★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

人に押し消たれむこと

2019-04-30 22:16:35 | 文学


同じ筋にはものしたまへど、おぼえことに、昔よりやむごとなく聞こえたまふを、御心など移りなば、はしたなくもあべいかな。年ごろの御もてなしなどは、立ち並ぶ方なく、さすがにならひて、人に押し消たれむこと

源氏は藤壺が死んでも何がなんでも、自らの属性のまま生き続ける人とみえる。そういえば、今日のNHKスペシャルでは、大嘗祭で行われているのかもしれない真床襲衾についてかすったような説明が行われていた。折口の「大嘗祭の本義」を読んでみると、まあよくわからんが、――その神道の本性に比べて源氏物語はもう仏教のもとでの話だという印象を受ける。とはいっても、源氏物語には、どことなく、天子は本当は源氏みたいな色好みが本質で、と言っている部分があるように思われてこないではない。一方、源氏物語の世界は、権力との関係に失敗すると恐ろしい不幸におちる(源氏を含めた)人々が描かれているが、源氏の繰り返す愛の行為もそれによってさまざまに脱臼させられている。仏の教えがそれを救っているとはとても思えない。

それはともかく、紫の上はいまさら嫉妬にかられているわけで、「人に押し消たれむ」という言い方が暴力的である。これは文字通りとるべきであって、あとで残る自意識なんか想定されていないのである。

最近の学生をみていると、ほんとうにこんな感じになってきているような気がする。元号が変わって、本当に何かが変わってしまうような人が多いことはあり得る。根本的に厄をはらっているわけであるからして……。そしてそんな気分のせいで、また世界には負け続けるかもしれない。考えてみると、これから中国にもアメリカにもそのほかの国にもおそろしく負けることを庶民は知っている。せいぜい出来るのは厄払いだという訳か……。

十連休なのでわたくしに限らずいらぬことを考える

2019-04-29 23:21:20 | ニュース


改元だ即位だとかで盛り上がっている醜悪な日本であるが、なんとかしなければ、このままクソさは止まらない。

天変しきりにさとし、世の中静かならぬは、このけなり。いときなく、ものの心知ろし召すまじかりつるほどこそはべりつれ、やうやう御齢足りおはしまして、何事もわきまへさせたまふべき時に至りて、咎をも示すなり。 よろづのこと、親の御世より始まるにこそはべるなれ。


冷泉帝は、僧都から自らの出生の秘密を告げられた。それだけならばよかったが、最近の世の中の乱れは、彼がいい歳してその秘密を知らなかったという咎を示すものだというのである。源氏物語における「罪」の観念がどういうものであるかはいろいろ考え方があるようであるが、帝を動揺させるのは、長い間〈間違えていた〉、という意識ではなかろうか。この感覚は、おそらく源氏や藤壺という実の両親も同じ時間持っていたものであり、宿痾のようにつきあわなければならないものであって――、死んだ母は勿論、父の源氏は動きようがないから、少しでも事態を打開できるとしたら帝自身しかあり得ない。天は、今の科学法則のようなものであろうから(違うか……)、逆らえない。天に繋がる、世を統べる身としては過ちは直ちに修正しなければ、それは世の乱れとして反映されてしまうであろう……。

今回、元号を変えるということに関しては、今の天皇が「平成」の世のあまりの乱れように終止符をうつために提案したものだという説があった。本当のところはわからないのだが、そうだとしたら、予祝的祭司の面目躍如と言ったところか。しかし、いまの憲法は天皇を国民の憲法意思そのものの現れみたいに書いているので、ただひとり、憲法違反を行えないのが天皇でもある。象徴天皇の道は果てしなく遠く、みたいなことを話していた天皇であるが、それを言明しなければならないほど憲法意思をしっかり持ってそれを実現していなくてはならないのである。国民はそうでもないし、与党は無論である。それは、天皇がつねに意思を肩代わりしてくれている面があるからである。予祝と憲法意思(つまりは戦争に対する反省だ)の両輪の役割に照らして、今の日本はどうしようもない。一度、わたくしがリセットしましょう、という訳かもしれない。

ともかく、我が国は、天皇がまず責任を感じなければならないような仕組みは、源氏物語のときから全く変わっていない――ずっと変わらなかったわけではないが、そんなところに帰ってしまったのかもしれない。

そういえば、以前どこかで、平成の乱世っぷりを、美智子皇后が畏れ多くも天皇に嫁いだからであり、さらに皇太子も同じ事を繰り返したせいであり、といったことを言っている人すらいた。ここまででなくても、天皇一家の様子を、「雰囲気いいよね」「悪いよね」とか浮かれている輩は多いわけだし、「令和」になって平和になって欲しいです、とか言うてる国民は多い訳である。頭が悪いとしかいいようがないようにもおもえるわけだが、――難しく考えるより、これは一種の「いい子」いじめであるとみなした方がいいかもしれない。一種の厄払い的な感覚がそれを支えている。

今度の天皇は、最近の天皇に比べて人気がない。

こういうときに、天皇は我々の似姿ではないから、キルケゴールではないが我々は自らへの絶望を決して感じないので死ぬこともない。逆に元気になってしまうのではないか。思うに、平成の天皇はあまりにいい子ちゃん過ぎて、逆に我々がぐれてしまったのかもしれない。安倍氏などは、どことなく庶民と似ているから彼を否定することは今の国民には難しいだろう。いっそ、今度の天皇には、不倫とか暴言をやっていただいて、天皇の色好みの伝統並びに庶民の共和制への目覚めをうながすというのはどうであろうか。

だいたい、日本国憲法の天皇の規定である「象徴」がなぜか良い意味しか代入できないようになっているのが、平和主義とタッグを組んで両方を担保するという巧妙なやり方であるのと同時に、非常に欺瞞的なのだ。それによって、昭和天皇の責任まで問えなくなっている。平和主義がアメリカに引き摺られて没落した後、その象徴が平和主義まで担ってしまったわけだが、そんな風に国民が楽をする必要はない。

そう考えた場合には、我々は、もう一度、天皇なしで悲惨な敗戦を経験し、内なる罪を断罪して0から出直せと言うことになる。

が、それはないので、やはり次の天皇に暴れてもらうほかはないようだ。さすれば、国民が本当の厄払いとして天皇制を放り出すかもしれないからだ。

心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける

2019-04-28 23:35:16 | 文学


「高き宿世、世の栄えも並ぶ人なく、心のうちに飽かず思ふことも人にまさりける身」と思し知らる。主上の、夢のうちにも、かかる事の心を知らせたまはぬを、さすがに心苦しう見たてまつりたまひて、これのみぞ、うしろめたくむすぼほれたることに、思し置かるべき心地したまひける。


藤壺の宮が三十七才で亡くなる場面で、自分の一生と帝(息子)について思う彼女であるが、やはりこれはもう朦朧としていると思うのである。現代語訳では、具体的に説明しながら訳している場合も多いが、藤壺の苦悩は自分の人生全般に及んでおり、源氏とのことは重大事ではあるが、それと繋がっているところの自分の人生全体の方が重くなっているのだと思う。

と思って、『あさきゆめみし』の当該箇所をみてみたが、なかなかよく出来ていて、さすが大和和紀であった。思うに、階級社会のあるところ、栄光と悔恨を統一するある種の能力の境地があると信じられているような気がする。

それにしても――栄光と悔恨の関係を絵であらわしてしまうとこの漫画のようになるのであろうが、わたくしはより次のような感覚として捉えてみたいと思う。

まあ、なんと言ったらいいだろう、そうだ、自分の身体がなんのこともなくついばらばらに壊れてゆくような気持であった。身を縮めて、一生懸命に抱きしめていても、いつか自分の力の方が敗けてゆくような――目が覚めた時、彼は自分がおびただしい悪寒に襲われてがたがた慄えているのを知った。
――相馬泰三「六月」


藤壺はもう死ぬほどの状態にあるのだ。たぶんこれに近いのであろうと……。

疲労困憊

2019-04-27 23:29:20 | 日記


いろいろ仕事で疲れたので、早く寝ることにする。

最近、マックスウェーバーの『プロテスタンティズム~』を再読しているんだが、わたくしの論理というのは、いつも第一章の1で終わっているようなものだと思った。


反動的反省

2019-04-26 23:40:13 | 文学
ジョセフ・シュワントナー/反動 Recoil


反動を聴きながら、今日の反省をする。

・学生から『転生!太宰治――転生して、すみません』をすすめられたので、いつか読もうと思う。――というかすこしよんでみた。

「最近、私がよく見ているものは、『アイドルマスター』です。」(p271)

はあっ?

・細江光氏の『100回『となりのトトロ』を見ても飽きない人のために』をつい買ってしまったのであるが、目的はむろん、細江氏の作品に対するラブビームを読むためだ。谷崎研究の大著でもそれはすごく、「どうしたばけもの、テクスト論者を焼き払えっ」という勢いであった。今回も「となりのトトロ」で、270頁も書ける細江氏であった。いや、何かこれは少しおかしい。短い。と思ったら、後書きで

「本当を言うと、この本は、もっともっと細かく詳しく書きたかったのですが、御迷惑でしょうから、ここらで筆を擱きます。」

ここらで、という口調がすばらしかったのだが、このあと氏はやはり十行近くも書いてしまう。

・A級戦犯著『天才帝国日本の飛騰』を図書館でむさぼり読んだわたくしであった。

・授業では、越智治雄をまるで知り合いのように語ったわたくしであった。こういう調子の良さはわたくしの欠点である。この調子では、来年あたりは安倍晋三あたりを知り合いのように語りかねない。というか、ここまで首相の映像を毎日見ていると、ほぼマブダチのような気がしてきた。

・「ごきげんよう、教員各位。さて、今回の指令だが...」「君あるいは君の仲間が捕まり殺されても、当局は一切感知しないものとする。」「なお、このメッセージは5秒後に自動的に消滅する。」

……確かに、リマインドが二回くらい来ないと、ミッションは自動的に忘れることが多い。

・親知らずの抜歯後の抜糸。歯医者さんの中では、バツイトと呼んでました。

いかに。罪や得らむ

2019-04-25 23:32:38 | 文学


ふところに入れて、うつくしげなる御乳をくくめたまひつつ、戯れゐたまへる御さま、見どころ多かり。御前なる人びとは、
「などか、同じくは」
「いでや」
など、語らひあへり。


明石の君の娘を紫の上が育てることになった。源氏物語はすぐに周りのものたちの感想が書き込まれていて、「実の子だったら」「うんだうんだ」とやかましい。そもそも小説の世界はのぞき見めいた性格があるけれども、源氏の世界は常に実際に誰かが見ているみたいな世界であり、考えてみると、源氏が死んだときの雲隠、しかも本文がないというのは(本当に本文がないと考えたとして……)分かる気がする。源氏はやはく消えてしまいたいという欲望を持っていたとわたくしなんかは想像する。

今日は、ゼミで、最近のヘイトスピーチと戦前の外国人差別の違いなどについて考えた。菊池寛のエッセイも読み直していろいろな発見あり。われわれは実に思い込みをたくさんしている。思うに、菊池寛などは、自分の意見については誠実なのに、他人についてはあんまりそうではない気がする。なんか小林秀雄みたいな人にもそういうところがある。彼らにも「御前なる人びと」みたいな人は多かったはずであるが、自分の意見が普遍的なものであることを確信する習慣は人それぞれにあり、他人によってはどうにも出来ないところがある。源氏も明石の君の娘を貰ってきてしまい、

道すがら、とまりつる人の心苦しさを、「いかに。罪や得らむ」と思す。


とか言っているが、それは「罪」ではないのだ光さんよ、もっと具体的な気持ちなんだよ――と言いたい。明石の君にしっかり聞いてみなはれ。いや、だめか。

第三大臼歯

2019-04-23 23:22:24 | 漫画など


third molars 所謂「親知らず」であるが、私の場合、上下全てが内側に向かって寝転んで生えていて、歯医者でレントゲンを撮ると、いつも医者が「おっ」とか「あっ」とかおっしゃる。わたくしは、乳歯の時に一本欠如していた上に、24才ぐらいに時に、上の前歯の奥に臼歯が発見されたりと、もはや新人類ではないかと思われるのであるが、昨年その親知らずに問題がでて抜くことになり、今日二本目が抜かれていった。

人間、体の一部が欠損すると、なんだか悲しくなるものである。わたくしなぞ、髪の毛を切った後などにも悲哀を感じるくらいだ。

帰宅してから、ふとんのなかで「あれよ星屑」というマンガを読んで、麻酔が覚めるのを待っていた。

山田氏のマンガは、西原理恵子の『できるかなV3』で目撃したことがあったがちゃんと読むのは初めてである。これはすばらしい漫画じゃないかい?

私の歯の世界はちょっとおかしいから、また親知らずも生えてくるのではなかろうか。

平気よ……内緒ごっこなんだから……

2019-04-22 23:48:27 | 文学


「大殿腹の君をうつくしげなりと、世人もて騒ぐは、なほ時世によれば、人の見なすなりけり。かくこそは、すぐれたる人の 山口はしるかりけれ」
と、うち笑みたる顔の何心なきが、愛敬づき、匂ひたるを、 いみじうらうたしと思す。


夕霧は左大臣の孫だからというてみんなは褒めるだけ、それにくらべて明石の君の娘のなんと将来有望な……こりゃすごいことになるにきまってる、と決めつけている源氏であるが、夕霧もこの娘も自分の子どもではないか、ひどい贔屓である。にっこり笑った顔がすごく可愛くどうしようもない。こうなったら、この源氏という男、完全にブレーキの代わりにアクセルを踏んでしまう男である。

このあと、明石の君の娘を紫の上の養子にしてしまうのであった……。

拉致してきた娘に更に拉致してきた娘を……。

だいたい、源氏物語の娘っこたちはどうも源氏とかその他の男に補助金のあれを握られているせいなのかしらんが頭が悪くなっている気がしてならない。安部公房の作品のなかのヨーヨーの娘なんか、

「平気よ……内緒ごっこなんだから……」

という一言によって、仮面を被って周囲をだましているつもりの主人公の男を、一撃で倒す頭脳を持っている。源氏に対してなんか、この「平気よ……内緒ごっこなんだから……」でだいたいの決着はつくのではないだろうか。

しかし、安部公房も頭がいいので、この娘や妻の「見破ったり」の態度を逆手にとり、男が野獣になっても内緒ごっこを続けなければならない、我が社会の女性たちの姿を暴き出すのである。源氏の狼藉余りある。

左、勝つになりぬ

2019-04-21 23:35:01 | 文学


草の手に仮名の所々に書きまぜて、まほの詳しき日記にはあらず、あはれなる歌なども まじれる、たぐひゆかし。誰もこと事思ほさず、さまざまの御絵の興、これに皆移り果てて、あはれにおもしろし。よろづ皆おしゆづりて、左、勝つになりぬ。


絵合の巻で、源氏が須磨で描いた絵日記が圧勝したところなど、あまりに予定調和過ぎてびっくりするところでもある。伊勢や竹取、宇津保などの闘いを経てからの場面なので、まったくもって文学史的な源氏物語の勝利といへよう。

だいたい須磨如きに流されたといって自慢するなという感じである。明石でざぶんと海に飛び込み、京都と正反対に一生懸命に泳げば、やがて高松あたりに流れ着いたであろうに……。

我々の文化には、左右にモノを並べて勝負させるという物合が色濃く残っているとも言われるが、確かに、相撲は言うまでもなく、朝まで生テレビや日曜討論までもそんな感じである。いま、ラ×■などでも、自分対大勢みたいな物合がある。相撲は肉体がぶつかるからまだ公平であるが、朝までや日曜やラなどは必ずマウンティングが行われ、文化が政治的に機能するようになっている。考えてみれば、源氏の日記も、源氏の須磨流しという、内容は露骨な政治的風景である。

中野重治の「歌のわかれ」も最後はそんな風景であった。

彼は凶暴なものに立ちむかって行きたいと思ひはじめていた


源氏の心の中もそんな感じであったのかもしれないが、彼の周りは人が多すぎ、歌を詠みすぎていた。

そして、人が何かの歌を口吟むと、皆眠た気な声を挙げて一人宛順々に歌つて行くのが癖になつてゐた。歌へぬのは私一人だけである。誰が思ひ出して歌ひ出す歌でも、皆が皆、既に好く知り尽してゐる歌ばかりであるらしい。私は何時も彼等の朗かな合唱の聞き手であるだけだ。

――牧野信一「くもり日つづき」


わたくしは、どららかというと、合唱の聞き手である。

いつ終わったのか?

2019-04-20 23:36:48 | 音楽


岡田暁生氏の『「クラシック音楽」はいつ終わったのか?』を読んだ。クラシック音楽における第一次大戦の意味を考えようとする本であった。啓蒙的な本であった。

題名の「いつ終わったのか?」という問いに対して、岡田氏が答えるつもりは最初からない。なぜなら、岡田氏も、それが「終わっていない」ことを知っているからである。クラシック音楽は、むしろ、第一次大戦、第二次大戦の結果、西洋の文化がよりグローバルに拡大することによって、聴衆を増やしているといっていいと思う。録音技術はデジタル化によってより細かい音まで伝えるようになったから、二〇世紀のクラシック音楽のその偏執狂的な側面がどういうものであったかを知ることができるようになったし、その結果、影響もまた強力になっていると思うのである。

だいたいジャズとかロックでさえ、クラシック音楽のある種の進化形である側面がある。シランけど。

数日前に、音楽を聴くことと演奏することはかなり違うのだと述べたが、岡田氏の著作の中でもでてきた、ハインリッヒ・ベッセラーのような「行動し参加する音楽」の方がスゴイと思っているのではない。人は、自らの行為と位置によって物事を大幅に異なって捉えるということを示唆するに過ぎない。そして、その異なった把握でさえ、行為そのものとともに社会の直接的な構成要因なのである。

そういえば、昨年、ある授業で「シェーンベルクやカンディンスキーはなぜ十二音や形の拒否に向かったのだろう」という質問に対して、「それは芸術の内部での心の追求の結果なのだ」と答えたことがあるが、わたくしはこれをあまり言いすぎだと思っていない。社会と音楽を結びつける考え方が、パウル・ベッカーからアドルノにかけての前提であり、より広く共有されていった考え方だというのは、――文学をみてもそうはいえるので、まあそりゃそうなのであろうが、だからといって、個々の音楽の内実まで「社会の説明」で説明できるわけではない。そこを無視すると、「いつ終わったのか?」という問いは、時代や社会が変わっているのに「まだ終わっていないのか」という意識となってしまいかねない。ある文化を終わらせるのは、そういう意識である。


かひなし

2019-04-19 23:01:19 | 文学


今日の御関迎へは、え思ひ捨てたまはじ
など のたまふ御心のうち、いとあはれに思し出づること多かれど、おほぞうにてかひなし。女も、人知れず昔のこと忘れねば、とりかへして、ものあはれなり。

行くと来とせき止めがたき涙をや絶えぬ清水と人は見るらむ

え知りたまはじかし、と思ふに、いとかひなし。


おほぞうにてかひなし、に対して、いとかひなし、を返す源氏と空蝉であり、こんな応答があるから、のちの贈答が生きてくるのであった。

源氏物語が貴種流離譚であるとはいろいろ言われているのであろうが、貴種流離譚が単なるナルシズムでないことがようやくわたくしにもわかりかけて来たような気がする。「いとかひなし」とセットで考える必要があるのである。

そういえば、安部公房が「夫婦ドライブ・北海道への一〇〇〇キロ」というのを「他人の顔」発表の時期に書いている。安部公房というのは、三島とは違ってこういう雑文でも仮面を被らない人で、人間にはあまり興味がないということをさらけ出している。安部公房にも一応政治的なめんどくささに苦労した時期があったはずであるが、それが案外に身に応えていなような気がするのも、この関心のなさから来ているのではあるまいか。光源氏なんか、二〇代の終わりでもう疲れ切っている。本当はたいがいのわれわれもそうであって、三島由紀夫がおそれたのは、それを表明することができないことであったように思われる。確か、安部公房は三島について、常に若々しい感じの人物で、それが彼に私小説を書かせないのだ、と言っていたが、それはたぶん自分に引きつけた感想だったに違いない。

音楽の世界の片隅で

2019-04-17 23:39:00 | 音楽
Respighi, Fountains of Rome, 3rd movement, bass trombone & tuba


音楽を聴くことと、音楽を奏でることにはかなり大きな違いがある。前者の場合は、音楽は自分の外と頭のなかにある気がするが、オーケストラの一部に自分がなるときには、音は自分の内から外に出て行き、なおかつ音楽はオーケストラ全体が作用している場所(観客席)でしか存在していないので、自分ではよく分からない。

例えば、レスピーギの「ローマの噴水」を演奏したときに、観客席からは、上のような聞こえ方はせず、バストロンボーンとチューバの位置(かなり片隅である)から聞くそれはかなり違った音楽なのだ。しかし、この音楽は観客席からは聞こえない、いわば車のエンジンのなかの機械音に似て快楽的なのである。わたくしもバストロンボーンでこの曲を吹いたことがあるので、この動画はよけいいい感じがする。

そんな経験が昂じると、CDなどで「ローマの噴水」を聴いていても、たぶん普通は聞こえないバストロンボーンの音の一部のはやいパッセージが聞こえたりする。これは非常に面白い経験である。

思うに、オーケストラを社会に、トロンボーンをある組織などに置き換えることが出来るのである。最初からは、社会を聞こうとしてはならない。