「私が、もしあのお人形であったら、どんなにしあわせだろう……。なんの苦労もなしに、ああして、平和に、毎日暮らしていくことができる。そして、前を通る男も、女も、みんな自分を振りかえって、うらやましげに見ていくであろうに……。」と、彼女は、ひとり言をしていたのでした。
このようすを、さっきからながめていた、この店の主人は、頭をかしげました。
「なんという器量のいい娘さんだろう……。しかし、ようすを見ると、あまり豊かな生活をしているとは思われない。さっきから、ああして、人形に見とれているが、ものは相談だ。あの娘さんは、雇われてきてくれないだろうか?」と、主人は考えたのでした。
――小川未明「生きた人形」
人形は好きでないが、死んでいる気がするからだ。わたくしは昔から動かなくなった自分を幻視するようなきがしてきたから、上の娘の気持ちは分からない。たぶん、わたしのようなタイプが、生としての観念をもとめている。西田幾多郎なんかに惹かれる人は、死を畏れているし反発していると想う。そしてわたしのようなタイプは日本人にはかなりありふれているのである。観念に対するフェティシズムである。そこには、キリコみたいなマヌカンに対する反感がある。
故に、というかなんというか、西田幾多郎でもなんでもまずは京大だけでなく多くの大学で源氏物語並みのいじくり回され方をされるべきなのだ。サークル的な研究展開は大事だけど国家レベルでいじくり回すことも大事だ。それはいずれ国家をバリアーみたいに覆う。科研費で研究でやることの何がいまいちかって、研究のサークル活動化(――たぶんこれは人間に対するフェティシズムである。)を進めちゃう場合があるんだよな。研究というのは研究者が孤立していても、もっと孤立圏の集合が大きく、大きな規模でおこなわれるものじゃないか。漱石の研究者の数並みにはでかいかはしらないが――我々は文學運動みたいなものに過剰な期待を持つべきではない。国家が嫌いだからと言って、なぜサークル活動が同じような欠点を持っていないと言えるのか。
例えば、点数が出なくても過剰に勉強すれば何かが身につくけど、逆に点数を出すための出力調整みたいな勉強は身につかない。研究もそうである。傾向と対策的なあれは実質的な成果につながらないことがあるが――サークル活動が傾向と対策の源泉になってしまっている場合がかなりある。