改元だ即位だとかで盛り上がっている醜悪な日本であるが、なんとかしなければ、このままクソさは止まらない。
天変しきりにさとし、世の中静かならぬは、このけなり。いときなく、ものの心知ろし召すまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢足りおはしまして、何事もわきまへさせたまふべき時に至りて、咎をも示すなり。 よろづのこと、親の御世より始まるにこそはべるなれ。
冷泉帝は、僧都から自らの出生の秘密を告げられた。それだけならばよかったが、最近の世の中の乱れは、彼がいい歳してその秘密を知らなかったという咎を示すものだというのである。源氏物語における「罪」の観念がどういうものであるかはいろいろ考え方があるようであるが、帝を動揺させるのは、長い間〈間違えていた〉、という意識ではなかろうか。この感覚は、おそらく源氏や藤壺という実の両親も同じ時間持っていたものであり、宿痾のようにつきあわなければならないものであって――、死んだ母は勿論、父の源氏は動きようがないから、少しでも事態を打開できるとしたら帝自身しかあり得ない。天は、今の科学法則のようなものであろうから(違うか……)、逆らえない。天に繋がる、世を統べる身としては過ちは直ちに修正しなければ、それは世の乱れとして反映されてしまうであろう……。
今回、元号を変えるということに関しては、今の天皇が「平成」の世のあまりの乱れように終止符をうつために提案したものだという説があった。本当のところはわからないのだが、そうだとしたら、予祝的祭司の面目躍如と言ったところか。しかし、いまの憲法は天皇を国民の憲法意思そのものの現れみたいに書いているので、ただひとり、憲法違反を行えないのが天皇でもある。象徴天皇の道は果てしなく遠く、みたいなことを話していた天皇であるが、それを言明しなければならないほど憲法意思をしっかり持ってそれを実現していなくてはならないのである。国民はそうでもないし、与党は無論である。それは、天皇がつねに意思を肩代わりしてくれている面があるからである。予祝と憲法意思(つまりは戦争に対する反省だ)の両輪の役割に照らして、今の日本はどうしようもない。一度、わたくしがリセットしましょう、という訳かもしれない。
ともかく、我が国は、天皇がまず責任を感じなければならないような仕組みは、源氏物語のときから全く変わっていない――ずっと変わらなかったわけではないが、そんなところに帰ってしまったのかもしれない。
そういえば、以前どこかで、平成の乱世っぷりを、美智子皇后が畏れ多くも天皇に嫁いだからであり、さらに皇太子も同じ事を繰り返したせいであり、といったことを言っている人すらいた。ここまででなくても、天皇一家の様子を、「雰囲気いいよね」「悪いよね」とか浮かれている輩は多いわけだし、「令和」になって平和になって欲しいです、とか言うてる国民は多い訳である。頭が悪いとしかいいようがないようにもおもえるわけだが、――難しく考えるより、これは一種の「いい子」いじめであるとみなした方がいいかもしれない。一種の厄払い的な感覚がそれを支えている。
今度の天皇は、最近の天皇に比べて人気がない。
こういうときに、天皇は我々の似姿ではないから、キルケゴールではないが我々は自らへの絶望を決して感じないので死ぬこともない。逆に元気になってしまうのではないか。思うに、平成の天皇はあまりにいい子ちゃん過ぎて、逆に我々がぐれてしまったのかもしれない。安倍氏などは、どことなく庶民と似ているから彼を否定することは今の国民には難しいだろう。いっそ、今度の天皇には、不倫とか暴言をやっていただいて、天皇の色好みの伝統並びに庶民の共和制への目覚めをうながすというのはどうであろうか。
だいたい、日本国憲法の天皇の規定である「象徴」がなぜか良い意味しか代入できないようになっているのが、平和主義とタッグを組んで両方を担保するという巧妙なやり方であるのと同時に、非常に欺瞞的なのだ。それによって、昭和天皇の責任まで問えなくなっている。平和主義がアメリカに引き摺られて没落した後、その象徴が平和主義まで担ってしまったわけだが、そんな風に国民が楽をする必要はない。
そう考えた場合には、我々は、もう一度、天皇なしで悲惨な敗戦を経験し、内なる罪を断罪して0から出直せと言うことになる。
が、それはないので、やはり次の天皇に暴れてもらうほかはないようだ。さすれば、国民が本当の厄払いとして天皇制を放り出すかもしれないからだ。