四国の癖に昼間からどうやら氷点下だったらしく、洗濯物が凍っていることに驚いたついでに、昨日のカップルの凍死をねがうわたくし
おやつの時間で日没
この青空でさっき雪が舞っていた。彼方にみえるのは確かに雪雲だ。雪雲と言えば、こんな場面が思い浮かぶね。
昼過きになると戸外の吹雪は段々鎮まっていって、濃い雪雲から漏れる薄日の光が、窓にたまった雪に来てそっと戯れるまでになった。然し産室の中の人々にはますます重い不安の雲が蔽い被さった。医師は医師で、産婆は産婆で、私は私で、銘々の不安に捕われてしまった。その中で何等の危害をも感ぜぬらしく見えるのは、一番恐ろしい運命の淵に臨んでいる産婦と胎児だけだった。二つの生命は昏々として死の方へ眠って行った。(「小さき者へ」)
共通科目最終日。
「死の欲動」とか「堕落」とか調子こいてしゃべっていて、さあ「捨てられた女?」の例として、とりあえず「越冬つばめ」を聴いてみようっ、とCDをかけたところが……
突然
「きみといちゃいちゃしてるところをみられちゃったあわっピコピコ」
と、Perfumeの「ジェニーはご機嫌ななめ」が流れてしまいました。申し訳ありませんでした。終わりよければすべてよし。
明日は、恋愛小説の講義の最終回である。安部公房の「他人の顔」と「箱男」がメインである。前者は最終場面、後者は《Dの場合》を取りあげる。その前に「サロメ」からはいるから、朝っぱらから銀のお盆に生首登場の予定っ。
今回の講義はちょっとたくさんの作品を扱いすぎた。文学を論じるスピードでしゃべることができなかった。やはり大学はカルチャーセンターのそれみたいな内容と構成にしてもだめなのである。もっといえば、計画通りに進んだのがよくない。計画の縛りがあるから内容に即した語りにならず、時々嘘が混じる。論文のときに窮余の策として行うややレトリックに近い挿入句とか、接続詞みたいなものである。そうすると、なによりこちらの情熱に問題がでてくる。こちらがはじめからやる気がないのなら問題ないが、そうでない場合は、最後まで内容を検討する集中力をとぎれさせない必要があるのである。そんな場合、嘘が混じったら駄目である。
野口武彦や小谷野敦の恋愛小説研究に比べても、やや概念的になったようだ。来年はもう一回勉強しなおすぜ。
×川大学に来て驚いたことはいろいろあるが、過去の文学を読むと自分の素養の無さに恥ずかしくなるような私が、「渡邊せんせいてときどき難しい言葉つかってますね」と言われたのもそのひとつだ。
これを言ったのは学生ではない。教員である。
私は反省し、人間とのコミュニケーション(笑)には、「弁証法的唯物論」とか「野驢馬あに青草あるに鳴かんや」とか「如是畜生発菩提心」とか、口走らないように心掛けたが(もともと口走ってねえよ……)、そういうことではなかった。
もっと卑近な言葉のことだったのである。
例えば、「媒質」とか「概念」とか「昇華」とか「慧眼」とかである。(いや、そうかな……。誰か教えてくれよ、何がわからんのか……。)
そういえば以前、ある教育学者が、「茶番」という言葉を「古色蒼然」と言っていた(いや、言ってなかったわ。「死語」と言ってたんだった。私が勝手に脳内翻訳してしまったわw)ので、びっくりしたが、本当に我々の世代以降の学者は大丈夫なのだろうか?20年ぐらい前から「わかりやすさ」ファシズムが席巻していて、それが、本当はわかりやすさを目指していたのではなく、分からない事柄に耐えられないタイプのルサンチマンが強力に作用していたことは言うまでもない。しかしそんなことはどうでも良い。問題は、和語と漢語の組み合わせによる独特な形而上的な感覚の消失である。ヨーロッパの文学も哲学もそんな感覚に溶かし込まれていた訳だが、近代文学からそういうものと、漢文と古文の素養を抜いたらどうなったか。「セブンティーン」(←ごめん)とか「恋空」が残るんだよ。脊髄反射とかいわれているものの正体はそれである。自戒をこめて言うが、学者だってこの流れと無関係ではない。「むかつく」とある種の「データ」しかしゃべらない学者が出てきたらどうするのか。映画化か?
私は、文化というのは基本的に佶屈聱牙なものだと思うのだ。(佶屈聱牙てパソコンで表示されるのかな。出ない場合は、ここを見てね↓)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E4%BD%B6%E5%B1%88%E8%81%B1%E7%89%99/m0u/%E3%81%8D/
これを言ったのは学生ではない。教員である。
私は反省し、人間とのコミュニケーション(笑)には、「弁証法的唯物論」とか「野驢馬あに青草あるに鳴かんや」とか「如是畜生発菩提心」とか、口走らないように心掛けたが(もともと口走ってねえよ……)、そういうことではなかった。
もっと卑近な言葉のことだったのである。
例えば、「媒質」とか「概念」とか「昇華」とか「慧眼」とかである。(いや、そうかな……。誰か教えてくれよ、何がわからんのか……。)
そういえば以前、ある教育学者が、「茶番」という言葉を「古色蒼然」と言っていた(いや、言ってなかったわ。「死語」と言ってたんだった。私が勝手に脳内翻訳してしまったわw)ので、びっくりしたが、本当に我々の世代以降の学者は大丈夫なのだろうか?20年ぐらい前から「わかりやすさ」ファシズムが席巻していて、それが、本当はわかりやすさを目指していたのではなく、分からない事柄に耐えられないタイプのルサンチマンが強力に作用していたことは言うまでもない。しかしそんなことはどうでも良い。問題は、和語と漢語の組み合わせによる独特な形而上的な感覚の消失である。ヨーロッパの文学も哲学もそんな感覚に溶かし込まれていた訳だが、近代文学からそういうものと、漢文と古文の素養を抜いたらどうなったか。「セブンティーン」(←ごめん)とか「恋空」が残るんだよ。脊髄反射とかいわれているものの正体はそれである。自戒をこめて言うが、学者だってこの流れと無関係ではない。「むかつく」とある種の「データ」しかしゃべらない学者が出てきたらどうするのか。映画化か?
私は、文化というのは基本的に佶屈聱牙なものだと思うのだ。(佶屈聱牙てパソコンで表示されるのかな。出ない場合は、ここを見てね↓)
http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/idiom/%E4%BD%B6%E5%B1%88%E8%81%B1%E7%89%99/m0u/%E3%81%8D/
卒業論文の指導は一段落したが、レポート採点地獄は続いている。授業を終えて帰宅するとさっそくレポートにかじりついたが、一行目を読み始めたら疲労がどっと来たので、「ザ・シンフォニック・エリントン」をかけながら頭を休め休め読み続ける。
といきたいところだったが、この人達の音楽もBGMとはいかないところがあって、つい虚空を睨みつける状態に……。
「ナイト・クリーチャー」組曲を聴いてたらも り あ が っ て きてしまったので、ついNさんの成績のところに不可をつけてしまい慌てて修正する。
あまりにヘビーな内容に眼が点に。何回も観てるんだけどね……。ファシズムの扱いとかはやや古いとは思ったが、もちろんこれには様々な理由があってこうなっている訳である。思うに、今の大学をめぐる議論は、なぜ現状が生じているかという検討がほとんどないままに勝手に改革を行おうとするものが多すぎる。そして動機がだいたい教員の個人的なルサンチマンか処世だから更にやっかいである。相手の事情を忖度する能力がないから学問で全能感を覚えてその欠損を補っているような人間が多いとしか思えん。これは身に覚えがあるだけに、かなり心配な事態である。
すなわち、「ザ・ウォール」は、採点に集中するにはヘビーすぎた。
↑
クリックするとよく見える
ロー×ンやM×ド×ル×が問題ではない。よく見たら、電線になんか鳥の群がとまっていた。たぶん政府の陰謀か何かであろう。ジャ×クな食糧に群がる人間たちを風刺するつもりであろうか。それとも昼間私が久しぶりにジャ×クなものを食したので、こういうものが見えたのか。
私の横を酔っぱらって愚痴を言うサラリーマンの群が……
はいはい飲み屋政治飲み屋政治。だいたい一人一人は、自分が孤立していると案外思っているものである。飲み屋では昆虫並みの頭脳になるのであるが。
とりあえず群れるやつも群れないやつもいずれ死ぬ。
クリックするとよく見える
ロー×ンやM×ド×ル×が問題ではない。よく見たら、電線になんか鳥の群がとまっていた。たぶん政府の陰謀か何かであろう。ジャ×クな食糧に群がる人間たちを風刺するつもりであろうか。それとも昼間私が久しぶりにジャ×クなものを食したので、こういうものが見えたのか。
私の横を酔っぱらって愚痴を言うサラリーマンの群が……
はいはい飲み屋政治飲み屋政治。だいたい一人一人は、自分が孤立していると案外思っているものである。飲み屋では昆虫並みの頭脳になるのであるが。
とりあえず群れるやつも群れないやつもいずれ死ぬ。
卒業論文提出日で4年生が命を賭けている日であったが、こっちは×平に出張であった。公立実習の挨拶回りである。
昼飯に×ク×ナ×ドに飛び込み、少し時間ができたので……
××寺
あ、傘の切れっ端が写り込んでしまった。私の人生のようである。写り込んだ側か写り込まれた側か。。
駅前オブジェ、いやここは駅前というより既に入り口である。琴平町は全体が境内なのであろう。
学生が判子押してくれとメールしてきたので、急いで帰る。
昼飯に×ク×ナ×ドに飛び込み、少し時間ができたので……
××寺
あ、傘の切れっ端が写り込んでしまった。私の人生のようである。写り込んだ側か写り込まれた側か。。
駅前オブジェ、いやここは駅前というより既に入り口である。琴平町は全体が境内なのであろう。
学生が判子押してくれとメールしてきたので、急いで帰る。
昨日から、学生の卒業論文とかレポートとかを読み続けて、ほとんど自我崩壊をおこしたので、コンビニによったついでについ『世界の超古代文明』を買ってしまう。
バーブラ・ストライザンドをBGMに、讃岐富士も宇宙人がつくったピラミッドに違いないと確信したっ。
「A League of Their Own」は好きな作品である。学生の卒業論文を読み続けて発狂寸前な場合、ときどきこれを観るのである。戦時中、実際にあった女子大リーグの話である。日本がアメリカに負けた理由がここにも(というのは冗談だが)。敵国のスポーツだからといって野球をやめてしまったというところに、我々の国のなんともいえぬ頭の悪さがある。そんな余裕のない精神状態で勝負に勝てるかっ!我々はひとつの目標を立てると、それ以外を禁欲によってやめてしまいがちであるが、それは真面目さというより、文化的貧困、いや、頭の悪さによることは最近益々明らかになってきている。こういうあり方では、目標が頓挫したときの言い訳が現実逃避的になってしまう。まともに自らを否定しなければならなくなるからだ。かかるとき我々は尊大な自己肯定か言い訳ばかりするようになるであろう。自慢したい過去か消したい過去しかない人生というのは、あまりにも窮屈である。
この映画の静かな語り口は、監督が女性であるからではないと思う。回想が言い訳じみてないからである。まあ勝者の余裕というのがあるわな……。戦争も女子大リーグも消したい過去だと思ってないから、少なくとも代償行為につきまとう必死さがない。だから、アメリカがもっと戦争犯罪国家として自らを自覚するようになると、こういうよい映画も消える、かもしれぬ。
とはいえ、以上のような、壮大な事柄は本当はどうでもよい。私はテーマ曲「This Used To Be My Playground」が好きなだけだ。歌ってるのは、映画でも中堅手でなかなか上手かったマドンナである。マドンナといえば、ハレンチ学園的でPTAの敵、
遂に買いました。フランセス・イエイツ『ジョルダノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』。
読み始めたら止まらなくなりそうなので、20頁ぐらいで一息ついて、ピンク・フロイドの「Comfortably Numb」で燃料補給した後、もう一回読み始めた。とりあえず、意識が朦朧としてきた。この二日全く寝てないのだ。
とりあえずの感想:花田清×ならこの800頁を3行ぐらいで片づけそうである。