★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鶴尾神社を訪ねる2(香川の神社57-2)

2017-09-25 01:55:48 | 神社仏閣
そしてこの神社を語る上で欠かせないのが、拝殿の右手にある一群の碑群である。わたくしが前の記事で、近代に発達しているといったのは、ここの印象が強烈だったせいである。それゆえ、この神社は、一種の護国神社的な印象を残すものになっていると思う。


まずは、「忠魂碑」。上の部分には「日清日露殉職碑」とあり。忠魂碑には、大砲や拳銃をかたどったものがあるが、これもその系統であろうか。上の部分は新しく見えるから、どこかの時点で新たにつけたかな。寄付者の名前が彫られた碑が傍らにあったが、新しいものだった。近くで見ると結構異様な迫力がある。物神崇拝の研究というのは新たな段階に入ったらしいが、――それはともかく、わたくしは、大砲型の忠魂碑をみると、映画「続・猿の惑星」における、核ロケットを崇拝する人類を思い出す。あれは、冗談ではなく、今も昔も、我々の文明の特徴の一つなのであろう。キム氏もそうだし、ロケットを飛ばす映画で興奮している我々もそれを担っている。

更に右手には、

注連石は昭和三八年。戦後になってから。


左の碑は、「明治三七八之役」を紀念したもので「義勇奉公」とある。確かに軍役義務行為という意味では役だ。太平洋役とか大東亜役とか呼べば、悲惨さがより際立つ気もする。戦争が「役」人仕事であることも理解できるし……。とりあえず、忠魂から奉公へ。


正面にあるのは、「大東亜戦争殉職者碑」。ここでは「殉職」。忠魂→奉公→殉職。近代の戦争に対するアンヴィヴァレンツが感じられる変化である(イメージ)両側には、「明治百年記念」の燈籠もあった。




気を取り直して、境内社である。鳥居は、昭和七年。

 

『神社誌』によると、御先神社と牛願神社と思われる。詳細不明。



境内を出て、南東にある鳥居に向かう。道真が建てた神社があった方向なのであろうか……


これは御大典記念。平成二年。ちょうど一二〇〇年記念だったらしいのである。あれっ、平成一八年の時は……。


御旅所。


そのそばにあるのが大正五年のもの。


この二つの鳥居は、奥の池のほとりの道に建っている。この池は将軍家綱の頃つくられたらしいが、もともと龍が住む池であったそうな。明治初期の大干魃の時、満濃池その他が軒並み干上がっているのに、この池だけはまったく大丈夫だったそうな。さすがドラゴンず。後ろに見えるのは室山といって、香西氏のお城があったらしい。「室」とは、先の観賢に関係あるとか(『角川日本地名大辞典』37香川県)。それはともかく、戦国時代にこの城をまもっていた太田犬養というのが、長宗我部元親(またお前かっ)に破れ……。いまは、城の跡の石ころが残ってるみたいです。石はこの辺はいずれにせよ豊富だよ……。水はともかく……。


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