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妖精の曰く、「何ぞかくのごとく我を恨むるぞ。我此家の茶飯を吃ふといへども、又田島を耕し、家業の事をおこたらず。你が衣服食用に至るまで、皆我設にて事足れり。其余你が心にかなはざるは何事ぞや」と問ふ。行者の曰く、「今日我が父母外面にありて宣ふは、我婿はあやしき者にて、人間のたぐひにあらず、今修験者をまねきて逐出すべし、と云ひ給へり。 我是を聞て、甚だ心にこれをくるしむ」妖精の曰く、「你心を用ふる事なかれ。我原來天罡變化の術あり。又九歯の釘を持ちたり。両者をかおそるべき」行者曰く「我が爹の宜ひしは、斉天大聖といふ通力の神をまねき、君をとらへしめんと云ひ給へり。是にも恐れ絵はぬや」といふ。其時妖精おどろきたる顔色にて、「それこそ天宮を閙かせし弼馬温孫悟空なり。渠もし来らば敵しがたし」とて座を立ちて出でんとす。此時行者本相をあらはし、「我は則孫悟空なり」妖精これを見てあわておどろき、忽ち萬道火光と化し、山をさして逃走れば、行者も雲に騰がり、のがすまじとて追うて行く。
さっきマッチョマンが車やヘリを乗り回しているだけのアメリカ映画?(=イメージ)がテレビでやってたが、これだとさすがに病まない気がするので、――日本でも、合理的配慮・非合理的配慮まがいドラマばっかりやってないで、悪人を暴力でぶっとばす映画をもっとやるべきだ。あと悪人の心理描写禁止ね。
都知事選挙の有象無象の候補者達の厭がらせ合戦をみていると、ある意味、他人の心に寄り添っているから戦いがいやがらせ的になるとしかいいようがない。相手が悪人に見えているのではなく、自分とたいして違わないキャラクターと想っているから、戦いがもう一人の自分と戦っているような自意識的ないやらしさを帯びるのだ。
漫画は小学生で卒業しろというのはある意味正解である。さっきも、どうみても、白馬の王子様がやってくる漫画の焼き直しの漫画のドラマをテレビでやってたが、見ている人たちが何歳なのか知らねえがもう手遅れっていうか、白馬の王子様は絶対に来ないといふことを中学生ぐらいから自覚しないからイカンのだ。日本人は、人生を諦めるのが遅すぎる。常識的に考えて、中学生あたりで普通諦めるべきだろう。――だいたい白馬の王子様に掠われてとか、普通に法律を破る犯罪者に掠われてどうするんだよ。どうみても細い癖に暴力ふるう奴だろ、もっとおとなしいまじめなやつに惚れろよ――といいたいところだが、マッチョマンはおれも好きなので、マッチョマンでやさしいやつにしろ。
浅田彰って云うのは、近代日本の生み出した成果だね。ぜひ民族の記念碑にすべく剥製にしてゼロ戦の隣りに飾るべきだな
――福田和也『罰あたりパラダイス』
福田氏の世代までは、まだ論敵=浅田彰に対する戦いを、こういう風に描いてもべつに嫌らしさがなかった。浅田彰は堂々としたマッチョマン的な論客だ。「逃走論」を読めば、いじいじした戦いを拒否することがその主旨であると分かる。福田氏もそのスピリットにおいては同じだった。
今日、山形県で、一日一笑が努力義務になったというニュースが流れてきた。あまりの頭の悪さに笑ってしまったが、――ネット民は冷笑爆笑嗤(o゜∀゜o)藁などいつも笑っているし、近代文学などでも人物達がひとりで莞爾しているのでたぶん簡単だ。ゲーム制限時間の香川とともに此の世の笑いものになったことを祝してみんなで笑うことにしたい。――とにかく、笑顔とか笑いに種類があることすら忘れている頭が完全にいかれている人たちには退場してもらった方がいい。