ナポレオン
水無神社のお祭りが今年も行われているようである。御神輿を町中担いで歩いた後、転がして壊してしまうお祭りである。かなり重い神輿であり、道が舗装されたために余計破壊音が凶悪なものになったそうである(今私がそうだと思っただけ……)。昔、飛騨に出張していた宗助・幸助という樵が、戦火の混乱で焼けそうになっているお宮からご神体を救い出して木曽まで移動させた際に、追っ手の追撃を逃れるために、面倒だから神輿を木曽側にまくり(方言で、「転がす」の意)落としたという伝説から来ている。実際は単なる勧請だったのかもしれないが、飛騨と木曽の間には、御嶽を中心に険しい山が立ちはだかっており、その地形の事情が実はこの話のきもであることは明らかだと私は思う。
宗助・幸助の伝説も不思議である。よく分からんが、子どもの頃、この話を聞いた時、宗助・幸助は、はじめから神様を奪い取るために飛騨に行っていたのではなかろうかという疑問を私は持った。要するに、十字軍的ななにかだったかもしれないのだ。日本人が昔から多神教的なちゃらんぽらんさを持っていたとは限らないと思うのである。というか、問題は勧請とか分霊という発想がどの地点で支配的になったかだ。勉強していないので知らないが……、非常に集権的な匂いのする発想である。要するに霊の天下りではないか。……宗助・幸助が樵だったことを考えると、あるいは飛騨の匠関係者のゴタゴタだったのかもしれない。あるいは、宗助・幸助がもともと飛騨の水無神社の宮司だったらどうであろう。飛騨の水無神社は江戸期の大原騒動の件だけでなくいろいろとあったはずであって……。そういえば、藤村の父親も飛騨水無神社の宮司だったと思う。彼の、藤村に受け継がれる妙なポジションは……。
http://homepage3.nifty.com/tougenohata/data/minwa127.html
そういえば、牛丸先生のこの記述だと、誤植かどうかは分からんが、飛騨を「火だ」と言い換えている。成る程、水無神社の「水」と飛騨の「火」の戦いの話と捉えている訳である。火は上に昇るが、水は下に降る。神輿もまくられて下に降ったわけである。木曽川の流れは、蛇抜けでなくとも、普段から、まさに、捲られ降るという感じだ。祝い歌「高い山」に曰く「ドンドドンドと鳴る瀬で落ちる ならの小川の瀬で落ちる」。
吾が郷土の星、御嶽海、いきなり十両優勝http://www.shinmai.co.jp/news/20150726/KT150725FTI090004000.php
……白鵬優勝おめでとうございます。
七夕飾り:安保法案批判の垂れ幕撤去…「ふさわしくない」http://mainichi.jp/select/news/20150725k0000e040213000c.html
……まったく、これだから糞田舎もんは勝手にファシズムやってろやと思ったら、長野県じゃねえか。吾が郷土じゃねえか。
小林節氏が来たhttp://blog.goo.ne.jp/shirorinu/e/235f9705136b9a79d6550668a2970f5e
……朝から参加してみたが、小林氏に続いて、地元の民主共産社民の代議士がでてきて見解を述べていた。自民公明は会場の説明によると招待したにもかかわらず敵前逃亡したらしい。会場の反応を含めていろいろと考えさせられたが……。
1、こういうのに参加してみると分かることだが、自分たちが少数派であるのか多数派であるかはどうでも良くなる。集団になるというのは良くも悪くも理屈抜きに「勇気」を得るためだ。これがいかなる方向にも暴走することは歴史が証明しているにせよ、とりあえず集まるのは重要だ。まさに量から質への変化というやつである。
2、怒りによって集結した集団の場合、怒りと笑いは非常に近い位置にある。集団においては、アイロニカルなおちゃらけではない笑いというものがある。しかしこれには知性が必要だ。この笑いを獲得できていたのは、今日はとりあえず、小林氏が一番。あと、笑いというのは、基本的に過去の歴史が決定しているということ。がんばった歴史がないと、笑いは生じない。その意味で、民主党の歴史からは笑いは生じないが、共産社民は笑いがとれる。
3、いつも一〇人前後の控えめな人たちに語っているわたくしからすると、今日の聴衆の多さはすごい。小林氏の知名度にひかれてきたのではない人びとも多かった。たぶん代議士のファンとかもいるんだろうが……。要するに、こういうときに「組織」が必要だとわかる。組織の弊害がおおきいからといって、潰してしまうと後々困るのである。大学人の方がたぶんそれを分かっていない。
4、小林氏曰く「ゾンビのように何度でも立ち上がれ」。学生に言ったそうである。
……山本太郎も今日高松に来ていたらしい。早く言ってくれよ、こっちの方が面白そうなのに。
1、美術館「子ども向け表現を議論」 会田さん作品改変要請
http://www.asahi.com/articles/ASH7T62T2H7TUCVL00B.html?iref=comtop_6_06
……http://m-aida.tumblr.com/によると、たった一名のクレームで、会田誠の作品が撤去されるだのされないなど騒動になっている。問題になっている?「文部科学省にもの申す」の檄文を読んでみたが、この程度のものを「子ども向き」ではないとか言っているから、子どもの自主性やら何やらが育たないのである。やたら発達段階論を振りかざす教員には特徴がある。大人に対するコミュニケーションでも相手を子ども扱いするという点である。ピカソの「ゲルニカ」も子どもには見せない方がいいとか言っているやつを知っているが、戦争や政治的なものを忌避しているわけではないのである。忌避しているのは自分より認識がある人間一般である。「子どもにはこれは無理だろう」という言い訳をする教師は、だいたい自分がその問題に自信がないのである。だから、私は、美術館側が日和ったという見方は正確ではない、と思う。美術館側は、自分の認識に自信がないだけなのである。戦前の偽装転向と言われるものの正体である。本心をひた隠しにして難局を乗り切るつもりならまだましなのだ。単に勉強不足で動揺しているだけなのだからどうしようもない。
だいたい、その檄文の内容にしてからが、最期の方に「全部俺に決めさせろ。」などというオチがまっている類のものである。本当の文部科学省の犯罪的行為を暴きたいなら、教育現場とのやりとりの詳細な脅迫の記録だけでOKだ。それをやっていない会田氏に私は不満を覚えるくらいだ。私も出来ないが。我々の批判を跳ね返すために、もはや却って「まともな」ことが出来なくなっているのが文科省ではないか。親分が子分と普通のまともなコミュニケーションができなくなっているのと同じである。彼らは自分のポジションを保つために、絶対に学問と現場が困る、正しくないことしかできなくなってしまっているのである。でなければ、完全に頭がイカレている。
2、そういえば、鶴見俊輔が死んだらしい。結構いろいろなアカデミシャンが尊敬してたんだね……。私はなぜか鶴見俊輔の文章でスゴイと思ったものに出会ったことがない。この人に比べれば、
われらが首相がテレビに出て「分かりやすい説明」で安保法制についての国民の「理解」を促していたということであるが、案の定、様々な方面から批判にさらされている。政権だから、なんらかの苦しい説明はつきものであり、我々だってそうなのであるが、人文学で大学一年生ぐらいに厳しくしつけられることを気をつけたいものである。
1、「分かりやすい喩え」というのは、大概違ったことを言ってしまうので、真剣な話題には非常に危険である。言葉が違えば、言っていることが違うと見做すべきなのだ。
2、オーバーな手振りは頭の悪い証拠であると見做される。
3、「まさに」「実は」を極力使ってはならない。ナルシスティックな説明だと見做される。
4、文字で言えることに対して絵を使うのは、比喩よりももっと危険であり、違ったことを言ってしまう可能性が大である。だいたい、説明する相手を舐めた行為である。
5、そもそも「わかりやすさ」より「正確さ」が問題である。正確でないことは絶対に分かりやすくはならないのである。
6、相手から「分からない」と言われたら、「お前の言っていることは間違っている」という意味だと見做さなければならない場合が多い。
7、やたら横文字を交えた議論が、正確であった試しはない。
8、嘘をつくんじゃねえよ。
……書いてて、耳が痛くなってきたが、とにかく我々の共同体がとち狂っているのは、上のようなコモンセンスがあちこちで崩壊しつづけているからである。しかし、これらは、教員や学者がしつこく言い続けなければ容易に崩壊するものであろう。というより、上のようなコモンセンスがないとまともな社会は成立しないのではなかろうか。
……以上は、人文学をやるものとして一般論を述べたまでである。いまの安保法制の議論で、火事とか防犯の比喩を出してくる人たちがいるが、それは単にやつらが比喩も使えないバカなのではないことを示している。彼らは、安保は「安全」保障だといっているのである。津波火事地震台風対策がいま大変に盛んであるが、これに乗じて、というかこれらの対策があまりに大げさなのは、大震災のせいではないのは明らかであって、すなわち、やつらは自然災害と対外戦争を意図的にひとくくりにするつもりなのだ。もっとも、こういうやり方は、近代日本の「戦争対策」の常套なのである。何かあるとすべてをわれわれの「安全
」を脅かし「波風を立てる」ものとして扱うことで、非国民も津波も同じく不快なものになる。しかしさすがにそんな感覚は長く続かんから、かかる動物レベルの感覚を維持するために、馬鹿みたいな死者崇拝を行ってあまりものをいえない儀式的な雰囲気を醸成した上で、堅気ヤクザみたいな人物が脅迫要員として動員され――各共同体のボスがいつの間にかそういうやつらに入れ替わってしまうのだ。かくして、非国民狩りと敵国に対する憎悪を自ら強迫的にあおり立てるだけの集団ができあがる。戦争は、戦いについての科学と戦略的で姑息な計画性によってなされるはずが、それよりも仲間はずれと敵国を馬鹿にすること自体が自己目的化する。これは、かなり精神的に無理してるから、勝負がついたら比較的速やかに「すべてなかったことになる」し、実際にあまり具体的なことを覚えていない。いじめの常習犯が案外自分が行ったいじめを記憶していないのと同じである。
しかし、地震津波対策と防空演習と人間のトラブル、これらの区別がつかない頭で戦争やってもどうせまた負ける。津波や地震は日本人を恨まないけど、人は日本人を恨み分析し価値判断する。それはある程度粗雑なものが含まれるに決まっているし、判断された方も惨めったらしくなってしまう。戦後日本人が味わってきたことである。そんな感じで、不幸にもできあがってしまった頭のいじけた日本人から回復したいのであれば、せめて、外交と文化的発展について行けるように、正々堂々、英語だけでなく様々な外国語の訓練を大学でみっちりとやり、世界の人文学と理学をしっかり勉強することが必要なのは自明ではないか。攻めてくるのは水や地面――、本当は、兵隊ですらない。こちらの行動規範や人間性を変えてしまうであろう文物、いってみれば人間よりも強烈な「人間」である。そういう「人間」たち――プラトンとかマルクスとかカントとかドストエフスキーとか聖書とかコーランとかブッダとか……など――を、その本文に即して議論したことのない人間は、まだ「まともな人間」とはいえない。極論をいえば、歴史的に、日本人はテクノロジーを模倣できたのかもしれないが、文物にはずっと対抗できないで今日に至っており、日本の地位がいまいちなのはそういう文物=「人間」がいないからである。大和魂とか美しい日本なんか、この「人間」に比べりゃ本の装丁みたいなものである。なのに、実践を大事にせよ、社会的ニーズを考えよ、じゃあ文系はいりませんなあ、とか、どこからつっこんでいいのか分からないほど、頭とタチが悪すぎる。内向きというより野蛮である。彼らは、仲間の異分子を抹殺することと、外側の敵を抹殺しようとすることの区別もつかない、ナショナリスト以前のチンピラである。彼らが陸続として現れるのはしょうがないとしても、彼らが国民すら敬わないのは、現在の日本の文物の弱さと関係がある。これは冗談ではなく、日本が太平洋戦争に曲がりなりにも大学生を動員できたのは、京都学派と日本浪曼派とレーニンの翻訳のおかげのような気がする。決して葉隠のおかげではない。まだ守るものが存在していたのである。
しかしながら、いまや、守る価値がある祖国なのかどうかあやしいからといって、チンピラに戻ることはない。勉強する気がある者なら、もはや我々は先人の贈り物をまともに受け取るだけでも大変なことであると分かるはずである。それは、国の中からも外からも、どこからでも送られているのであって、それを好悪で拒否できると思いたいなら、もう我々はすでに死んでいる。