★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

悪魔くんが、本当の悪魔くんだった件

2012-02-29 01:38:44 | 漫画など


「悪魔くん」にはいろいろなバージョンがあるが、わたしはこれしか読んだことも見たこともない。ファウストが、唯一認めた天才である「山田真吾」に「地球が一つになり万人が兄弟になる国」を実現してくれと頼んだので、真吾君はその線でがんばるかと思いきや、メフィストを使って化け物達と「兄弟」のように仲良くという喧嘩というか……をする話としか思えん。そのために、日本は大変なことに。結局、真吾君がメフィストと縁が切れて普通の少年に戻ったら平和になったような気がする。……水木しげる、よく分かってるではないか(笑)

コテコテ大阪弁でマタイ受難曲

2012-02-27 23:19:43 | 音楽
聖書といえば、やはり文語体というのがわたくしの感覚である。私のような戦前の文学をあれこれいじくり回す学者にとっては、もはや外国文学の翻訳全般が文語体でないとどうもすっきり来ないのである。というのは嘘であるが、樋口一葉を現代語訳するのが不可能な感じがするように、訳しちゃいかんもんは訳しちゃいかん、と思ってしまうほどである。

という訳で、マーラーやシェーンベルクの字幕なんかも古文でやって欲しいわたくしであるのだが、おもしろい動画を見つけたので貼っておく。コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」である。

【Bach】コテコテ大阪弁訳「マタイ受難曲」 第01曲


冒頭から人類の遺産的な勢いの名曲、「Kommt, ihr Töchter, helft mir klagen」 が、「来なはれ、娘さん 一緒に嘆こやないかい」って、確かにそうであるが、笑ってしまう。ところが、聴き続けるうちに、やはりそれなりに感動に包まれるのである。だいたい大阪弁を笑いの言語として認識している非大阪弁人の私のような感覚がおかしいのだ。「あんさんはわてらの罪を全部負わはった」「見てみぃ」「何処をやねん?」「わてらの罪を」「せやなかったら、わてらは絶望してまうで」「見てみぃ」「何処をやねん?」「わてらの罪を」……

ユダは案の定、祭司長に「なんぼくれまっか」で、しまいにゃ「えらいことしてもうた」と歌いだした。絶望は絶望である。

Changeling

2012-02-25 23:36:53 | 映画


私は、取り替え子(Changeling)伝承を単に知識として知っているだけだから、実際にこの伝承が生きている社会でこの映画をみるとどういうことになるのか、ちょっと想像がつかない。

とりあえず、イーストウッドの映画のいくつかのように、勧善懲悪を脱構築して見る者を考える人間へと導こうとするやり方は見事だった。

前半は、行方不明の男の子が見つかっていないのに、適当な他人を見繕って「発見」したといいくるめようとし、即座に間違いに気付いた(←当たり前)母親を精神病院に放り込むなど、あきれてものもいえんような警察のめちゃくちゃぶりが描かれている。その母親を救い出すのは、ラジオを使って説教をするような反警察の神父や弁護士、ちゃんと仕事している刑事達、果ては、もともとマスコミの警察に対するネガティブキャンペンーンの影響下にあった市民達である。犯人と思しき男もつかまった。ここまではわかりやすい。問題は後半である。子どもが殺された確証はまだないのに、警察は犯人と思しき男が男の子を殺したことにして事件の幕引きをはかり、おそらく市民のなかでも「子どもが殺人犯に殺されたにも関わらず警察と闘った母親」としての像が一人歩きし、神父も「子どもとは天国で会える」とまで言い出す始末。母親の孤独な戦いは、実はここから始まっている。この戦いは、彼女が(おそらく彼女自身にも)孤独であることが分からないほど孤独なものである。犯人とされている男も、監獄での宗教的な教育やなにやらで、真実を母親に伝えることも出来ないほどおかしくなってしまっていた。彼は「地獄に堕ちたくない」というが、これは、この犯人の罪を通告したある移民?の子どものいったせりふと同じであり、母親も最後にはっきりした根拠もなく彼に「地獄に堕ちろ」と言ってしまう。権力はあからさまな暴力による警察みたいなものにもあるが、たぶん善意で動いているマスコミ、市民、キリスト教(←これ重要)にもある。映画は、前半で前者を糾弾し、後半で後者を糾弾しようとしてできないでいる。それは我々が生存している基盤そのものを疑う極めて困難なことだからである。死刑の場面をカットせずにわざわざ長々と描いているのも、その企図によるであろう。最後、息子がまだどこかで名乗り出ることが出来ずに生きている可能性、死んだとしても最後に人助けをしていたことが示唆され、母親も「今まで見いだせなかった希望が見つかった」と言う訳だが、単に息子が生きている可能性が生じたことへの「希望」という意味でも、上記のような全体としてどうしようもない社会の中での「パンドラの匣」的な「希望」という意味でもなかろう。母親は、単に生きているか死んでいるか、殺されたのか殺されていないのかという「意味」の中にいた息子が、いろいろなことを考えながら生きている、あるいは生きていたという「意味」の中にうつされたことを実感したのであろう。彼女もようやく自分がやってきたことに対する意味を見いだせたはずである。生か死か、正義か悪か、ではなく、とりあえず「考えながら生きて行く他はない」と言っているようである。

寝不足で体調不良の中観たので、このぐらいしか思いつかないのだが、もう一度観てみたいと思った。

黒多し

2012-02-24 23:42:12 | 漫画など


コンビニで売っていたのでつい買ってしまったのだが、所謂コンビニコミックというやつである。水木しげるが60年代初頭に描いた山本五十六伝が中心の本であった。水木しげるについてはよく知らないが、彼の漫画は夜の場面が印象に残る。それでなくても全体的に黒い部分が多い。

そう思ってみると、我々の見ている世界もかなり黒い部分が多いことに気がついた。

吾輩発見

2012-02-23 21:50:13 | 文学


吾輩発見



吾輩のしっぽ発見

「……明治の御代に生れて幸さ。僕などは未来記を作るだけあって、頭脳が時勢より一二歩ずつ前へ出ているからちゃんと今から独身でいるんだよ。人は失恋の結果だなどと騒ぐが、近眼者の視るところは実に憐れなほど浅薄なものだ。それはとにかく、未来記の続きを話すとこうさ。その時一人の哲学者が天降って破天荒の真理を唱道する。その説に曰くさ。人間は個性の動物である。個性を滅すれば人間を滅すると同結果に陥る。いやしくも人間の意義を完からしめんためには、いかなる価を払うとも構わないからこの個性を保持すると同時に発達せしめなければならん。かの陋習に縛せられて、いやいやながら結婚を執行するのは人間自然の傾向に反した蛮風であって、個性の発達せざる蒙昧の時代はいざ知らず、文明の今日なおこの弊竇に陥って恬として顧みないのははなはだしき謬見である。開化の高潮度に達せる今代において二個の個性が普通以上に親密の程度をもって連結され得べき理由のあるべきはずがない。この覩易き理由はあるにも関らず無教育の青年男女が一時の劣情に駆られて、漫に合きんの式を挙ぐるは悖徳没倫のはなはだしき所為である。吾人は人道のため、文明のため、彼等青年男女の個性保護のため、全力を挙げこの蛮風に抵抗せざるべからず……」
「先生私はその説には全然反対です」と東風君はこの時思い切った調子でぴたりと平手で膝頭を叩いた。

愛は天災と階級闘争である

2012-02-22 23:01:35 | 漫画など


いろいろと疲れたので、ひさしぶりに映画見て漫画を読みました。

『ドラゴン・ヘッド』と『愛と誠』。どちらも、災難が愛を生むという話だった(笑)

『ドラゴン・ヘッド』の原作は、昨年読んだような気がする。途中から、まさか『北斗の拳』や『バイオレンスジャック』みたいな感じになるのではあるまいな……と思ったら、最後そうはならなくて安心した。大震災のあと、ネットの世界では地震の数分後には、身長3メートルぐらいのモヒカンちんぴらどもがのし歩く絵とかが流れ始めたが、現実にはそうはならなかった(たぶん)。むしろ、日常生活を死んでも続けようとする冷静さの頑強さに我々自身驚いたのではあるまいか。我々には、パニックになることと行動することがほとんど同じことのように感じられる特性すら生じているのではあるまいか。

『ドラゴンヘッド』の原作にヒーローがいないわけではない。主役の高校生の男女が案外しっかりしていたので、荒野のラブストーリーとして成立していた。特に女の子がしっかりしていた。女の子に基本的に不信感を持つわたくしとしては、映画版のSAYAKAの発音不明瞭のへたっとした感じの方が現実感があった。そのはずである、(演技に悪い意味で定評があるお母さんに較べても)SAYAKAさんはほとんど素人なんだから……。リアルなはずだ。私の複雑感情も相当深刻である。

『愛と誠』は、来年、……これも偶然なことに、『ドラゴン・ヘッド』の男子高校生役のひとを主役に再映画化されるそうである。この漫画が連載されていた頃、私はまだ幼児だったこともあり、この漫画自体、最近まで知らなかった。『巨人の星』や『あしたのジョー』より設定がおもしろい話のような感じがするのであるが、第一巻しか読んでないから分からない。階級闘争と愛の問題をがんばってつなげようとしてきた昭和時代……のある種の到達点ではあるまいか(笑)劈頭のネルーの言葉からおそろしいテンションである。

愛は平和ではない
愛は戦いである
武器のかわりが
誠実であるだけで
それは地上における
もっともはげしい きびしい
みずからをすてて
かからなければならない
戦いであるー
我が子よ
このことを
覚えておきなさい

……この「戦い」は、メタファーではない。文字通り戦争を、物語上では階級闘争を意味するのである。

恋愛は個人でするものではない、天災や階級闘争が行うものである。

雪灯りの散歩道

2012-02-18 07:23:29 | 日記
郷里では2月はじめに「雪灯りの散歩路」というお祭りがある。行ったことないけど……

http://www.kankou-kiso.com/event/yukiakari.html

アイスキャンドルとか雪像を町中に並べるのである。

「中部電力木曽営業所長賞」とやらをもらった「ドラゴンズ・竜の子たろう」。制作者の父上と母上。



http://www.hundred-years.com/cp-bin/blog/
こちらにも紹介されていた(笑)

別れに花束

2012-02-18 05:36:29 | 大学


口頭試問も終わり、謝恩会から帰ってきました。今年はなんだか別れが多い気がします。

それにしても、いつも私の指導学生は、送別会や謝恩会でもしくしく泣いたりしないやつが殆どであるのは何故だろう。私とか国語研究室のことなど最早ほとんどどうでもよくなっているのか、めったなことでは泣かない私の冷え切った心まで指導されてしまったのか、この程度で泣いてるのは「それ何の大衆読み物?」と感じる私の感覚が移っているのか……。おそらく、卒業論文を書く過程で、涙は枯れ果て、なぜか笑えてくる境地まで達しているからであろう。我々学者と同じく、論文を書き終えた若者に見えてくるのは、生き生きと冷え切った世の中の姿である。そこに自己を慰撫する余地はない、たぶん。