
「つらき者に思ひおきて、今まで知られたまはざりける。対面しぬるは、限りなくなむ心のびてうれしく」と宣へば、女君「ここには、さらにさ思ひきこえぬを、この君の、さいなみしをりを、おはしあひて聞きたまひて、なほ便なきものに思しおきたるなめかし。『しばしな知られたまひそ』とのみ侍るめるに、つつみてなむ。心には、さらに知りはべらぬなめげさも、御覧ぜられつることをなむ、いかがと限りなく思ひたまへつる」と宣へば、「そのをりに、いみじき恥なり、何事に、思しつめて、かくはしたまふならむ、と思ひたまへしを、今日聞けば、君をおろかに思ひきこえたりとて、勘当したまふなりけり、と承りあはすれば、なかなかいとうれしくなむ」と、うち笑ひたまへば、女君、いとあはれと思して、「さてしもこそ、かしこけれ」と申したまふほどに、督の君、いとうつくしげなる男君を抱きて、「くは御覧ぜよ。心なむ、いとうつくしくはべる。天下に、北の方も憎みたまはじとなむ思ひたまふる」と宣へば、「そもけしからぬことを」と、かたはらいたがりたまふ。
これぞコミュニケーション能力というべきであって、結局、落窪の姫が権力とむすびついたのでもう穏やかに事態を収めるほかはないという自明の事実をなんか「気を遣」っているようなやりとりで隠蔽、あるいは、落窪の姫のキャラクターで、ことは荒立てられなかったことの整合性をつけている。――べつにイジワルな見方をしているのではなく、よく現代でもあることだから言っているだけである。別に復讐を法が押さえ込んでいるように見える現代人に特有の作法ではない。
そういえば、相撲とか野球でも我々は敗北をすると妙に心が軽くなり、言うことも軽妙になることがある。例えば、あまりに御嶽海が負けまくるので、つい「御嶽海のファンの皆さんに朗報です。番付表をひっくり返してみて下さい。御嶽海はほぼ角界の頂点です。あまりに頂点過ぎるので、天井を突き抜けて十両に昇格する可能性があります。」などと言い放ったりしがちである。あるいは、高松商業が惨敗したので「わが高松商業は100年前の怨みのせいで早稲田実業に負けたようです。あと100年後に復讐すれば、オセロ的に昨日も白星です。」などと言ったりもするであろう。
そういえば、AIに負けまくっている我々は、過去のAIがでてくる作品なんかも癒やしの一つになってゆくであろう。しかし作品の場合は、創られた時代においては、むしろ非実践的であることによって反革命的であるにもかかわらず、未来へのぬか喜びを書き込んでいたりもするのだ。例えば、「宇宙戦艦ヤマト」にアナライザーというロボットが出てくるが、スカートめくりが趣味であった。われわれは現在、AIがお硬い論理野郎と決めてかかっているがどうであろうか。ロボットが進化するというのはそういうことかもしれないのだ、――といったように。実際のAIは擬人化よりももっとひどい獣化が予想されるというのに。どういうことかというと、AIの発明は、人間を獣化するのである。脳をAIに預けたのであるから、脳を抜かれた我々が獣化するのは当たり前ではないか?
独創性を唯一の支柱にしていた研究者に未来はない。かれらのほとんどは論理的一歩を速く踏み出すことにとりえがあったわけだから、もうほとんどはいなくても大丈夫である。かえって人間が残っているのは、機械的な動作を全部は省略できない事務仕事の方だ。彼らの人材が枯渇して最小限で仕事を回す状況になると、当然ながら社会に民主的な屈撓性がなくなる。民主主義とは手続きだ。それが、あっちからこっちに何かを動かすことしか出来なくなり、いちから手続きを創造することが厳しくなるからである。だから、その創造を強制できるのは強権だけになる。いま民主制みたいなものが作動している感じがしているのは事務方が身につけたもので、その習慣が作動しているに過ぎない。でもこの習慣の常識的作動がないとものごとは動かない。民主的の精神だけで動いているのではない。これを忘れると必ず精神的強権が制度すべてを破壊して人が死ぬ。旧来の、権力構造のなかの権力の遍在性というか、弱者の権力性を相対的に重く観るみかたは、どこかしら、事務方などが余裕を持って振る舞っていたことと関係があるとおもわれる。それは権力の問題ではなく、手続きの創造性の問題だったような気がする。
むろん、こういう創造性は民主制という仮面をかぶる気合いとともにある。それが重荷でないことはない。これに対しては、我々は欲望みたいな言葉しか持ち合わせていないのがやっかいだ。欲望を体現したモンスターを欲するしかなくなるからである。