サッカーが負けちゃったので、いろいろ考えることが多かった一日であったが、結局たどり着いた結論は──まさに大人(笑)の倫理として大切なのは「負けるが勝ち」ということである。
私は、基本的に戦時中の文学の研究者だが、そのころの文学をいろいろ読んでいて思うのは、とにかくいろんなことで全面的に勝利したいと考えている文学は、そのときはなんとなく威勢が良く感じるのであるが、あとあと振り返ってみると非常に恥ずかしい文章になってしまっているということだ。
大本営発表に「勝利だよ勝利だよ」と刷り込まれた、だけではなく、右も左も中間も、上も下も、勝利を急ぎすぎている。勝つためには物事に順番をつけ、やらねばならぬことから片づける必要がある。そのためにとりあえず一つ目から全力投球する、のはいいのだが、負けたときに必要なことをやっていないので、すごく慌てる羽目になる。結局、能率は落ちる。
ニーチェ的な言説には、キリスト教のルサンチマンの裏返しである善意を批判しすぎて、キリスト教的でない自分が勝ったと思いこむ癖があるような気がする。自分こそ、いままでキリスト教の善意の同調圧力に負けてルサンチマンをため込んでいたことを忘れてしまうのである。
というわけで日本は負けて良かったぞ、思い切り汚辱にまみれた迂遠な道をたどり、いつの日にか勝利するのだ。そして、今日のようにいずれ負けるのである。
私は、基本的に戦時中の文学の研究者だが、そのころの文学をいろいろ読んでいて思うのは、とにかくいろんなことで全面的に勝利したいと考えている文学は、そのときはなんとなく威勢が良く感じるのであるが、あとあと振り返ってみると非常に恥ずかしい文章になってしまっているということだ。
大本営発表に「勝利だよ勝利だよ」と刷り込まれた、だけではなく、右も左も中間も、上も下も、勝利を急ぎすぎている。勝つためには物事に順番をつけ、やらねばならぬことから片づける必要がある。そのためにとりあえず一つ目から全力投球する、のはいいのだが、負けたときに必要なことをやっていないので、すごく慌てる羽目になる。結局、能率は落ちる。
ニーチェ的な言説には、キリスト教のルサンチマンの裏返しである善意を批判しすぎて、キリスト教的でない自分が勝ったと思いこむ癖があるような気がする。自分こそ、いままでキリスト教の善意の同調圧力に負けてルサンチマンをため込んでいたことを忘れてしまうのである。
というわけで日本は負けて良かったぞ、思い切り汚辱にまみれた迂遠な道をたどり、いつの日にか勝利するのだ。そして、今日のようにいずれ負けるのである。