父から、中日新聞(たぶん)の記事の切り抜きが送られてきた。
例の水無神社祭の記事である。
「みこしまくり」の由来は、記事によって微妙に違っている。活字文化であろうと口承文芸であろうと、フィクションが変形していってしまうことにかわりはない。そもそも、みこしが今のような形になったのが比較的新しいかもしれないというのは、水無神社に飾ってある天保年間の絵をみて子どものころから気になっていた。それは細い担ぎ棒に塗りや飾りの付いたちゃらちゃらした感じなのだ。いかにも軽そうに担いでるし……。これである↓
ちょいと気になって、以前古本で買っておいた『木曽福島町史』を繙いてみた。江戸時代にはどうやら「まく」っておらず、「押し事」という行為だったらしい。それをやっておったところ、ある時誤ってみこしを取り落としてしまった、それをみた山村代官はお笑いになり上機嫌であった。で、ついに毎年無理矢理落としてご機嫌をとるようになった、という説まである。ただし、根拠は案の定「古老の言を聞くに」、であり、この古老が私の如く嘘つきである可能性は捨てきれぬ。
そもそも宗助幸助が、飛騨の水無神社から何故、如何にしてみこしを持ってきたのかにも、いろいろ伝説がある。追っ手ともみ合いになったので、急遽転がしたのではなく、もみ合った結果、みこしが壊れたのだという説。追っ手も何も来なかったがあまりに重いので転がしてしまった説。
町史をみる限り、ほとんど何も分かっておらぬのだ……。
で、私なりに、みこしまくりの由来を妄想してみた。当然ながら、何の根拠もない。
1、木曽にすむ宗助(組)と幸助(組)という、荒くれ樵+職人集団は、遠い先祖こそ京都に出張していた自称エリートであったが、戦国時代、殿上人たちが貧乏になって建築に金をかけなくなったので(と、彼らは言い訳していたが……)、すごく暇だった。で、みこしをつくってどちらがはやく担いで山を登れるか競争して遊んでいた。しかし、当然、みこしどうしをぶつけ合って喧嘩になるだけであった。
2、困った両集団は、水無神社の宮司に審判を頼んだ。しかし、荒くれ者たちは競争の途中で刃物を持ち出すなど、クズどもばかり。困った宮司は、宗助幸助の先祖たちが飛騨からみこしを担いできた英雄譚をでっちあげ、「おぬしら仲良くせい」と説教。荒くれ者たちはロマン派で純朴だったので、それを聞いて何故か仲直り。「かにかくに物は思わず飛騨びとの打つ墨縄のただ一道に」(万葉集)という精神が、彼らにはあった。
3、急に仲良くなった両集団を見ても、村人たちは「まあ、あいつら元々百済か高句麗からきたよそもんだし……」と陰口をたたいていたが、彼らがときどき稲や芋を盗むのでついに怒り爆発、鍬で撲殺してしまった。
4、さすがに村人たちも気分は良くなかったので、彼らがやっていたみこし競争を真似て霊を弔うことにした。
5、江戸時代、山村代官が趣味にお金を使いすぎ、みこしをつくるお金がなくなったので、一つだけつくることにし、みんなでみこしを中心に押しくらまんじゅう(押し事)するだけにした。
6、あるとき山村代官が、あやまって道ばたに転がったみこしを見て笑ってしまい(以下略)
7、明治維新になり、明治天皇が「神」となったので、水無神社も「ついに我々の時代がきた」ということで、宗助幸助の伝説の整備に取りかかる。みこしも江戸期のようなちゃらちゃらした感じではなく、いかにもご神木の雰囲気を漂わせたデザインに変えた。
8、戦前の地方文化運動に乗って、みこしまくり伝説が流布されてゆく。