ふと心劣りとかするものは、男も女も、言葉の文字いやしう使ひたるこそ、よろづのことよりまさりてわろけれ。ただ文字一つに、あやしう、あてにもいやしうもなるは、いかなるにかあらむ。さるは、かう思ふ人、ことにすぐれてもあらじかし。いづれをよしあしと知るにかは。されど、人をば知らじ、ただ心地にさおぼゆるなり。
いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらに言ひたるは、あしうもあらず。わがもてつけたるを、つつみなく言ひたるは、あさましきわざなり。
大学生の頃、ここを読んだとき殆ど意味が分からず通りすぎてしまった。いまもよくわかるとはいえないが、――単に下品だとか上品だとかおもわれるものが、言葉の種類によってではなく、人間の意識のありようと関係しており、しかも後からふりかえると、表現の微細な違いとしか思われないところに、清少納言が注目していることだけは分かる。このあと、「物語などこそ、あしう書きなしつれば、言ふかひなく、作り人さへいとほしけれ。」とあるので、言葉の善し悪しが分かりやすいのは物語上なのだということに注目しているようだが、……これはある意味で問題の回避である。
清少納言が言っているのはもともと「ふと心劣りとかするもの(急に幻滅を感じるもの)」なのであって、人間と言葉の関係、そのギャップが問題だったのだ。しかし、その人間像はおそらく少なからず言葉によって形作られたものである。面白いのは、そのとき、「わがもてつけたるを、つつみなく言ひたる
(自分の持っているままの言葉をとりつくろいもせず言ってしまう)」ことは却って下品な感じがするということだ。おそらく、人間の像というのは、言葉による厚塗りを嫌う。その人が言いそうもない言葉であってこそ、言葉と人間がしっくりくることがある。
また、さもあるまじき老いたる人、男などの、わざとつくろひ、ひなびたるはにくし。
もっとも、こういう場合は、繕った感じがでてしまうのであった。いまでいえば、上品に育ったブルジョアジーの学者が、プロレタリアじみた虚勢の張り方をすることなどがそうである。こういう人の場合、悪態がなにか蔑視みたいなものと結びついている感がどうしても出てしまう。そうでなく「いやしきこともわろきことも、さと知りながらことさらに言ひたるは、あしうもあらず」といったものを実現する決定的な原因とは何か?そうではない場合の条件は分かるのであるが、そうである場合の条件を明らかにするのは難しい。
「お前は、気がへんになってるんじゃないか、馬鹿野郎。さっきから何を聞いていたのだ、馬鹿野郎。僕は、サジを投げた。ここは、どこだ、四谷か。四谷から帰れ、馬鹿野郎。よくもまあ僕の前で、そんな阿呆くさい事がのめのめと言えたものだ。いまに、死ぬのは、お前のほうだろう。女は、へん、何のかのと言ったって、結局は、金さ。運転手さん、四谷で馬鹿がひとり降りるぜ。」
女の心を、いたずらに試みるものではありませんね。僕は、あの笠井氏から、あまりにも口汚く罵倒せられ、さすがに口惜しく、その鬱憤が恋人のほうに向き、その翌日、おかみが僕の社におどおど訪ねて来たのを冷たくあしらい、前夜の屈辱を洗いざらい、少しく誇張さえまぜて言って聞かせて、僕も男として、あれだけ面罵せられたのだから、もうこの上は意地になっても、僕はお前とわかれて、そうしてあの酒乱の笠井氏を見かえしてやらなければならぬ、と実は、わかれる気なんかみじんも無かったのに、一つにはまた、この際、彼女の恋の心の深さをこころみたい気持もあって、まことしやかに言い渡したのでした。
女は、その夜、自殺しました。薬を飲んで掘割りに飛び込んだのです。
――太宰治「女類」
清少納言だっていろいろなことを経験したのであろうが、太宰治くらいになると、何を書いても生きてるのか死んでるのか、馬鹿野郎なのか利口なのか、分からなくなってしまうのであろう。その結果、言葉の作用を殊更に大きく取りあげたりするのである。清少納言にはそこまでの意識はない気がする。