御仁よりも、清少納言の方は、嵐を扇風機がわりと思っているのだからもっとすごい。「この生絹の単衣だってよ、やたらめったら暑苦しく、脱ぎたいほどだったのに、いつの間にかこんなに涼しくなったのかっ、いいね」。わたくしの同級生にも、嵐が来ると校庭に飛び出し「雨のしたたるいい男ーっ」とか言って激しくバカにされている友人がいたが、彼は語彙力がなかっただけであろう。

「暁に、格子、妻戸を押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。(明け方に、格子や妻戸を押しあける、嵐がさっと冷たく顔に沁みる、とてもいいぜ)」。

とかく男は、ドカベンの男岩鬼みたいに、人の見ているところで威張ってみたりするものであるが、清少納言は秘かに「いみじくおかしけれ」というのである。これでいいのである。

九月十月の場面は、風で葉っぱが落ちるところをいいね、と言っているが、これは少し日和っている。本当は、台風で植木がなぎ倒されているところに興奮したいのである。――であるから、次の段で、野分の場面がある。

白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
     みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
     みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
     みだるるよ、みだるるよ。
と女はうたい了る。銀椀に珠を盛りて、白魚の指に揺かしたらば、こんな声がでようと、男は聴きとれていた。


――漱石「野分」


漱石は「坊っちゃん」で虚勢をはっているが、油断するとこういう感じになるおとこである。

さと知りながらことさらに言ひたる

2020-02-24 19:03:26 | 文学


ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字いやしう使ひたるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ。さるは、かう思ふ人、ことにすぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ心地にさおぼゆるなり。
いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらに言ひたるは、あしうもあらず。わがもてつけたるを、つつみなく言ひたるは、あさましきわざなり。


大学生の頃、ここを読んだとき殆ど意味が分からず通りすぎてしまった。いまもよくわかるとはいえないが、――単に下品だとか上品だとかおもわれるものが、言葉の種類によってではなく、人間の意識のありようと関係しており、しかも後からふりかえると、表現の微細な違いとしか思われないところに、清少納言が注目していることだけは分かる。このあと、「物語などこそ、あしう書きなしつれば、言ふかひなく、作り人さへいとほしけれ。」とあるので、言葉の善し悪しが分かりやすいのは物語上なのだということに注目しているようだが、……これはある意味で問題の回避である。

清少納言が言っているのはもともと「ふと心劣りとかするもの(急に幻滅を感じるもの)」なのであって、人間と言葉の関係、そのギャップが問題だったのだ。しかし、その人間像はおそらく少なからず言葉によって形作られたものである。面白いのは、そのとき、「わがもてつけたるを、つつみなく言ひたる
(自分の持っているままの言葉をとりつくろいもせず言ってしまう)」ことは却って下品な感じがするということだ。おそらく、人間の像というのは、言葉による厚塗りを嫌う。その人が言いそうもない言葉であってこそ、言葉と人間がしっくりくることがある。

また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひ、ひなびたるはにくし。

もっとも、こういう場合は、繕った感じがでてしまうのであった。いまでいえば、上品に育ったブルジョアジーの学者が、プロレタリアじみた虚勢の張り方をすることなどがそうである。こういう人の場合、悪態がなにか蔑視みたいなものと結びついている感がどうしても出てしまう。そうでなく「いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらに言ひたるは、あしうもあらず」といったものを実現する決定的な原因とは何か?そうではない場合の条件は分かるのであるが、そうである場合の条件を明らかにするのは難しい。

「お前は、気がへんになってるんじゃないか、馬鹿野郎。さっきから何を聞いていたのだ、馬鹿野郎。僕は、サジを投げた。ここは、どこだ、四谷か。四谷から帰れ、馬鹿野郎。よくもまあ僕の前で、そんな阿呆くさい事がのめのめと言えたものだ。いまに、死ぬのは、お前のほうだろう。女は、へん、何のかのと言ったって、結局は、金さ。運転手さん、四谷で馬鹿がひとり降りるぜ。」
 女の心を、いたずらに試みるものではありませんね。僕は、あの笠井氏から、あまりにも口汚く罵倒せられ、さすがに口惜しく、その鬱憤が恋人のほうに向き、その翌日、おかみが僕の社におどおど訪ねて来たのを冷たくあしらい、前夜の屈辱を洗いざらい、少しく誇張さえまぜて言って聞かせて、僕も男として、あれだけ面罵せられたのだから、もうこの上は意地になっても、僕はお前とわかれて、そうしてあの酒乱の笠井氏を見かえしてやらなければならぬ、と実は、わかれる気なんかみじんも無かったのに、一つにはまた、この際、彼女の恋の心の深さをこころみたい気持もあって、まことしやかに言い渡したのでした。
 女は、その夜、自殺しました。薬を飲んで掘割りに飛び込んだのです。


――太宰治「女類」


清少納言だっていろいろなことを経験したのであろうが、太宰治くらいになると、何を書いても生きてるのか死んでるのか、馬鹿野郎なのか利口なのか、分からなくなってしまうのであろう。その結果、言葉の作用を殊更に大きく取りあげたりするのである。清少納言にはそこまでの意識はない気がする。

2020-02-23 18:45:53 | 文学


病は、胸。もののけ。あしのけ。
はては、ただそこはかとなくて物食はれぬ心地。
十八九ばかりの人の、髪いとうるはしくてたけばかりに、裾いとふさやかなる、いとよう肥えていみじう色しろう顔愛敬づき、よしと見ゆるが、歯をいみじう病みて、額髪もしとどに泣きぬらし、みだれかかるも知らず、おもてもいとあかくておさへてゐたるこそをかしけれ。


ここも「をかしけれ」を抜いて考えた方がよいと思う。ボードレールというより、物の怪に取りつかれる女――「ポゼッション」の世界である。この映画でも、イザベル・アジャーニの演技のそばで絶妙な顔をしている夫の演技がよかった。清少納言も

八月ばかりに、白き単なよらかなるに袴よきほどにて、紫苑の衣のいとあてやかなるをひきかけて、胸をいみじう病めば、友だちの女房など数々来つつとぶらひ、外のかたにもわかやかなる君達あまた来て、「いといとほしきわざかな。例もかうや悩み給ふ。」など、ことなしびにいふもあり。心かけたる人は、まことにいとほしと思ひなげきたるこそをかしけれ。

と書いている。「例もかうや」という言葉なんかも絶妙にひどいが、病気のシーンのリアリティというのはこういう発言が飛び出すところにある。案外、「例」という時間で病の時間から逃れようとしている発言でもあろう。

上にもきこしめして、御読経の僧の声よき賜はせたれば、几帳ひきよせてすゑたり。
ほどもなきせばさなれば、とぶらひ人あまたきて経聞きなどするもかくれなきに、目をくばりて読みゐたるこそ、罪や得らむとおぼゆれ。


読経の時に女房をちらちら見てしまう坊主が罪深いかどうかはどうでもよく、これは病の作り出す風景なのである。

無言の自然を見るよりも活きた人間を眺めるのは困難なもので、あまりしげしげ見て、悟られてはという気があるので、わきを見ているような顔をして、そして電光のように早く鋭くながし眼を遣う。誰だか言った、電車で女を見るのは正面ではあまりまばゆくっていけない、そうかと言って、あまり離れてもきわだって人に怪しまれる恐れがある、七分くらいに斜に対して座を占めるのが一番便利だと。男は少女にあくがれるのが病であるほどであるから、むろん、このくらいの秘訣は人に教わるまでもなく、自然にその呼吸を自覚していて、いつでもその便利な機会を攫むことを過らない。

――田山花袋「少女病」


この男が滑稽な最後を遂げたり?するのも、彼が「病」だという認定を受けていたことと関係がある。わたくしは、ファシズムや虐殺だって病の流行などと関係があるのではないかと疑っている。

森一郎氏のハイデガー論のなかに引用されていたもののなかに、「我死につつ在り(sum moribundus)」というものがあった。それは瀕死とかの意味じゃないとハイデガーはいうが、逆に、瀕死のイメージをまだ死ぬとは思えない人間に重ねてみているだけなのではなかろうか。それが「我あり」につながるとすれば、やはり彼も清少納言と同じく「をかしけれ」と言っている、もっといえば病に反応して精神がお祭りになってしまうタイプなのだ。

2020-02-22 19:32:38 | 文学


ものなど問はせ給ひ、のたまはするに、久しうなりぬれば、
「下りまほしうなりにたらむ。さらば、はや。夜さりは、とく。」
と仰せらる。
ゐざり帰るにや遅きと、上げちらしたるに、雪降りにけり。登華殿の御前は、立蔀近くてせばし。雪いとをかし。


ここでの「いとをかし」には実感がある。「雪降りにけり」だけではいけなかったのである。宮にはじめて参った頃、定子に「局にさがりたくなったのでしょう?ならばすぐにお下がり。夜になったら早く来てね」といわれ、膝行して御前から隠れるやいなや女房たちが無造作に局の格子をあげたところ、雪が降っていた。この雪のすばらしさは、なんとなく、定子と清少納言のふたりに降りかかっている気がするなあ……。

日高睡足猶慵起
小閣重衾不怕寒
遺愛寺鐘欹枕聽
香爐峰雪撥簾看
匡廬便是逃名地
司馬仍爲送老官
心泰身寧是歸處
故郷何獨在長安


二八〇段の、こうろほうのゆきいかならん、で有名な白居易の詩である。わたくしも大学入試の時、雪をかき分けて受験会場にたどり着いた。今はやりの居場所ではなく、行かなければならない場所に向かうとき、雪は殊更心の中で降る気がする。長安が故郷である必要はないのは当然だとしても、心が安まるところが本当の帰るところだと白居易が本気で考えていたとは思えない。彼もまた旅に出てしまっているのである。わたくしは、清少納言も定子も本当はそこまで分かっていて、雪を眺めていたのではないかと思う。わたくしは、彼らの知性をあまり低く見ない方がよいと思うのである。彼らだって、自分たちが不安定な場所にいることは分かっているはずではないか。

彼女は赤い眶を擡げ、彼女の吐いた煙の輪にぢつと目を注いでゐた。それからやはり空中を見たまま、誰にともなしにこんなことを言つた。――
「それは肌も同じだわね。あたしもこの商売を始めてから、すつかり肌を荒してしまつたもの。……」
 或冬曇りの午後、わたしは中央線の汽車の窓に一列の山脈を眺めてゐた。山脈は勿論まつ白だつた。が、それは雪と言ふよりも人間の鮫肌に近い色をしてゐた。わたしはかう言ふ山脈を見ながら、ふとあのモデルを思ひ出した、あの一本も睫毛のない、混血児じみた日本の娘さんを。


――芥川龍之介「雪」


さんざいわれていることであるが、近代における内面というのは、外部を消失している。これは文学者というより、学校で創られる近代人間の特徴だ。ある種、外部からの刺激を直に受け付けないような、心を失った状態なのである。逆に、芥川などの鋭敏な人間は、内面がぶっ壊れている。隙間からどんどん刺激が入ってきてしまうのだ。

寝入りぬるこそ、をかしけれ

2020-02-21 23:12:38 | 文学


夜中、暁ともなく、門いと心かしこうももてなさず、何の宮、内裏わたり、殿ばらなる人々も出であひなどして、格子なども上げながら冬の夜を居明して、人の出でぬる後も見出したるこそ、をかしけれ。有明などはまして、いとめでたし。笛など吹きて出でぬる名残は、急ぎても寝られず、人の上ども言ひあはせて、歌など語り聞くままに、寝入りぬるこそ、をかしけれ。

新古典全集だと百七十二段は、女房が実家に帰って里居したときに、男の来客があったときなどの少し面倒なやりとりなどが書かれていて、源氏物語などにはないリアリティだと思う。とはいえ、「笛など吹いた客が帰ってしまったあとは、人の噂話とか歌とか語り合って、寝入ってしまうのはおもしろいね」とは、どこぞの部室かっ、と思わざるを得ない。

今日は、昼下がりに高村光太郎の「東洋的新次元」などを反芻し直してみた。

東洋の詩は世界の人の精神の眼にきらめくだらう。
夏の雲のやうに冬の星のやうに、
朝の食卓の白パンのやうに、
夜の饗宴のナイフのやうにフォクのやうに。


続く詩「おれの詩」なんかでも、「おれの詩は西欧ポエジイに属さない」と言いながら、結局どこが属していないのかわからないどころか、日本版「西欧ポエジイ」そのもののように見える。上の東洋もそうだ。で、清少納言に帰ってみて、どこに我が文化があるのか?と目を凝らしてみるのだが、少なくとも上のような繊細な日常描写のなかには容易に見つからない。

わたくしの場合、二十代の頃、――結局我々の文化は少数の「論理」的営為の中にしかないのではないかと当たりを付けたことの尾を引いているのかもしれないが……。

享楽への抵抗

2020-02-20 23:06:05 | 文学


テレビを見ていたら、早★田の教育学部生が映像がないと授業は眠いとか自分を棚に上げたいつもの発言をかましていて、これに対してコメンテーターが、ホラー映画よりホラー小説の方が怖いのだ、といいことを言っていた。確かにネムイ授業というものはあるのだが、それは映像がないからでもアクティブなんちゃらでないからでもなく、自分の頭が悪いか先生の頭が悪いかなのである。先生の頭が悪い場合は、自分の頭を良くするべく自分で勉強すれば良いので、絵をよこせとか喋らせろとか、幼稚園か。

我々の思考を奪うのは享楽である。

以前、エヴァンゲリオンを観て、人造人間を作れるのは日本の技術者、日本のテクノロジーはすごいとか言っていたオタクは「障害物なき享楽」の人?であるから別にいいとして、シンゴジラを観て「日本の官僚もまあやるじゃないか」と言っていた本物の官僚を目にしたとき、日本の将来を心配しないわけにはいかなかった。シンゴジラは虚構なんだよバカかっ、とツッコむことは別に必要ではない。問題はそこじゃなくて、危機を外部から来るものとしてしか捉えていない、その官僚的感性があまりに幼稚園なのだ。そして、危機を乗り越えるのは、単なる知性でも勇気でもテクノロジーでもないのだ。それらだけで解決するのはガキのエンタ-テイメントだけだ。――とすれば、一体どうすればいいのかという地点を探索するのが政治や文学である。

女の一人住む所は、いたくあばれて、築地なども、またからず、池などある所も、水草ゐ、庭なども、蓬茂りなどこそせねども、所々、砂子の中より青き草うち見え、さびしげなるこそ、あはれなれ。物かしこげに、なだらかに修理して、門いたくかため、きはぎはしきは、いとうたてこそおぼゆれ。


こんな一場面だって本当は、政治的ななんやかんやがあってようやく文学のシーンとなったのであろう。わたくしは、「いたくあばれて」(酷く荒れ果てて)という語感と、「きはぎはしき」(いちいち際立っている)という語感が似通っているように感じられる。「あばれ」が「あはれ」に通じていることは無論である。こんなところが清少納言にとっての政治なのであろう。だれだったか「構造は市中を行進しない」とか言っていた。それは熱に浮かされた学生たちをくさすには必要だったのかもしれないが、隠れた構造というものはやはりあり、平安時代の女房だってそれに目を凝らしていたのである。「あはれ」自体は剰余享楽にすぎない。それを言わせている風景そのものに隠れているものが……。「築地なども、またからず、池などある所も、水草ゐ、庭なども、蓬茂りなどこそせねども、所々、砂子の中より青き草うち見え、さびしげなる」……清少納言は、なんとなく部屋の中から庭などを見過ぎたせいか、風景も植物や砂なども人間のように見えてしまっているようだ。

追記)この前ネット観てたら、国語出来ない子の特徴として、家に難しい本ばかりがあってマンガがない、という指摘があった。おれの生家じゃないか、と思ったが、マンガの大量消費が国語の能力を上げていた可能性は否定できない。繰り返して分かる範囲を大量に読むこと、これが重要なのは、案外「出来る人」にとって意識できない。つい彼らは、レベルを徐々にあげることばかり考えてしまうのだ。

遠くて近き――相即相入

2020-02-19 22:39:53 | 文学


近うて遠きもの。宮のべの祭。思はぬはらから、親族の中。鞍馬のつづらをりといふ道。
師走のつごもりの日、正月のついたちの日のほど。


これと次の段は続けて読むべきだ。                  
                    
遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の中。

近くて遠いものと遠くて近いものは、実際は意識の持ち方がどちらかにあるだけで大きな違いがあることを示す。前者は実際は近いことを否定できず、後者は遠いことを否定できない。否定できないものに我々はプレッシャーを受ける。その結果意識は反対方向に逃げて行く。師走から正月の間だって、期待の長さとは言い切れない。正月はそれなりに気を遣う日であって、忙しいのだ。逆説はこういう身もふたもない現実を隠してしまう。これに比べると、遠くて近きものの最初に極楽を持ってきたのは、意識というより魂というものが感じられる。近いというのは、時間とか距離の問題ではなかった、相即相入みたいな関係なのである。

ここでは美も用のなくてはならぬ一部である。だがいかに今の多くの作は、誤った美のために用を殺しているであろう。否、用を無視するが故に、美もまた死んでくるのである。正しい工藝においては真に用美相即である。美が用をしてますます活かしめ、用が日に日にその美を冴えしめる。

――柳宗悦「工藝の道」


「用美相即」という宗悦であるが――思うに、即を用いた論理が魂を失うのは、こういう風に日常的な場面の説明に使われたからではなかったであろうか。その意味で、日常にはあまりにも使えない西田幾多郎は偉大であった。

【アンチ】むつかしげなるもの【モラル】

2020-02-18 23:43:28 | 文学


むつかしげなるもの 繍物の裏。鼠の子の毛もまだ生ひぬを、巣の中よりまろばし出でたる。裏まだ付けぬ裘の縫目。猫の耳の中。殊に清げならぬ所の、暗き。
ことなる事なき人の、子などあまた持てあつかひたる。いと深うしも心ざしなき妻の、心地あしうして久しう悩みたるも、夫の心地はむつかしかるべし。


新日本古典文学全集の注釈は、この段について「すべて言い得て妙」と書いている。そ、そうかなあ……。清少納言は、全体的に、クソ餓鬼を含めた、毛がそばだっている感じがいやなのかなあと思う。わたくしも鼠の子がまだ毛もたいして生えていないのに巣の中から出てきたのを見たことがある。このクソ餓鬼はわたくしの枕元に出現したのだ。恋の夢を見ていたわたくしの枕元に、蠅男の出来損ないみたいなつぶらな瞳の物体が転がりでたのである。猫の耳の中もよくみるとわたくしたちの耳の中に似ており、ある種の食虫植物に似ている風景をなしている、清少納言は気分が乗ってくるとめちゃくちゃなことを言ってくるが、ここでも、「汚いところの暗いところ」とか言い出した。「アホマヌケ」みたいな勢いである。

そして、しまいにゃ下種批判である。「大したことのねえやつがガキをたくさんつくりやがって世話している、あーむさ苦しい。」確かに、こういうのに「大家族の絆」とか言っている連中は大概善人か悪人だ。問題は次である、「たいして深く好きでもない女房が気分を悪くして病床にふけっているのも、夫としてはきっとうっとうしいんだろうねえ」。苛い。清少納言は残酷なやつだ。

平岡は口を結んだなり、容易に返事をしなかった。代助は苦痛の遣り所がなくて、両手の掌を、垢の綯れる程揉んだ。
「それはまあその時の場合にしよう」と平岡が重そうに答えた。
「じゃ、時々病人の様子を聞きに遣っても可いかね」
「それは困るよ。君と僕とは何にも関係がないんだから。僕はこれから先、君と交渉があれば、三千代を引き渡す時だけだと思ってるんだから」
 代助は電流に感じた如く椅子の上で飛び上がった。
「あっ。解った。三千代さんの死骸だけを僕に見せる積りなんだ。それは苛い。それは残酷だ」
 代助は洋卓の縁を回って、平岡に近づいた。右の手で平岡の脊広の肩を抑えて、前後に揺りながら、
「苛い、苛い」と云った。
 平岡は代助の眼のうちに狂える恐ろしい光を見出した。肩を揺られながら、立ち上がった。
「そんな事があるものか」と云って代助の手を抑えた。二人は魔に憑かれた様な顔をして互を見た。


――漱石「それから」


平岡は三千代をはたして愛していたのであろうか。こんなことですら容易な結論を出せないから漱石は小説を書いているのだ。清少納言はこの作者に比べればまだ子どもである。とともに、日本の家父長制度には騙されない程度の常識人である。

はしたなさの超克

2020-02-17 18:31:54 | 文学


人ばへするもの、ことなることなき人の子の、さすがにかなしうしならはしたる。しはぶき。はづかしき人にもの言はむとするに、先に立つ。
あなたこなたに住む人の子の、四つ五つになるは、あやにくだちて、物とり散らしそこなふを、ひきはられ制せられて、心のままにもえあらぬが、親の来る所得て、「あれ見せよ、やや、母。」など引きゆるがすに、大人どもの言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づからひきさがしいでて見さわぐこそ、いとにくけれ。それを「まな。」ともとり隠さで、「さなせそ。」「そこなふな。」などばかり、うち笑みて言ふこそ、親もにくけれ。われはた、えはしたなうも言はで見るこそ、心もとなけれ。


私怨的に訳すと……

人が側にいると調子こくもの。特にこれといった良さもないクソ餓鬼の、とはいえかわいいねーという感じで甘やかし慣れきっているやつ。咳(怒)。こちらが恥ずかしいくらい立派な人に物を言おうとすると決まって先に出てくる。(中略)勝手にものを出してきて騒ぐクソ餓鬼も腹立つが、これに「いけません」といわないで「そんなことはダメですよ」とか「こわさないで」とか言って笑顔にしている親も憎らしい。親を目の前に間が悪く何も言えない自分にもいらいらする。

ここで「はしたなし」を使っているのがよく分かる。我々の中には、この間の悪さに、半端さに、腰が引ける感じが大きく根をはっている。勇気がないとか正義を心得ていないというわけではなく、この腰が引ける感じが実在してしまっている。

私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。
 恋、と書いたら、あと、書けなくなった。


――太宰治「斜陽」


ここで「季節のせいだけのものであってくれたら」というのが実感がこもっている。季節にせいにして乗り越えることだって出来るのである。昔「恋の季節」という歌があったけれども、これだって本当にそう思える場合があるわけである。これは非常に清潔な処理の仕方であるとともに、事実に出会ったときに非常に弱い。暴力で打ち消すことになりかねない。考えてみると、上のクソ餓鬼への憎しみなど、ほんとうはそういうものかもしれないのである。

うつくしきもの――遠く離れて

2020-02-15 21:22:56 | 文学


うつくしきもの、瓜に書きたる児の顔。 雀の子の、ねず鳴きするにをどり来る。二つ三つばかりなる児の、急ぎてはひ来る道に、いと小さき塵のありけるを目ざとに見つけて、いとをかしげなる指にとらへて、大人などに見せたる、いとうつくし。
頭は尼そぎなる児の、目に髪のおほへるをかきはやらで、うちかたぶきてものなど見たるも、うつくし。
大きにはあらぬ殿上童の、さうぞき立てられてありくもうつくし。をかしげなる児の、あからさまに抱きて遊ばしうつくしむほどに、かいつきて寝たる、いとらうたし。
雛の調度。 蓮の浮き葉のいと小さきを、池より取り上げたる。葵のいと小さき。何も何も、小さきものはみなうつくし。
いみじう白く肥えたる児の二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるがはひ出でたるも、また、短きが袖がちなる着てありくも、みなうつくし。 八つ、九つ、十ばかりなどの男児の、声は幼げにて文読みたる、いとうつくし。
鶏の雛の足高に、白うをかしげに、衣短なるさまして、ひよひよとかしがましう鳴きて、人のしりさきに立ちてありくもをかし。また、親の共に連れて立ちて走るも、みなうつくし。 かりのこ。瑠璃の壺。


瓜に描いた子どもの顔はかわいいと思う。雀の子がちゅっちゅっと言うと跳ねてくるのもかわいいと思う。最近、わたくしも雀がわたくしの原付の上に座っているのを見て泣きそうになった。わたくしは幼稚園の時、庭の花を幼稚園の先生にあげた。上の餓鬼は小さい塵をみつけて大人に見せている。清少納言はかわいいというが、この餓鬼は大人になっても塵と仲良くなるような下品な輩であろう。つづく、子どもたちは特にかわいくもなんともない。どうせ、わたくしの頭をはたいて喜んでいるような乱暴な奴らであろう。8、9、10歳の子が、声幼げで漢文など読んでいるのは、とってもかわ――いくない。教育実習にいってみればよい、とくにかわいくないぞ。声色なんか使いおって、もっと普通によめないのかっ。内面のない人間の朗読なんて聞けたもんじゃない。

最後は雛とかがかわいい。人のまわりで鳴きまくるとはよい根性をしていると思うが、――清少納言もなんだか禽獣に好かれる感じの人であったに違いない。わたくしも幼稚園に行くと大人気だ。たぶん、アンパンマンだと思っているのではないか、丸い物に反応しているのではないかというのが細君の意見だが、断然違うと思う。

「かりのこ。瑠璃の壺。」……人間から遠く離れたな……。

「まあ、可哀いことね」と縹色のお嬢さんのささやくのが聞えた。
 小鳥のようなフリイダが帰って、親鳥の失敗詩人が来る。それも帰る。そこへ昔命に懸けて愛した男を、冷酷なきょうだいに夫にせられて、不治の病に体のしんに食い込まれているエルラが、燭を秉って老いたる恋人の檻に這入って来る。妻になったという優勝の地位の象徴ででもあるように、大きい巾を頭に巻き附けた夫人グンヒルドが、扉の外で立聞をして、恐ろしい幻のように、現れて又消える。爪牙の鈍った狼のたゆたうのを、大きい愛の力で励まして、エルラはその幻の洞窟たる階下の室に連れて行こうとすると、幕が下りる。


――鷗外「青年」


鷗外なんかは、心の中でいつも人間に付いたり遠く離れたりを繰り返している。さすがである。