★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

麻薬的悟空行者論

2024-06-30 20:07:46 | 文学


行者は一粒の仙丹に化し、盤の内にまろび居たり。かの盤を両手にささげ、洞の内に入り給へば、黒漢忙ぎむかへ奉り、客殿にいざなひ、座定りて後、菩薩のたまはく、「小道一粒の仙丹を献じて、大王の壽を賀し奉る」とて盤を黒漢の前にさし出し給へば、熊精大きによろこび、則丸葉をとりて口中に入れたりける。 行者急に腹中に飛入り、手脚を延べて舞躍る。熊楠仰天する事大かたならず、「命をゆるせ、いのちを免せ」とさけびけるに、菩薩忽ち本相を顕し給ひ、「命をしくば袈裟を出し返すべし」とのたまへば、熊精いそぎ小妖を呼んで、裂装とり出して菩薩の御前にさし置きたり。此時行者鼻の孔より飛出で、袈裟を取て走り出るを、熊精怒て、鎗をあげて突かんとす。観音菩薩ふところより金箍一つをとり出して、黒漢が頭に戴かせ、咒を念へ給へば、熊精頭をかかへ地にまろび、「あなや頭痛や。吾をゆるさせ給へ」と泣叫びて詫びけるに、観音則かれが為に摩頂受戒し給ひ、御弟子となして南海へ引傾き給へば、行者菩薩に向ひ礼拝し、袈裟をささげて観音院へかへりけり。

西遊記を読んでると、悟空を「行者」と呼んでいることによってすごくいい話になっている気がしてくる。実際やってることは、敵の腹の中でダンスを踊るという、かぜクスリを飲んだら、クスリが胃の中で暴れているというかんぜんに生物ではなく、毒薬である。三蔵法師は麻薬かなんかを弟子にして制御しているのである。もはや清原選手とかのレベルである。麻薬の治療をしている人たちは三蔵法師である。

ロジェストベンスキーのえんそうみたいなものを生成できたらAIに文化を任せることしたい。この独特なかんじをどうやってデータに落とし込むのであろう。悟空よりも大変なことだ。

そういえば、わたくしはそれなりにドラマの主題歌などに興味をもつひとであるのだが、我が妹2などは小学生の頃から時代劇のテーマを耳コピしてピアノで弾きまくっており、結局伝統芸能の道にいってしまった。私が研究もどきをしているのには妹のようにはならなかった、なれなかったという現実があった気がする。結局、中島敦にいわれるまでもなく、芸や戦いに強いタイプは悟空タイプなのだ。

そうではない、沙悟浄タイプは、どうなるのか。最近妙に悟りの境地に達してきたようなきがしていたのだが、体重が減って血圧が下がったせいであるという可能性が富士よりも高い。

既に届いているものがない世界

2024-06-29 23:20:50 | 文学


不安は要りませんか
私の不安
少しわけてあげましょうか
五時の音楽
聴くと
どくんと心臓が波うち
不安の匂いがたちこめる
ヒューストン
ヒューストン
私の声は届ますか
私の不安は届きますか
こめかみの部分
集中して
お腹はざわざわして
ヒューストン
すれ違う誰にでも
この正体知れぬ不安
わけてあげたくなる
ヒューストン
ヒューストン
私の不安
あなたに届きますか


――三角みづ紀「ヒューストン」(『オウバアキル』)


三角みづ紀氏の『オウバアキル』は古本で持ってるのだが、そのあとがきの「大丈夫、私は元気です」という箇所に「志村けんの「大丈夫だぁ」」と鉛筆で注釈をつけている前持ち主よ、お前さんを許さぬ。

たしか三角氏はなにか病気持ちであった。わたくしも小さい頃から体が弱かったが、どこかにそのときの怨恨を封じ込めた。わたくしは思弁で押さえ込むことをかなりはやくから学んでいたためもあるし、わたくしはあまり根本的には人に興味がないのも大きかった。三角氏に限らず、詩人達は人が好きな人が多いとは思う。わたしなんか、上のような場合、「届くはずがねえ」と言い切れる。しかしこの「届くはずがねえ」とは、届くはずのものはすでに届いているはずという理念に対する信頼感の表れでもある。

例えば、すべて人任せのガキと自分で何とかしないといけないガキの違いは、ウルトラマンに出てくる子どもと妖怪人間のベロをみてみりゃわかる。そして前者は未発達な人間に過ぎないが後者は上の理念のようなものである。ベロは子どもの姿をしているが小型の妖怪人間に過ぎない。理念は人間ではない。妖怪人間は人間にならなくて良かった。

わたくしは、少子化の大きな一つの原因は、学校世界や何やらの経験から、少なくない人々が(自分も子どもだったのに)子ども嫌いになっていることが大きいと思う者だ。学校をようやく切り抜けたのにまた子どもにいろいろ妨害されるのかという気分がある気がする。同輩達が上の理念をなくしてしまい、「不安」を押しつけてくるだけなく、勝手に自分のケア係にしようとするからである。ベロは「友達になってくれる?」だけでおわりである。友達になってくれそうというのは、お互いへの実績とは関係なく理念だからである。

『シベールの日曜日』(1962)にもベロみたいな人物達がいた。こういう人間たちは不幸によって出来上がっているのではなく、そろそろ絶滅種だとこの映画は言っていたのだと思う。

そういえば、水島新司の「あぶさん」とか「ドカベンプロ野球編」とかは実在の選手が出てきて顔が微妙に似ていないこともありなんだかなと思っていたが、選手達が鬼籍にはいってゆくと、生きている選手達に会いにゆける漫画としてすばらしいものであることが判明した。で、のみならず――水島新司の女の子は全然だめみたいな意見があるけれども、水島新司が二軍や素人の多様な野球キチガイを多くえがいたように、あまり美的でもない多様な女子もたくさん描いたと言えると思う。「あぶさん」の居酒屋の娘さっちゃんだけは妙に美しく描かれているので、作者自身が彼女に惚れていて、それ以外の女子は多様性以外のなにものでもなかったのではなかろうか。――現代風に解釈すると、こうなるのだが、その実存みたいなさっちゃんの性格もそろそろ絶命種みたいな感じがした。

もう人間には絶滅種以外しか生き残っていないので、希望はうちの庭の蛙ぐらいだ。彼?なんか、若さで浜辺美波に勝っているのではなかろうか。

饒舌の今昔

2024-06-28 23:12:31 | 思想


元来がアカデミーなるもののアカデミックな機能は、思想的文化力とは無関係なのであり、従って又この点で殆んど全く無力なものなのだ。帝国芸術院が養老院にしろ類似アカデミーであるにしろ、とに角文化勲章的存在のものであることには議論の余地がない。文芸懇話会は、処が決して、客観的に見る限りそういうものではなかった。夫は実際に於ては全く無能力ではあったが、客観的な評価からすると、一種の思想文化上の社会的闘争機関であった。恐らく或る一群の文士達の社会的なバカさ加減をテストする実験室であったかも知れない。して見ると文芸懇話会が解消になったことと、今回の日本文化中央連盟との間には恐らく内面的関係があるのだと見ねばならぬ。尤も文芸懇話会や松本学氏はどうでもいい。

――戸坂潤「思想動員論」


人の真価は死んでからのような気がする一方、我々の風土には、本人がいなくなるまで絶対に評価を行わない風習も存在している。死んだのと引き替えにおもむろに腰をあげるのである。戸坂の場合は戦争体制によって殺されてしまい、戦後の時代性もあってそれほど再評価が進んだとはいいがたいと思う。だから、うえの法則が当てはまるか分からない。なんといっても彼の全盛期は昭和10年代初頭にあって、――同僚の先生が最近の論文によると、昭和12なんかは97本の文章を書いているらしい。全部を読んでいないが、彼のいう文學者=モラリストとしての「風俗批評」の必要性(「思想としての文學」)を実践したかのようにわたしにはみえる。だから、彼の文章は、おもったより時局的である。戦後の人々が彼を救いきれなかったのはそういう理由もあると思う。

文体を見ても一種の饒舌体だとおもう。誰かも言っていたけど言文一致的だ。饒舌な講義という感じである。戸坂の文章は、当時から「長い割には言っていることこれだけ?」とか言われていたし、いまでもそんな気分になるのだが、彼からしたら「事態よとまれ」「時よ止まれ」みたいな気分だったのではなかろうか。

戦後、一部の饒舌な人々に神は宿らなかった。むしろ沈黙に価値が見出されたような気がする。主体性論争の喧噪とかをみると、主体性とかが大事とかいうひとは映画の「スケアクロウ」(1971)とかみてからいうてくれ、という気がする。

ところで、わたくしはモンテーニュを目指すとかいいながら、テオプラストスを読んでいなかった。情けないはなしである。

いまは逆に饒舌の時代である。最果タヒは言うに及ばず、息をするように詩を書こうとする。わたくしは、三角みづ紀氏の『オオバアキル』は古本で持ってるのだが、そのあとがきの「大丈夫、私は元気です」という箇所に「志村けんの「大丈夫だぁ」」と鉛筆で注釈をつけている前持ち主よ、お前さんを許さぬ。――しかし、読者も、詩人の饒舌に釣られるというのはあるのだ。

小ささと大きさ

2024-06-27 23:22:46 | 大学


草になお強さでまだ負けているバッタどの

小さいことを愛でてしまう我々はモノに対してもそれをする。かくしてお札に小物の人間を印刷する。それはなにか日本国の信用の小ささを象徴しているような気がするので、今度かえるときには、1万円札=光源氏 5千円=ゴジラ 2千円=ラムちゃん 千円=孫悟空 みたいな感じでいいだろう。

結局大きさを想像によって埋めているのが我々である。この前、いつか登録しておいたせいなのか、円谷の事務=ウルトラマンゼロとかいうひとから誕生日メッセージが届いていた。いきなり「史郎さんは何歳になったんだ?俺は5,900歳さ!」と年上マウント、「また会える日を楽しみにしているぜ。」と言うが、まだこの巨人に会ったことはない。

で、この現実の小ささと想像の大きさのギャップを解消するのが、気合いであった。今日は、授業で、日本の「西洋化」と日本近代文学の話をしていて、――結局結論は、「頭あまりキレないんだから必要なのは気合いだ」となった気がする。ありがとうございました。

大学は文学少年が答えられる問題をもっと出せ

2024-06-26 21:45:53 | 思想


第二に、それは本質的に社会の国家に対する言説であった。より正確にいえば、それは公的領域を奪われたネーションの言説であり、私的領域を、その剥き出しのナショナルな身体を、外部から侵略してくる国家に直接対抗するために操ることを強いられた言説であった。それは、枯れつつある、あるいは枯れ果てたナショナリズムの形式であった。というのも、それはもはや、内的な民族の本質を、政治的な行為によって植民地国家から防御することができないものとなっていたからだ。それは、国家なきネーションのナショナリズムであるばかりでなく、政治なきナショナリズムでもあった。政治がなければ、あるいは、ナショナルな差異を分節化し、擁護し、再生産することのできる公的領域がなければ、ナショナリズムは結局、ナショナルな差異を消去した関連性のない言説の断片に分解されてしまうだろう。したがって、戦時中の台湾の文化ナショナリズムもまた、消滅の言説、あるいは無為に終わった空騒ぎの記念碑であったというのが、私の結論である。

――呉叡人『フォルモサ・イデオロギー』(梅森直之・山本和行訳)


昨日は授業で、「こころ」の小森陽一の読解を敷衍?して、「ごんぎつね」における兵十とごんのBL的展開について提案してきたのである(2分ぐらい)が、わたくしもせいぜいデコンストラクション紛い、ジェンダー論紛いで学生を混乱させる癖ばかりがついていてどうしようもない。

朝から反省して、尾形明子氏の『女の世界』を読んだ。

ニュースをみていたら、大英帝国の首魁がキティちゃん50歳みたいなこと言ってて、キティがロンドン出身なんだと初めて知った。日英同盟どころではない、出身まで英国に奪われていた。ちなみにキティちゃんには彼氏もいれば親もいるのである。どうみても彼らも日本人ではないのではなかろうか。

いま文庫になって話題のガルシア・マルケス「百年の孤独」は、いままで英訳含めて3冊ぐらい買った気がするが、一冊目は繰り返して読んだら壊れた。初読は高校1年ぐらいの時である。当時のわたくしの優先順位は、1、ピアノの練習 2、百年の孤独 3、ドストエフスキー読破計画 4、京都学派、5、吹奏楽部 100高校の授業 というかんじであったので、万国の文学少年達に警告します――「百年の孤独」はたばこや酒が飲めるようになってからの方がいい。

ホントのこというと、「百年の孤独」はあまりに我々とは何かが違いすぎて、ほんと酒みたいなものだ。優れた古典教師が日本古典をもっと生徒に読むようにさせないと我々は「消滅の言説」をつむぐ癖をつけてしまう。私もそうだった。

――結局、受験期に入ってもピアノを中断、2.3が違うものに入れ替わっただけで、受験勉強をどこの順番に入れてイイノカ分からなくなってしまい、けっきょく大惨事であった。だめじゃんというのは簡単だが、こういうのも地方にはかなりいるのであってみれば、地方の子どもが東大に入れるように格差を埋めろみたいな議論は、国民国家の議論としては正しいが、よりわたくし寄りに云わせて頂ければ、そもそも大学は文学少年が答えられる問題をもっと出せよコラッというね。。

予備校に入っても、予備校の寮で、浅田彰や小林秀雄について「現代思想のファン」みたいなやつと話したぐらいしか記憶がない。これは楽しかった気がする。結局わたしにとって予備校時代は、高校の復習と、木曽にはなく名古屋にたくさんあった本にふれたという、大学の授業の予習みたいな感じになっていたのだ。大学の文学の勉強やなにやらには、その準備があまりに足りない。ふつうの高校の勉強じゃ大学の勉強にはまるでついていけないのが本当のところなのである。

高校3年生には、浪人して本を読むことをおすすめする。浪人して予習しないと、確実に落ちこぼれる。

天皇陛下について――藤原安紀子の『動物の修復』を課題に

2024-06-25 23:57:42 | 文学


わけて、平安期の末期には、年表にも「天皇、皇后、競馬を覧給ふ」の項が随所に多い。神泉苑の競馬、仁和寺の競馬、加茂の競馬、時には、公卿の邸地でも、都の大路でも、臨時競馬をやった。
 すべて直線コースで、今の千二百メートルぐらいがせいぜいであったらしい。騎手は、朝臣たちだ。中には、負けたくやしさに、切腹した者もある。
「賭物貢ノ式」というのが、春と秋に、宮中で行われる。天皇の前で、負け組から勝組へ、罰として“貢”を贈る儀式である。あとは無礼講となり、敵味方、勝敗を忘れて、大らかに飲み遊ぶ。
 いったいに、その頃は、賭け事を、そう危険視や不潔視していなかったようである。僧侶をあいてに天皇が、賭け碁をしたりしておいでになる。
 とにかく、競馬場には、素裸な庶民が、終日、他愛もなく渦まいている。偽似君子でなければ、この中にも人間の真を見出すであろう。本来の人間とは、何と愛すべき生態で、そして無邪気なものか。いろいろな人間図、本能図、可憐なる家族図なども、御覧になれることとおもう。馬は見給わずとも、いちどは、おいでになる価値はあろう。

――吉川英治「天皇と競馬」


あいかわらずの吉川英治の不敬の文章である。彼は天皇に対しても宮本武蔵に対しても誰に対しても不敬なのである意味仕方がない。

わたくしの朋輩によれば、わたくしはいまの天皇陛下に似ているそうである。

しかし、天皇陛下は大学教師などというヤクザな職には就いていない。何処がヤクザかと云えば、例えば、学生が「分かりやすいのが良い」とか言い始めたら、「藤原安紀子の『動物の修復』を課題につっこむぞコラッ」とか言いかねないところである。

太陽が躍る季節である

2024-06-24 23:40:54 | 日記

悪魔崇拝と我々

2024-06-23 23:54:29 | 文学


廣謀といふ和尚すすみ出で、「老憎さばかり此装を愛し給ふならば、計を以て奪取りたまへ。今客旅の勞にて堂の中によく寝たり。急に堂の四方へ薪を積上げ、火を付けて燃殺さば、此袈裟自然老の東西となるべし」老僧是を聞きてかぎりなく悦び、「此はかりごと努めて妙なり」とて、僧に命じて共用意をなしたりける。此時悟空は三蔵と供に禅堂の内に眠り居たりしが、外面に人さわがしきを聞き、心にあやしみ、忽ち身じて一つ蜂のとなり、牕の間より出でて窺ふに、多くの僧ども柴薪をつみて堂をやかんとす。行者是を見て、果して師父の言のごとく我袈裟をとらんとしてかかる悪心を發しけるよな。よしよし我もまた他が計に就て計を行はん、とて直に天に駆登り、廣目天王の許に走り行き、辟火冪を借り来り、堂の上に打おほひ、其身は後房の屋上に坐して袈裟を守護し、火の燃出ちを待居たり。もろもろの僧徒、行者がかかる手術あるともしらず、禅堂の廻へ火を放てば、行者忽ち大風をまねき出し、火焰四方に散じて、本堂、方丈、回廊、鐘楼、ことごとく燃上り、防ぐべきやうあらざれば、憎徒皆あわてさわぎ

ここで悟空が「計に就て計を行はん」というのは、果たして善の行為であろうか、悪魔の所業であろうか。

ルイス・フロイスの「ヨーロッパ文化と日本文化」よみはじめたらとまらなくなったが、確かに面白い記述がおおい。じぶんで天使(西洋)と悪魔(日本)の構図を試みようとしてなんだかいろいろピントが狂っているようだが、ピントがくるっていようと写っているものは写っている。例えば、ヨーロッパ人は面と向かってお互いを嘘つきだというのは最大の侮辱なのに、日本人はお互いを嘘つきだと言って笑いあっている、という。いまでもかわらん。仁王や神将が寺社に飾ってるのを、我々は神だけを崇めているに日本人は悪魔も崇拝だ、みたいなのは確かに誤解と言えばそうであろう。しかし、キリスト教が結局異教を悪として殺してきたことを非難ばかりしてないで、われわれは時々「悪魔崇拝している我々」を冷静に見る必要はある。

御柱祭とかみこしまくりとか、ある種の悪魔崇拝的なものを感じるからな。。小正月のどんど焼きとかもあんなにもやさなくてもいいのにやたらもやす。わたくしは、自分の好むクラシック音楽のアダージョなんかが、こういうどんど焼き的なものと対立している気がしていた。

坂本龍一の音楽というのも、現代音楽や電子音楽、オリエンタリズムみたいなイメージでわけがわからなくなっているが、邦楽というか和楽の伝統につらなるものなのではないか。しかし、これはもともと中国の音楽を真似て引き延ばしたものだった。坂本の音楽には、最初からロックに通じるようなプロコフィエフみたいな悪魔性が欠如していて、その欠如性をつきつめたら、音楽が外からきて悪魔を追い出すものであることに気付いたという感じじゃなかろうか。

しかし我々には、動物らとともに悪魔が自らのうちからしばしばやってくる。

何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです

2024-06-22 23:19:02 | 思想


学級委員長にはふつう56人も立候補しないのにすごいな都知事はと思う今日この頃ですが、皆さん以下がお過ごしですか。

とにかく、動物とか稲とかいがいには、人間のせかいすべてが苛々させるものであるところの中年のわたくしであるが、――学会のポスターがかっこよすぎ、発表者や司会の口調がアナウンサー、大学の何かの理念にコミュニケーション能力の文字、拡声器みたいな人がいつも出世、授業料値上げ、知事選めちゃくちゃ、――これらすべて保身のための不真面みたいな原因からきてるとしか思えない。昔なら「性根がくさってる」でおわりである。

中年になってこういう愚痴しか出てこないのでどうしようもないのであるが、――すくなくとも以下の事情ぐらいは分かってくるのが、思春期の人たちや若者によりそうえせ思春期の方々と違うところだ。我々のいろんな性格はいいようにも悪いようにも働く何処に転ぶか分からないものに過ぎないので、いいとこ褒めるとか基本褒めるみたいなやり方は、それがその人の性格だけに対するものになっている限り浅知恵もいいとこであって、たぶん自己肯定感欲しがり病の原因にもなっている。しかも、われわれの見ている世界というのはかなり一部分的なものである。

大学出のみなさんはときどき飲みにでて大学に行ってない人とまざったほうがいい。われわれがコミュニケーション能力とかいっているものがいかに気取った雑なものかが直観される。もちろん、わからんときもある。そして、分かった気がする連中はたいがい悲惨である。えせ吉本隆明なんかがその例である。

しかし明々白々のものが観察されることはある。東大学費値上げ反対座り込みのニュースを、NHKの9時のニュースでやってたが、政府とつるんでるリクルートのおじさんが出てきた。リクルートと言えば、現代の奴隷商人とかひどいことを言われており、また奴隷貿易について勉強したこともない輩が何を言うかと思わざるを得ないのはこの際おいておこう。――このひと、あからさまに原稿読んでいる姿をえんじつつ、自分の意見ではありません的な逃げ道を作りながら、政治と文科省を擁護していた、いやそれにはふれなかった。芸術でも運動でもなんでもそうだが、誰が誰とつるんで何をしようとしているのか可視化する効果がある。責任者でてこいというのがいつもの運動のやりかただが、責任者はなかなかでてこないが、お友達や幇間は出てくる。

2・26事件と同じである。確かに彼らのやったことによって、たくさんの表現が生じた。お友達や幇間も時間が経って明らかになってきている。むろん、首魁は彼らが恋い焦がれる天皇であった。このことによって、自らを引き裂く表現という失恋はしていいのかという課題が生じ、ひいては、三島由紀夫まで矛盾的自己同一的な「自刃」による「道徳的革命」を唱えだす。我々の課題は膨らむばかりだ。――というのは本質であり、現象としては課題はその都度ないことになっている。

三島由紀夫て、評論と小説と別の人が書いている感じがする。そもそもそういう文化的自刃がもう為されているわけだ。三島だけの問題じゃない。戦後の問題なのである。

五社英雄監督の「226」ってたぶん駄作であるが、好きである。首謀者の一人である将校をやっていた三浦友和の、最後のかみしめた「天皇陛下万歳」はわたしがきいたなかで一番の天皇陛下万歳である。当時だって、結局、AIかよみたいな天皇陛下万歳がたくさん発せられていたに違いないとおもわせるものがあるのである。このことと小津映画の棒読みの関係について昨日から考えているのだ。

磯部浅一の「何と云ふ御失政でありますか 何と云ふザマです」としかいいようのないものはある。これに比べて、三島の表現や我々の表現こそ「何と云ふザマです」としか言いようがない。

原田宗典は早稲田時代、「政治少年死す」をコピーを持っていた友人から借りて読んだらしい。わたくしは怠惰だったのでちょうど売られていた『スキャンダル大戦争』にのっていたのを読んだ。どっちが文化的であったかはわからない。しかし、原田も私も「何と云ふザマ」ですと言われてしまう気がする。我々は自分で何かをやる気があるのであろうか。読むことも書くこともすべてフェイクではないか。

空海の字がすごいとか思うんだったらAIにたよらず自分でも真似れば良いのでは。将来、空海の字で書けます、というソフトが販売されると、卒業式の看板の字とかをかかせて、「これは誰が書いたと思いますか、空海です」「オオー」みたいなカスみたいなやりとりが出現するのであろう。無様である。

月に突き刺さった雲を見ながら授業改革を夢みる

2024-06-21 23:59:39 | 文学


久吉に袖を引かれた時に、お幸は郵便配達夫になることを此処で弟と相談して見ようと思つて居たことを思ひ出しましたが、其儘なつかしい母の顔のある家の中に入つて行きました。
 二人の母親のお近は頼まれ物の筒袖の着物へ綿を入れた所でした。
「唯今、母様、こんな遅くまでよくまあお仕事。」
とお幸は口早に云ひました。
「お帰り。道は淋しかつたらうね。」
「月夜ですもの提灯は持たないでもいいし。」


――與謝野晶子「月夜」


もう実質やってるようなものだが、いくつかは資料も配らず黒板だけで講義をやろうかと思っている。まだ記憶で引用もなんとかなりそうなんで。パワーポイントつかった授業が、恰もテレビ見ているだけの状態になっているのおおいし、グループワークはつい誰でも参加できそうなレベルにお題が下げられがちで、授業の当初目指された内実につながらない場合も散見される。わたしもずっとレジメと黒板でやって来たが、レジメに情報入れすぎて学生に楽させすぎであった。

権利獲得と暴力

2024-06-20 23:27:42 | 文学


 孫行者の華やかさに圧倒されて、すっかり影の薄らいだ感じだが、猪悟能八戒もまた特色のある男には違いない。とにかく、この豚は恐ろしくこの生を、この世を愛しておる。嗅覚・味覚・触覚のすべてを挙げて、この世に執しておる。あるとき八戒が俺に言ったことがある。「我々が天竺へ行くのはなんのためだ? 善業を修して来世に極楽に生まれんがためだろうか?

中島敦の名作には女が足りない。――そういえば、大学入試で女子枠だとか言っているのをみると、ドこぞの学部だよとつい思ってしまうのは、わたくしが、男が圧倒的少数派の国文学科にいたということもあるが、部活でも圧倒的な数の女子を相手にしてきたことがあるからだ。いまでも相手にする学生の大多数は女だ。反動的といわれようが、課題はいつも男に文学を読ませることである。少数派の諸君、文学を読め。

だいたい女子を差別しているようなコミュニティは、女が余りに少ないもんだから引っ込みがつかなくなっているのか、女子以外にもたくさん差別している。女性差別主義者でありヒューマニストというのはありえない。差別というのが、認識を安定させて自分の不安を取り除くマジックになっているタイプが居るのである。

で、少数派や被害者は、暴力を国家に委譲した近代社会では、自由に息をする権利を獲得するために、法律を作る方向でうごく。しかしながら、それだけでは権利が手に入っても環境が作られない。声をあげられないものが法律が頼る機能が働き出すためには、法律への絶望、加害者に直接文句を言いにゆく元気がないとだめだし、逆もそうなのである。一方の何かに依存するやりかたはうまくいかない。本当は、暴力を国家に委譲したというのがフィクションであって、無根拠な屈服なのである。法律を活かすために潜在的な暴力が必要だ。みんながすぐ泣き寝入りモードになってしまうからといって、法律で加害者を摘発しようとしてもうまくいかない。エスカレートして摘発せんでもいいものまで国家がつかまえることにもなりかねない。国家も国民もすべて信用できないという事態が善を行ううえで重要なことである。

同じように、自分の自由な可能性を信じるには、自分の平凡さとだめさへの当然の意識がなければならないし、逆もそうだ。

パロディ

2024-06-19 23:04:11 | 文学


小峰を越して少し登れば大槍、これから上が最も嶮悪の処と聞いていた。が穂高の嶮とは比べものにならぬ、実に容易なもの、三時四十分、漸く海抜三千百二十米突の天上につく、不幸にもこの絶大の展望は、霧裡に奪い去られてしまった、が僅かに、銀蛇の走る如き高瀬の渓谷と、偃松で織りなされた緑の毛氈を敷ける二の俣赤ノ岳とが、見参に入る、大天井や常念が、ちょこちょこ顔を出すも、己れの低小を恥じてか、すぐ引っこむ、勿論小結以下。
 槍からは大体支脈が四つ、南のは今まで通った処、一番高大、その次は西北鷲羽に通ずる峰、次はこの峰を半里余行って東北、高瀬川の湯俣と水俣との間に鋸歯状をなして突き出している連峰、一等低小のが東に出て赤ノ岳に連る峰。これらの同胞に登って、種々調査をしたなら趣味あることだろう。


――鵜殿正雄「穂高岳槍ヶ岳縦走記」


わたくしは宮本百合子より断然佐多稲子だと思うのであるが、それは前者がどことなくなにかのパロディじみているからである。たぶん現実はパロディにならないが、思想はなるからだ。

パロディ化した文章が先にある場合、あとに起こるものは現実感を失う。なんと『スター・ウォーズ』のパロディ『スペース・ボール』の続編が作られるそうである。前にも書いたが、――わたくしはテレビで『スペースボール』の方を先に見てしまったせいか、『スター・ウォーズ』のほうを「なんだこの妙なまじめくさった感じは、笑いが少ないな」とおもった。『スペース・ボール』の主役のイケメン?は『インディペンデンスディ』の大統領役で、キャスティングしたひとはよくわかってると思ったが、――それはともかく、SFはパロディの一種であるとは言え、パロディのパロディを先に見たわたくしは、たいがいのSFをお笑いであると認識している。

芥川や菊池寛のときの『新思潮』の仲間に、成瀬正一というひとがいる。大正7年頃の彼の松岡讓への手紙を見ると、フランスに留学している日本人がすごくドイツ贔屓、排外主義的になってて、ますます自分は日本人が嫌いで仏蘭西が好きだみたいなことを書いている。第一次大戦が生んだ分断というのもかなりありそうだ。が、問題はそこではなく、成瀬のいう「日本」や「ドイツ」「フランス」すべて、なにか宮本百合子のような感じがしてならない。排外主義的になっている連中の中には、成瀬みたいな人間にあるパロディ味を看過できない連中が居たはずだと思う。――ちなみに、成瀬が手紙でハーバードの文学の教師に喧嘩売った自慢しているのみると、芥川の「あの頃の自分の事」なんかまだ紳士的である。この激情的な反発は一体何であろう。この感情は彼が九大でした文学教育にもなんらかの影響があるとみなければならない。

龍馬と変ずる可能性

2024-06-18 23:36:45 | 文学


忽ち罵て曰く、「你は是大慈悲の教主にして、何ぞ我をあざむき帽子を戴かせ、又唐僧に緊箍咒とやらん咒ををしへ、我頭を疼しむる事は、そもそも何の慈悲ぞや」菩薩の曰はく、「你佛門の教に順がはず。若かくのごとくせざれば、再び悪事をなして天上を閙すべし。是你に正果を得させん我が慈悲心なり」行者曰く、「然らば今此澗水に悪龍を放ち置き、我が師の馬を吃しめて西方に行く途を妨ぐるは、是も慈悲なりや」菩薩の日はく、「此所に放し置し龍は、西海龍王の子なり。向より此澗底に在て経を取る人を待ためしに、你此所に経を取ることを云はざるにより、葉知らずして馬を吃ひしならん」とて掲諦に命じてかの龍をよび出し、柳の枝をもつて龍の渾身を沸ひ給へば、忽一匹の龍馬と変ず。

思い起こしてみると、ドリフの人形劇の西遊記は、ちゃんと「馬」もキャラクターとして扱っていた。これが実写の西遊記となると、馬はただの馬である。

ヨシタケシンスケ氏の『りんごかもしれない』をよんだ。この絵本は小学生に人気らしい。林檎を食べてみるまでは、いろいろなものである可能性があるのはたしかに深淵に見える話ではあるのだが、実際には脳内の遊びである。しかし、実際は、龍が馬になったりはしないにせよ、林檎のなかから実際に虫が出現したりすることはある。

朝顔咲いた嗚呼雨だった。

そういえば、わたくしは若い頃、生意気にパーソンズなんかを読んでいて、結構影響を受けているのかも知れない。ギデンズなんかを最初に読んでしまう若者なんかは、変身の欲望が逆になくなるような気がしてならない。

反恋愛論――カツカレーと小蛇

2024-06-17 23:00:40 | 文学


ふたたび澗のほとりへ走り行き、翻江攪海の神通をつかひ、澗水をひるがへし泥水とかき濁せば、かの龍たまり得ず、牙をならして跳り出で、悟空と戦ふ事半時ばかり、さしもの大龍力勞れ、かなひがたくや思ひけん、身を変じて小蛇となり、艸の中にかくれたり。

最近、カツカレーなんかを食べたいとあまりおもわなくなってきたが、――結局「ゴジラ対キングコング」だかをみにいってないことと関係があるとおもう。ああ酢が美味い。

上の場面を興奮して語っている連中はまだカツカレー派であろう。

思うに、恋愛などもいつ戦いをやめ、カツカレーを諦めるにかかっている。昨日、大河ドラマで、紫式部が道長とは向かい合いすぎ、求め合いすぎて、しんどかった、と言うばかりか、中国の青年とも脅しあいと見透かしあいの泥仕合を演じていた。そこで、親父の親友から求婚されたときのせりふ「ありのままのお前を引き受けるぜ」みたいな、雪の女王かよ、というせりふが新鮮にうつってくるのである。むろん、このおっさんのせりふは嘘なのだ。この方に限らず、こういう事を言うやつはかなりの確率で、ありのままの自分も許しておりすなわち浮気者である。しかし、恋愛が悟空と龍との戦いみたいになりがちであるのに対し、小蛇になってかわいく笑いをとるべきなのだ。

田舎と前衛

2024-06-16 23:06:32 | 文学


百姓は、各国の帝国主義に尻押しをされて、絶えまなく小競合を繰りかえす軍閥の苛斂誅求と、土匪や、敗残兵の掠奪に、いくら耕しても、いくら家畜をみずかっても、自分の所得となるものは、何一ツなかった。旱魃があった。雲霞のような蝗虫の発生があった。収穫はすべて武器を持った者に取りあげられてしまった。
 ある者は、土地も、家も、家畜も売り払って、東三省へ移住した。多くの者が移住した。――その移住の途中で、行軍する暴兵に掴まって、僅かの路銀を取りあげられた。そして、それから向うへは行けなくなった。そんな者が工人として這入りこんでいた。


――黒島傳治「武装せる市街」


うちの庭にはたくさんの虫がいる。はじめてする田舎暮らしである。お前は木曽の生まれじゃないかというひともいるであろうが必ずしもわたくしは田舎育ちではない。確かにわたくしは田舎の生まれとか称してはいるが、駅からアスファルトの道の商店街を数分歩くと実家につくという、下手な東京住みよりもシティボーイであるといへよう。いまのほうが田園地帯のど真ん中にすんでて、八沢川の音の代わりに虫の鳴き声で寝ている。空気もいまのほうが正直キレイだし星もくっきりみえる。ただ、人口が今住んでいる高松市の一地区の人口が木曽町の2倍(3倍か?)なだけである。大した問題ではない。

ところで、土日は眠いから前世は猫かも知れない。

金曜日に口走ってしまった、和歌の私性問題、ああこれ大問題だとおもいながら、いろいろと作業が進まない。

なんとかいう歌手のMVが炎上していたらしいがしらず、その「コロンブス問題」に乗り遅れた。が、バスに乗り遅れるのはたいがいよいことだ。わたくしは鈍いせいか乗り遅れる才能に関しては飛び抜けている。前衛達はそこがだめなのだ。

夫を立てるとかいうと良妻賢母かよとかバカにされる傾きがあるが、実際人をたてるというのはなかなか難しいことであって、少なくとも太陽族になるより難しいことだ。前衛達は、そういう難しいことを無視しているから自分のやるべき事を保守できない。

そういえば、こぶし書房が廃業ときいた。わしがたくさん買ったのに。。

昨日の「博士ちゃん」だかはひどかった。歴史修正主義は悪かもしれないけど、文学修正主義というのもあって、こっちのほうもかなりタチが悪い。「源氏物語」を語りたいならまず読まなければならないが、ほとんどのひとがそうしない。そして基本的な筋さえ間違えて語る。子どものオタクまで空気を読むことしかしない此の世は地獄である。すくなくとも「源氏物語」の世界が自由に思えてくる世は自由ではない。