★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

逆説的世界観

2024-12-17 23:10:21 | 思想


ビウキャナン氏は、大いに賞讃して人口に関するマルサス氏の著作から次の如き有能な章句を引用しているが、それは私には、完全に彼れの反対論に答うる所あるものと思われる。『労働の価格は、その自然的水準を見出すに委ねられている時には、食料品の供給とそれに対する需要との間の、消費せられるべき分量と消費者数との間の、関係を示す所の、極めて重要な政治的晴雨計である。そして、偶発的事情を別として平均をとるならば、それは更に、人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すものである。換言すれば、現在の人口を正確に維持するためには、一結婚に対し幾何の子供が必要であろうと、労働の価格は、労働維持のための真実の財本の状態が静止的であるか、進歩的であるか、または退歩的であるかに従って、この数をちょうど維持するに足るか、またはそれ以上であるか、またはそれ以下であろう。しかしながらそれをかかる見解において考えることなく、吾々は、それをもって吾々が恣に引上げまたは引下げ得るもの、主として国王の治安判事に依存するものと、考えている。食料品の価格騰貴が供給に対して需要が余りに大なることを示している時に、労働者を以前と同一の境遇に置かんがために吾々は労働の価格を引上げる、換言すれば吾々は需要を増加する、そしてしかる後食料品の価格が引続き騰貴するのに大いに驚く。この場合に吾々の行為は、普通の晴雨計の水銀が暴風雨になっている時に、ある強制的圧力によってそれを快晴に引上げ、そしてしかる後に引続き降雨が続くのに大いに驚いているのと、極めて類似しているのである。』

――デイヴィド・リカアドウ「経済学及び課税の諸原理」(吉田秀夫訳)


村木道彦氏が有名な「ノンポリティカル・ペーソス」でたしか、自分は自閉症的に生を嗅ぐんだ、みたいな言い方をしていたと思うが、いまや病名が比喩的機能を失ってこまっているというのはあるであろう。で、困ったあげくに多くの文人気質たちがイデオロギー的になるというのはあるとおもう。

死と生についても、互いが互いを比喩のようにみていた。金子平吉(金子雪齋)なんか、中野正剛に、政治家は公のために餓死して当然さすれば国賓だみたいな説教をしたらしい(『魂を吐く』)。プロレタリアートの戦いが崇高化されるのもこういう土壌があってこそだったにちがいない。死が生であるからこそ、我々は立ち上がる。しかし、死が無限に未来に引き延ばされて生と関係ないかんじになってくると生そのものが衰弱するのである。

相手に勝つことに長けた人は、社会の運営もそのモードでやってしまうことがあるように思う。社会の運営というのはむしろみんなで負けることなのである。この逆説が理解出来ないひとが暴力的になっていずれ来る負けを引き寄せる。組織の運営なんかも、勝ちのこるために卑怯なことはしてもしょうがないみたいなセンスが繁茂しているわけだが、その姿勢によって、その主体的行為=運営自体が崩壊、――勝ち負け以前に崩壊するのは必然である。おそらく、いま一部が善意で背負っている過剰労働をする気がない、人にも自分にも優しい世代が組織の中心になってそれが加速する。その優しさは、それが及ばない外部を従えるために暴力を発動させる。これはそういうものと決まっているのである。

そのような暴力に対抗する暴力をいかに考えるか思考した哲学者に廣松渉がいるが、――だからこのひとにはまる人は結構多いのであるが、わたくしが学んだことと言えば、論を確実にゆっくりにするときに使える漢語の言い回しだ。いま具体的に出てこないほど影響を受けている(受けてない)。彼のおかげで、漢文の文化は西洋哲学の飜訳的世界に残ったが、一方で勝手な大和言葉信仰へのスライドも人によっては早めたのである。

そういえば、デジタルコレクションを愛用しているけれども、そもそも活版印刷の本になれた我々のような人種は活字が立っていないと読めた感じがしない。デジタルコレクションの場合は今の印刷よりも更にぼやっとしている。活字は一度死んで更に死ぬのであった。そして広く読まれるのであった。

妖孽まねく

2024-12-16 23:20:57 | 文学


その中にも岩橋どのといへる女﨟は、妖孽まねく顔形、さりとは醜かりし。この人に昼の濡れ事はおもひもよらず、夜の契りも絶えてひさしく、男といふ者見た事もなき女房、人より我勝ちにさし出、「自らは生国大和の十市の里にして、夫婦のかたらひせしに、その男め、奈良の都に行きて、春日の禰宜の娘にすぐれたる艶女ありとて通ひける程に、潜かに胸轟かし、行きて立ち聞きせしに、その女、切戸を明けて引き入れ、『今宵はしきりに眉根痒きぬれば、よき事にあふべきためしぞ』と、恥ぢ交す風情もなく、細腰ゆたかに寄りをる所を、『それはおれが男ぢや』といひさま、 かねつけたる口をあいて女に喰ひつきし」と、かの姿人形にしがみ付けるは、その時を今のやうにおもはれ、恐しさかぎりなかりき。

「妖孽(わざはひ)まねく顔形」とはすごい表現であるが、ここまでくるとルッキズムとはいえない。ルッキズムにおいては、顔に対する形容の語彙が異様に貧困である。問題は美と差別の関係ですらなく、言葉という感覚器官の死滅状態なのである。

1957年の谷川徹三「天皇陛下に奉る書」(『世界』)は長い割に内容がない。天皇にたいする気持ちの違いの原因を世代論に持って行っているせいもある。しかしこの世代論というの、なんとなく戦争や時代相とはずれているなにものかであって逆に興味深い証言になっている。谷川は、西田幾多郎が明らかに谷川にはない皇室に対する心情を吐露していたというエピソードなどを交えながら、古いものは去った方がよいといいながら自らが古くなりつつある自覚から、結局、天皇に対する愛着の周りを低回趣味というような形で旋回している。辛うじて、谷川の言葉が、世代論も戦後精神の自走を妨げる。

谷川を縛っていたのは何であろうか。モンテーニュは「エセー」の第8の中で、精神は何かで拘束されないと想像力でめちゃくちゃになってしまうと言っている。これはたぶん重要なことで、我々はあまりに拘束されすぎているので忘れているだけだ。谷川にとって天皇は、自分の精神を羽ばたかせる敵であり、帰って行く故郷のようなものであったにちがいない。これは漱石の「心」の先生なんかとは違う観念性が感じられる。

とはいえ、谷川たちは別の敵とも闘う必要があった。例えば、巣鴨学園作った遠藤隆吉の『読書法』という書物には、「粗読」してると「脳髄を悪くする」、粗悪なものばかりが注入されてるんだから当然だよとネット民にたいして激しく説諭さるべき文言がかかれてある。しかしこれはただの正論で、ここまで教育者が丁寧なこといい出すこと自体堕落なのだ。戦前の教養人たちは、もっとモンティーニュのようにボケたふりをすることも必要であった。谷川徹三なんかほんとはそこはわかっていたはずであるが、ボケたふりをすれば、遠藤みたいな熱血教育者がやってきてほんとに説諭を始めかねない。

モンテーニュは、自分の記憶(メモワール)の悪さがいかに大事なことか説いてもいるのだが、彼のまわりにも博識だけがとりえでそれ故判断力をなくしてしまった人たちがいたのであろう。感覚器官もたこつぼに貼り付く珊瑚のように密集してしまうと自由に息が出来なくなることがある。言葉という感覚器官は、あくまでフィクションとしてはがれ落ちてなんぼなのであろう。

昨日終わった大河ドラマにたいして、「フィクションですねお疲れです」みたいな皮肉な反応を起こしている人びとに言っておきたいのは、戦国時代の大河なんかある意味もっとフィクションに頼ってるということである。逆なのである。戦国時代の血で血をあらうBattle Royaleこそがフィクションなのだ。優しい脚本家が、紫式部のこの物語は、平和な時代への夜伽のようなもんです、と断っているだけ世の中進んできている。もう少しで平家物語もフィクションであるということになるであろう。

そういえば、ナレーションで死ぬみたいなのを「ナレ死」と言って、あんがいこれがやみつきになっている人もいるとおもう。逆に事実性のリアルが感じられる。いいとこついている。そこででてくるのが、「源氏物語」よりも「栄華物語」である。栄華もあるがすごく人がナレ死ぬ物語である。このまえ「栄華物語」をひさしぶりに大日本文庫で少し読んでみたんだが、すごくテンポが安定した新幹線みたいな安心安全な文章で、逆に源氏物語の変態ぶりが幻のように想起されることだ。それは、――信じられないほど洗練されたジェットコースター的ロマンポルノみたいで、もはや皇室文化の破壊である。

哎呦一声

2024-12-15 23:18:38 | 文学


人魚の教へに従つて、貴公子が香港からイギリス行きの汽船に搭じたのは、その年の春の初めでした。或る夜、船がシンガポールの港を発して、赤道直下を走つて居る時、甲板に冴える月明を浴びながら、人気のない舷に歩み寄つた貴公子は、そつと懐から小型なガラスの壜を出して、中に封じてある海蛇を摘み上げました。蛇は別れを惜しむが如く、二三度貴公子の手頸に絡み着きましたが、程なく彼の指先を離れると、油のやうな静かな海上を、暫らくするすると滑つて行きます。さうして、月の光を砕いて居る黄金の瀲波を分けて、細鱗を閃めかせつゝうねつて居るうちに、いつしか水中へ影を没してしまひました。
それから物の五六分過ぎた時分でした。渺茫とした遥かな沖合の、最も眩く、最も鋭く反射して居る水の表面へ、銀の飛沫をざんぶと立てゝ、飛びの魚の跳ねるやうに、身を飜した精悍な生き物がありました。天井の玉兎の海に堕ちたかと疑はれるまで、皎々と輝く妖嬈な姿態に驚かされて、貴公子が其の方を振り向いた瞬間に、人魚はもはや全身の半ば以上を煙波に埋め、双手を高く翳しながら、「あゝ」と哎呦一声して、くるくると水中に渦を巻きつゝ沈んで行きました。
船は、貴公子の胸の奥に一縷の望を載せたまゝ、恋ひしいなつかしい欧羅巴の方へ、人魚の故郷の地中海の方へ、次第次第に航路を進めて居るのでした。


――「人魚の歎き」


この内容に対して、「人魚の歎き」と題する谷崎はいかにもステキ作家である。「恋を知る頃」もなぜだか読んでなかったから読んだのだが、――よく言われていることだろうけれども、谷崎は同じような主題や設定を少し出力を変えたりタイミングを変えたりしているけれども、戯曲でそれをやるというその感覚がいまいちわからない。この不安定な舞台に言葉を投げる作家のきもちはよくわからない。

谷崎や漱石に関してなぜか文体のある種の蓮っ葉さが気になって内容が入ってこないことがあるが、これも作品による。彼らがどう考えていたのかは分からないが、言文一致体の「言」に対してはある程度抵抗が働いていたはずだ。言文一致を言に向かって進む何かとかんがえるのは、近代文学の内面的発語への理想に対しては自然であるとともに、かならず堕落を宿命づけられている。いまの文学シーンをみればわかることだ。

そういえば、最近導入されつつある面接試験も、言に対する信頼抜きには語れない。わたくしは文の方が本体と信じるたちである。短時間で人間を見抜けると思っているのは、教師が陥りがちな勘違いというの、大人の常識ではなかったのかね、と思うのであるが、そもそも思想が違ってきているのかも知れない。ボス猿の嗅覚というのが教師には必須の能力な訳だが、それを人間の把握の正確さと錯覚するのがその言信仰者の特徴であるように思われるのだが、どうもよくわからない。

言と言えば、座談みたいなものもそうだ。それなりに長く生きてきて、舌鋒鋭い過激な思想家や若い論客というのが次第に、総じて「同時代資料」として扱われるに至るのをたくさん見てきたが、つまり当時から「同時代資料」なのだ。

この言への信仰への原因は無論「文」のほうにもある。大学教育について、もはや大学固有の学びなど幻想ですみたいな主張をしている人がいて、そのひとがまったく学生の卒業を冷や汗かきながら指導したことのない立場の人であったのが大きなエビデンスだ。どのような行動を持つ人間がどんな言葉を使用するか、まったく信用がなくなったのだ。

すると、演劇の世界の方が信頼出来る気がしてくるのも分かる気がする。文としての源氏物語よりも大河ドラマというわけである。――今日、「光る君へ」が最終回を迎えた。この大河ドラマ見ていいなと思った若人の皆さん、國文學のみちに進みましょう。一生、こんな一年が続くのです。最後は道長や紫式部の處に行けます。となりに泥酔した中原中也とかがいたらなぐってよいです。

死の床の道長を背後から抱きかかえてる紫式部、まるで自分の体が道長で出来ているような絵になってて、源氏物語が男の物語でありながら女性の物語である妙なありかたを体現しているようでよかった。

寝てました

2024-12-14 23:04:02 | 日記


ひさしぶりの土日連続休暇で寝てました。

要塞/監獄

2024-12-13 23:58:37 | 文学


それに兄さんは、ナポレオンにすっかり参ったんですね。というより、多くの天才が個々の悪にとらわれないで、ためらうことなく踏み越して行った、ということにひきつけられたんですね。兄さんはどうやら、自分も天才だと考えたらしい――つまり、しばらくの間そう確信しておられたんですよ。兄さんはひどく苦しまれた、そして現に今も苦しんでいらっしゃる、というのは、理論を考え出すことはできたが、ちゅうちょなく踏み越えて行くことができない、したがって自分は天才ではない、とそう考えたからです。もうこれなどは自尊心の強い青年にとって、それこそ屈辱ですからね。ことに現代では特別……」

――ドストエフスキー「罪と罰」(米川正夫訳)


現代人の生き方の卑怯さの原因はいろんなものがあるんだろうが、ひとつには、生きるためのウソをたくさんついていることと関係がある。原罪が復讐しているのか何かしらないが、――罪悪感が昂じると罪悪感なしに人間は普通に狂う。いまやそれは煩悶とか名づけられず、病として処理されてしまう。

そもそも「罪と罰」への煩悶とは、罪や罰とは関係がない。私の記憶にあるのは、院生時代である。筑波大学の要塞型の多孔構造とへんな高低差の通路など、あれは住んでる院生にとってはとても閉塞感を生むなにかで、循環しないエッシャーの絵というかなんというか、――あれは病む。わたくしはなんとなく、要塞ではなく監獄にいたような気分であった。

時間がかかるB

2024-12-12 23:44:22 | 文学


圏点も無用、註釈も無用、ただひたすらに心を耳にして、さて黙って引退ればよい。事情既にかくの如し、今さら何の繰言ぞやである。
 とばかりも言っておられまいから、些か泣言を並べることにする。飜訳をしながら先ず何よりも苦々しく思うのは、現代日本語のぶざまさ加減である。一体これでも国語でございといわれようかと、つくづく情なく思うことがある。たかが飜訳渡世風情が何を言う! と諸君は言われるか。悪ければあっさり引退りもしようが、では誰がこのぶざまな国語の心配をして呉れるのか。


――神西清「飜訳遅疑の説」


高峰秀子がどこかで言っていたが、引退というのは潔さにある。したがって、人生100年みたいなものは、概して多くの人々の未練がましさとセットであると覚悟した方が良い。一生懸命やっていない人間に限って引退しても何かと参加したがり、周りのレベルを下げてしまう残酷さ。しかし、そういう現実はあまり否認すべきではない。一方で、若者が高齢者に依存しているとしても、である。

教師をやってると哀しいことが多いが、一番の記憶は「いつの日か、先生みたいな弱者の味方の先生になりたいです」とか、卒業のときの色紙か何かに書いていた学生のことである。この学生にとってはいろんな意味でそれはかなり難しい希望だった。教師はいろんな形で模倣されてしまう。その模倣は昆虫のように擬態とはならない。心だけが模倣しようともがく。

弁証法みたいな思考方法が普遍的でないのは明らかだが、社会が我々にそれを体現せよと要求してくる。弁証法の理解として、すぐ合してまた正と反とがでてみたいなモデルは普通に考えたら怖ろしいわかるのに、教育においてはすぐ合したがる、すくなくとも合と言いたがるというはある。むしろ合=揚棄しない自由があるのは一方的な講義とやらのほうである。コミュニケーションはほとんど弁証でもなければ、キャッチボールでさえない。

明治の男たちなんか、弁証法的ではなく、A=Bの連続である。伊藤博文はたしか「国是綱目」で、「ワガ皇国数百年ノ継受ノ旧弊」とかいうており、A皇国=B旧弊であるから、――実に不敬であるからいまからでも遅くはない、逮捕すべきである。むろん、これが逮捕されるようになるには、時間がかかるのだが、かならず実現してしまうのである。例えば、森有禮の簡易英語論もそうである。採用されておればたしかにやばいにことになってたのは誰でも予想出来た。だからやめたが、現代において「わかりやすい日本語」とかにはみな反対しないのは狂ってる。しかし、森のB呪いが復活しただけである。

擬態する霊

2024-12-11 23:48:59 | 文学


よく見てやろうと、私は床の上に起直って見ていると、またポッと出て、矢張奥の間の方へフーと行く、すると間もなくして、また出て来て消えるのだが、そのぼんやりとした楕円形のものを見つめると、何だか小さい手で恰も合掌しているようなのだが、頭も足も更に解らない、ただ灰色の瓦斯体の様なものだ、こんな風に、同じ様なことを三度ばかり繰返したが、その後はそれも止まって、何もない。私も不思議なこともあるものだと、怪しみながらに遂その儘寐てしまったのだ。夜が明けると、私は早速今朝方見た、この不思議なものの談を、主人の老母に語ると、老母は驚いた様子をしたが、これは決して他人へ口外をしてくれるなと、如何いう理由だったか、その時分には解らなかったが、堅く止められたのであった。ところが二三日後、よく主顧にしていた、大仏前の智積院という寺へ、用が出来たので、例の如く、私は書籍を背負って行った。住職の老人には私は平時も顔馴染なので、この時談の序に、先夜見た談をすると、老僧は莞爾笑いながら、恐怖かったろうと、いうから、私は別にそんな感も起らなかったと答えると、それは豪らかったが、それが世にいう幽霊というものだと、云われた時には、却てゾッと怯えたのであった。

――岡崎雪聲「子供の霊」


いまどき、論文の題名に「霊」みたいな言葉を入れれば深淵になるのではっ、と思ったがさすがに恥ずかしくてなかなかできない。こういうことをできるのは、マルクスとかデリダとかみたいなエラい人に限る。

わたくしも学部時代から、擬態する霊みたいなコンセプトを持ち歩いていた。先日、文学フリーマーケットで売られていた、『mimetica』の擬態特集はすごかった。学部生の頃にこういうのに出会わなくて良かった。やる気を失っていたかも知れない。いまの文学思想系の若者が大変なのはレベルが上がったのもあるんだよな(卒論でさえそうだから)、わたくしのような文学青年の煮崩れたようなタイプが参入出来るかんじの業界は必要なんだとはおもうが、もうそういうところがあまりないんだ。いいことなのかもしれん。

何年か前に書いた気がするが、平凡さとか凡庸さに対する認識の甘さは、確かにナチズムの有名な議論では劇的に露出したりもするが、文学なんかだとすごく面倒くさい議論になりがちである。文学は、そもそも平凡さや凡庸さにしてもそれ自体では存在せず、擬態として存在する。

擬態と言えば、――よくいわれることだが、教師とは教師を模倣しようとした人間であり、その模倣への欲望はけっこうやっかいなものである。いろんなものを見えなくさせている。

霞と雷雲

2024-12-10 23:57:44 | 文学


上は、近代文学の祖先の一つである。まるでマンガであるが、まんが的側面は常に残り続けていた。自然主義だって作品によってはそうだ。いや、むしろよくよく写実をしようとすると漫画になる。考えてみれば、絵を描くことと写実的に言葉を使うことは、我々が認識しているよりもほぼ同じ行為なのである。

テレビドラマも故に、非常に画面が鮮明になって、なんだかコメディ化が進んだ気がする。そういえば、大河ドラマのどん詰まりになって、紫式部の娘が史実のとおり?宮中で「光る女君」と化す顛末が仄めかされていた。首相の愛人として首相官邸で長篇小説を書いていたら、昔、靖国神社で首相とつくった娘が「おかあさんの小説の主人公みたいになりたい」とかいって、国家議員たち相手に好色一代女になりにけりとか、まったく破廉恥すぎである。

これに比べると、歴史にひきつけて文学を理解するやり方は、まず間違いを面白く言うしかないデマゴーグになってしまう。爆笑問題が出てるなんとかっていう番組で、源氏物語を何人かの歴史学者が語ってたが、かなりの割合で文学の学会で言ったら即死みたいな内容で、文学を歴史(エビデンスかw)にひきつけて理解する流行であろうがこれはひでえとおもった。

賢子さんは、歴史上の人物ではなく上の大河ドラマの(ための)人物だったのだ。そういえば、三木清の「人生論ノート」って、西田幾多郎の弟子がユーチューバーになって、5分で分かる人生論とかやりだした感じなのである。名著にはなはだ失礼だが、三木の苦闘はその実、思想のファストフード化を予言するためのものだったかもしれないのだ。誰でも感じるであろうが、彼の本は何処かしらビジネス書みたいな雰囲気があるのだ。これにくらべると、花田★輝なんか、否定的媒介という言葉が分からなければまんが化と言い変えてもいい、みたいな科白があり、こんなのは根本的にビジネス書に必要ない。彼の大衆化理論は、かえって、文人画にかいてある難解な警句みたいなところがある。

花田は抵抗したのであろうが、三木などにあったファストフード化は抑圧された時代の反映ではなかろうか。例えば、「君たちはどう生きるか」は昭和12年でたしかにその時点というのは重要なんだけど、もうすでにいろいろなものが手遅れで、この作が手遅れの段階で書かれている人生論であることは重要である。「人生論ノート」や「哲学ノート」も、本質的にはその手遅れの後に書かれた人生論である。

かく言うわたくしも、どこかしら昭和10年から歴史が始まったみたいなかんじで院生時代を過ごしていたと思う。非常によくない。
昭和初年代から一〇年間はどこかしら軽視されているのだ。戦時の破壊の風景がむしろ、戦争へのプロセスやいろいろな差別の実態からの逃避であったとは、五味渕氏が力説していたところだ。そのかわりの戦後も、昭和一〇年代より前も、ともに霞がかかってしまったのである。だから、左派もやたら「抵抗」はするが、それに留まる傾向がある。しかしまあ、今日も授業であつかったんだが、――中島栄次郎の「浪漫化の機能」をあげるまでもなく、その霞を何とかしようと思って、「問題の実質化」みたいなことを言い始めても無駄なのである。霞を雷雲にかえるだけだ。

そんなことは先刻ご承知の筈の小林秀雄の戦時下の文章を読むと、――意図的に声を潜めた口調や文体にしようという意図がみえなくもないと思う。しかし、もはや声を潜めても彼の言うことは切り取られて拡声器にのってしまうようなyoutubeのショート動画みたいになってしまうことがよく分かっていなかった可能性はある。で、戦後はその反省なのかわからんけど、まわりをやたら拡声器扱いにしている傾きがないではない。上の花★も「あいつは拡声器」とか言われたらしい。

ウインター猫

2024-12-09 13:29:12 | 日記



2024-12-08 23:35:45 | 思想


「会社の方も、何処の会社の話を聞いてみても、皆赤字のようだが、ああいうふうに、皆が赤字赤字でやっていて、いつまで続くんでしょうかね」
「温泉へ行ってみて驚きましたよ。たいへんな繁昌でね。どうしてウィーク・デーに、ああ大勢温泉に出かけられるのかと、初めは変に思ったが、聞いてみると、日本じゃウィーク・デーでもそうやかましく言わんようですなあ」
 アメリカの生活は、計画と組織との生活である。そういう生活にすっかり馴染み込んだ一世の人たちが、何十年ぶりかに日本を訪問する。そういう場合には、とくに日本人のこの非計画性が、よほど不思議に感ぜられるのであろう。
 こういう非計画性というのも、結局は、国民が前途に希望をもてない、あるいは持たないところから来ているのではないかと思う。この根元について、何か見通しがつかないうちは、こういうきわめて単純な質問にも、一寸答えられないわけである。


――中谷宇一郎「単純な質問」


そこそこ優れているひとのなかにも、自分はすごくうまくいってなくて、と常に思いがちな自意識の人はよくみる。そのなかには、いちいち相手の素養を見誤った発言をしてしまうタイプがいる。相手がボケてくれているのが分からないのだ。いったい、われわれが物事を把握出来るとはどのようなことであろうか。

それは、学者や学生の注釈への依存みたいな現象についてもいえることである。例えば、卒業論文にあまり実証の厳密性だけをもとめすぎるべきではないのは、大学生のそれをやりきる実力の問題でもあるけれども、本質的にはそうではない。感想文だめエビデンス命みたいな理念に依存している人間というのは、端的に気が★っているといってよいからだ。証拠に頼らなければ物が言えないというのは、A=Bに依存するチェスタトンの言うような狂気なのである。これはたぶん、Cの欠落に因る。

我々は内戦の思想についてよく考えてみるべきであった。内戦は、国家が国民であるという依存が崩れたときに起こるのであろうが、なにより、個々のA=Bが何の依存性を持たずに自走し始めることを意味している。AとかBだって、何かのCに依存していたのだ。

ショスタコービチの交響曲がくらくてながえとか言っている人は、ぜひ「新バビロン」をBGM代わりに聞いてみて欲しい。妙に明るくて長くて途切れない心地よい拷問が続く。ショスタコービチの交響曲といえど、四楽章交響曲が要求する様式的な思想の縛りのおかげでその「くらくてなげえ」程度に済んでいたということを意味している。

「おれはどうもこの自動扉というやつが、好きではないんだ」「何故です?」「自分が乗ったんだろ。だから自分の手でしめるのがあたりまえじゃないか。他の力でしめられると、なんだか変だ。うっとうしくて、かなわない」

――梅崎春生「記憶」


この不安は、戦後の雰囲気を良く伝えている気がする。いったい、戦後という時代は何が興っていたのであろう。例えば、最近の教育界のトレンド、――個々の最適化と協働を矛盾なく説明しようとすると、結局、国家総動員しかないようなきがするのであるが、教育はいまくいかないという根本原理がわれわれを自由にする(わけないだろう)。考えてみると、国家総動員自体が、理念Cとしての明治維新以来の国家の崩壊を意味していたのであろう。無媒介のA国民=B兵士ということを束ねるしか策がなかったのだ。

むろん、A=Bだって、強制には違いない。Cの欠落は、結局はA=Bだって崩壊させる。例えば、半分しか理解出来ないのならえらそうな質問やコメントをすべきでない、みたいな自明の理が通らなくなったのは、確かにAだがBみたいな諭し方が一般化した事とも関係があると思う。こんなとき、Aのほうしか記憶しようとしなくなるのは当然ではないか。AだかBみたいなのは、それを支えるCがない。結局、それはデマゴーグに感じられてくる。だったら、はじめからAに居座っても同じではないか、という。

Aの偏重は、相手の言うことBを理解できなくする。結局、誰でも質問していいよ的な話し合い至上主義みたいなものは、Bの無視の許可なのである。これを大学教育にもちこむと、個ではちょっと失敗続きの人間が質問で逆に目立とうとするのでいやである。正直、わたくしは、かかる人間にはマイナス点をつけているので問題ないが、一般的にはそうなっていない。質問はできるし発言も出来るんだけど、演習の発表や課題はだめ、仲間はずれをすぐつくりたがるなどの現象を、頭が悪いからだと言うことは簡単だが、――教育者は、上の二者がどこかしら具体的内的関連をもつということまで考えなきゃならない。教師の側も、その面倒くささから逃避し、観点別評価ににげがちである。

差別をどうなくすかみたいな問題もそうだが、差別をなくせと説教(A)してどうにかなる部分が過大評価されている。教育なんかだと、知識偏重よりコミュニケーションみたいな旗を振って、どうにかなる部分が過大に想定されている。人間の内面や実力をなめてかかっている為業と言ってよいと思うが、結局、上のようなカラクリが関与している。確かに差別はしないんだが仲間はずれをしたがるとか、被差別部落には反対だが、「エタという身分」とか平気で書いてしまうとか、結局、教育が本質に対するものになってないとこういう現象がいくらでも出てきてしまう。子供によりそうみたいな表面的なやり方でこれがどうにかなると思うか?なるはずがない。

残酷なようであるが、左に書いてある文字を右に正確に書写する(比喩ではない)みたいなことをできるようにするなんてのが、上への対処の第一歩としては大事なことだ。実際、そういう正確性がないので何をやってもふらふらした感想しか定着しない場合はどんどん話がややこしくなる。善良だけど差別主義者、差別主義者だけど博愛主義者みたいな人間が増えてしまうわけである。コミュニケーションなんか夢のまた夢である。

マス・コミュニケーションの消滅と学校

2024-12-07 01:42:30 | 文学


 ベルリンのオリムピックの放送で、女子平泳の予選の時、支那のヤン嬢(多分さういふ名であつたと思ふが)がひどく派手な緑の水着をきて、外の選手がみんな水へ飛び込んでウォームアップをしてゐるのに、このお嬢さんだけはどこを風が吹くかといふやうにスタート台に悠々腰を下して水面を眺めてゐるだけである。さういふ放送があつた。名放送である。どうして、かういふ事実をとらへて目のない聴衆に伝へてくれないのであらうか。

――坂口安吾「相撲の放送」


わたくしはテレビをよく見るにもかかわらず、小さいときにあまり見てないせいか、マツコや有吉が言明するような、テレビに対する愛がない。最近の番組なんかも、ドラマなどを除けばほとんど罵倒の対象に過ぎない。知識人たちはテレビはオワコンだとか言っているが、そうではなく、テレビとはマス・コミュニケーションなのだ。我々の公共性というものがオワっているのである。スマホはマス・コミュニケーションではなく、地下活動の通信である。

テレビをマス・コミュニケーションとして蘇生させるためには、批判しかない。

NHKでいうと、「サラメシ」という番組が嫌いである。まずもって、題名が嫌。こういうのが造語能力を低下させるのだ。他人の弁当を覗く趣味も嫌である。弁当自慢なんか、もうすでに多くの人には出来なくなっているではないか。子供食堂が何やらと言っているのならこういう番組を面白いとか言うのは、ダブルスタンダードなのだ。「グレーテルのかまど」は、女主人が若い奴隷男子に料理させながらからかっているような番組でとても嫌である。現実にこういう感じのやりとりがある場合、明らかな性的ないじめだと思う。竈だからいいのかというとそうでもない。いじめというのは竈みたいな感覚のもとにあるのである。人間的感覚から解離した感覚である。ヒューマニズムだけが人間的感覚だとしたらの話であるが、NHKはそういう立場を取るべきだ。チコちゃんに𠮟られる、とかも明らかないじめ番組だと思う。あれで笑っている人間の感覚が信じられん。チコちゃんは、キャラクターのふりをした鈍器ではないか。テレビが笑いに流れるときには大概暴力的である。マス・コミュニケーションは大声を出したがるのが習性だ。そうであるから、根本的に隣人に対するものであるべきである倫理には向かない。世の中いろんな人がいるもので、たとえば「バリバラ」みたいな番組からいじめの手法を学ぶ人間もいると思う。全体的な番組の雰囲気からその解釈可能性が生じているきがするが、制作者側にそれを修正出来る繊細さはおそらくない。あらためて「笑っていいとも」の邪悪性について考える時期に来ているのではなかろうか。――というか、この番組がはじまったころそういう議論があったでしょうが。タモリもたけしも文化的と言うより暴力的だったんですよ。

中山美穂が死んだらしい。――小中高とテレビをみなかったおかげで当時の芸能人が亡くなってもそれほどの打撃を被らない私であるが、思い入れがあった人たちは人生半分もがれたような気分であろう。一方で、私は幼稚園の頃から半分死んだような人生だと思っている。そういう人間も結構いるような気がするのであるのであるが、彼らには本当にテレビの世界は蜻蛉みたいなものである。だから、そういう私なんかは、死んだ誰かの志を絶やすなみたいな運動すらも、その志によってはひどいことになるのは当たり前に思えるのである。継承は基本AIみたいなものにならざるをえない。継承の意志は命令を聞く主体しか生み出さない。主人がいない人間世界である。昨日の夜の経済番組で、AIが事務仕事を代替みたいなAI擬きの主張が繰り返されていた。それにしても、「羅生門」の続きを書いてみて、――みたいな質問には頭の悪そうな答えしか出さないくせに、何故、プログラミングとかできるの?やつらは。言うまでもなく、それが下人の労働だからであろう。

だからといって、下人が容易に主人になれないのも確かである。坂口安吾は戦時中に、仏教国のくせにあんまり仏典を読める環境にないのを、戦争以前に文化がねえ、みたいなことを言ってたが、だいたいの愛国者がもっとこういうことを言ってりゃいいのに、堕落文士に言わせてるのがほんと文化がない。いや、主人がいないのである。

たぶん共同体の消滅とマス・コミュニケーションの堕落と関係があるだろうが、子供が内発的に倫理的にはならない現実にしびれを切らし、その被害者を救おうと行われているのが、例えば「内申重視」という政策である。しかしそれはおもったよりまずい結果しかもたらさない。素朴な悪人ではなく、邪悪な悪人を生産している。生き方が卑怯になるわけである。そりゃときどきいる馬鹿な教師を批判することも出来ねえんだから、そりゃねじ曲がるし卑怯にもなる。人の言うてることをまずは認めましょう、みたいな教育も、目論見とは異なり、「批判するな」というメッセージにしかなっておらず、その実態は弱い者いじめとして機能している。のみならず、内申書を成績として扱うみたいな政策は、――教師が子供に対して面と向かって倫理的行為を評価出来ず、むしろ評価すべきでない人間の行為を逆に褒めながら導くみたいなことをやらざる得ない現実、すなわち、教師の率直さと倫理的表明を奪ったとことも関係があった。内申がある意味復讐的なニュアンスを持っているのがほんとまずい。

やはり地下活動においては、リンチと陰謀が繰り返されるわけである。

朝顔が半年咲き続ける世界

2024-12-06 23:52:11 | 文学


 今年の夏の末ごろのことであった。ある友達が私のしびれている脚に電気療法をしながら、その男兄弟が、
「どうもこの頃は弱るよ。転向なんぞした奴だからというのを口実に、執筆をことわる人間ができて来て……」
といって述懐したという話をした。そのときも、私はさまざまな意味で動的な人の心持の推移がそこに反映している実例として、それを感じた。


――宮本百合子「冬を越す蕾」


やっと朝顔のつぼみが朝開かなかった今日この頃である。

開花せずとも別に冬だから良いではないかと思うが、人間なかなか開花出来ないと歯噛みをし続ける。ここ一〇年ぐらい、就職に失敗したら大学院にいけとか兄弟に言われたんだ、みたいなことを述べてくる学生がしばしばあらわれる。実に気の毒である。人間の開花時期なんか人それぞれなのである。無理やり開かせることはない。

うちの朝顔も、7月から12月まで半年ぐらいくり返し咲いている。我々は持続的に定期的に開花をみたい我が儘な動物である。かくして一読して開花してしぼむまでを一話読み切りが連続する話が叢生する。「源氏物語」がそうであった。そういえば、大河ドラマの道長役の俳優さん、いろんなおんなの俳優相手に生きているわけだが、考えてみると、「源氏物語」って、そういう俳優の一代記みたいなかんじかもしれない。だから死の場面ないのも当然ではあるまいか。一代記とは半年咲き続ける朝顔だ。

そういう我々は予祝を朝顔に錯覚させる術さえ開発しながら、突然、長い抵抗運動を西洋=近代として取り込んだ。民主主義は過剰にだらだらすべきで、オセロみたいなスピーディなのはだめだ。牛歩戦術なんかテンポが早すぎるくらいだ。朝顔はいつまでも咲かない、それがよいのである。

マッド・ハイジから唐揚げへ

2024-12-05 23:13:03 | 文学


 わたしは雪の中をあるくのが好きだが、あるきながら、いろいろの光線で雪を見るとうつくしい。足がふかくもぐるからあるきにくく、くたびれるので、ときどき雪の中へ腰をうずめてやすむ。眼の前にどこまでもつづく雪の平面を見ると、雪が五色か七色にひかっている時がある。うしろから日光がさすと、きらきらして無数の雪のけっしょうがみな光線をはねかえし、スペクトルというもののようになる。虹いろにこまかく光るから実にきれいだ。野はらをひろく平らにうずめた雪にも、ちょうど沙漠のすなにできるようなさざなみができて、それがほんとの波のように見えるが、光線のうらおもてで、色がちがう。くらい方は青びかりがするし、あかるい方はうすいだいだい色にひかり、雪は白いものとばかり思っていると、こんなにいろいろ色があるのでびっくりする。

――高村光太郎「山の雪」


「アルプスの少女ハイジ」のパロディである「マッド・ハイジ」というのがある。この前見たんだが、良かった。スプラッターが我々の邪念をはね飛ばし、愛と自由に導く。もちろん、暴力をともなっている。我々は、果たしてこういう精神の回路しかもちえないのであろうか。

戦後に、暴力によって革命に至ろうとした人たちがいたが、当然失敗して葛藤を抱えながらバブル以降を生きた。彼らの子供たちであるわれわれもその中で思考した。しかしわたくしも、20代の頃、『情況』がこんなに続くとはおもなかった。私の予言ではずれた多くのなかの一つである。

暴力を否定していたら、当然の如く、学校の暴力性も去勢され、学校自体が揺らぎ始める。もちろんこれはそれだけではすまない。学校的世界の稠密度は、文壇みたいなものに思い切り裏返って反映する。学校の没落を喜んでいる場合ではないのだ。だからといって、文壇のような旧弊が終わったわけではない。普通にかんがえて――文壇みたいなものはいまも存在している。世の中が学校的になっていると同じ意味で、文壇的になっただけだ。膨張化である。わたくしは、文学フリマとやらは、その膨張化を否定しようとする新手の中央集権の何者かだと思っているのだ。

このような膨張化のなかで何起こったかと言えば、内戦が、マイノリティとマジョリティの闘いとしてイメージされるようになった。そこでは昔のルサンチマンが動力になった。うちの学会にもなにか世の中では日陰者みたいな意識が残っていると思うが、ある別の業界の論文をよんでいたら、もはやじぶんたちは別の★の人みたいなもので、と述べていたものが結構見つかり、びっくりした。どうみてもいま流行の学問ではないかとおもうのであるが。だから彼らはマイノリティとマジョリティの図式を使うのか。。

文学もいいけど唐揚げも同等にすばらしいと思う。

依存

2024-12-04 23:12:52 | 思想


 先日ある新聞にラジオだのアナウンサーだのといふ外来語を使用するのは怪しからんと論じてゐる人があつた。皇軍破竹の進撃に付随して、このやうな景気の良い議論が方々を賑はし始めてゐるけれども、尤もらしく見えて、実際は危険な行き過ぎである。
 皇軍の偉大な戦果に比べれば、まだ我々の文化は話にならぬほど貧困である。ラジオもプロペラもズルフォンアミドも日本人が発明したものではない。かやうな言葉は発明者の国籍に属するのが当然で、いはゞ文化を武器として戦ひとつた言葉である。ラジオを日本語に改めても、実力によつて戦ひとつたことにはならぬ。我々がラジオを発明すれば、当然日本語の言葉が出来上り、自然全世界が日本語で之を呼ぶであらうが、さもない限り仕方がない。我々は文化の実力によつて、かやうな言葉を今後に於て戦ひとらねばならぬのである。
 日本はジャパンでないと怒るのもをかしい。我々はブリテン国をイギリスと言ひ、フランスは之をアングレーと呼ぶけれども、軽蔑しての呼称ではない。各国には各々の国語とその尊厳とがあつて、互に之を尊重しあはねばならぬもので、こんなところに国辱を感じること自体が、国辱的な文化の貧困を意味してゐる。こんなことよりも「民族の祭典」を見て慌てゝ聖火リレーをやるやうな芸のない模倣を慎しみ、仏教国でありながら梵語辞典すら持たないやうな外国依存を取り返すのが大切である。


――坂口安吾「外来語是非」


昨日の授業で、戦後のマルクス主義陣営の生命力は、戦中期の試行錯誤――小林秀雄のいわゆる「言葉の魔術」に幻惑された状態にならずに現実に直面させられた経験のおかげである、と主張しておいた。一方の小林は、それでも言葉に限らず、時代時代の局面に対してどこかしら幻惑されたい人であって、上のようなただの正論みたいなものを吐けない。彼の言語は、常に、違う意味に転化しかかっている状態にされて提出されるからである。魔術に関わり合うことは一方で谷崎の「魔術師」の女のように、おかしな幻術をうけいれながらなお、過剰に興奮せず、自分の気持ちを保ち続けることである。そういう葛藤をさけておいて、精神の楽屋がほんとうに生き生きするかどうか?しかし、谷崎の男女は結局は共依存的であった。

要するに、小林のようなやりかた、魔術に酔うことを肯定してしまいがちなやり方は、自分が依存するものに対して弱くなる気がする。

例えば、もうあまり知られていないだけで、教育機関で「発達障害担当係」みたいにされてしまった教員が自死したり、逆に疲労で加害的な行動をとったりみたいな事件がかなり起こっていると思う。あまり見ないふりをしないほうがよい。これは、発達障害云々の問題に導かれて出てきた問題ではなく、依存されることの強要、依存することの自由が過剰にゆるされてしまった、寄生虫的状態への過激な退行である。教員が、絶望して自分を使い捨ての宿主だと思ってしまっている現状は危ない。教員と生徒や児童の権力勾配に抽象的に注目しているだけではだめで、いつ暴力的なものが発生する可能性があるのか、ある種の常識的な眼で見る必要があるのだ。

趣味や薬への依存は話題になるが、人への依存のほうが実際は大問題で、利用出来ると思った人間に依存する、ほぼ捕獲みたいな鋭さで狙いをつけて依存してくる人間はものすごく多くなっていると思う。発達障害関連でそういう事例はよく聞いていたが、そういう問題ではない。

すごく能力のある学者でも、なにか一仕事追えたときに「敵がいないな」と呟くのを多く見てきた。そしてそれは大きな勘違いだった。怖ろしいことだと思う。これは自分の業績への寄生である。

そのなかで理念を掲げて生きなければならない教育者は大変である。いまは理念への依存が堕落に見えるから、単に理念を掲げるだけではだめである。そもそも「お前の考え方を変えろ」と言っただけでは教育にはならず、そのための手段を考えるのは教師としては常識的である。すなわち、教育とは政治に似てかなり妥協の上で一歩一歩進んでいくしかないものだ。自分の一生では間に合わないほど、そのあゆみはおそいものである。だから理念は属人的であってはならないわけであるが、そんな巧くいった試しもない。理念は復興され想起されながらの生存しか許されていない。

政治においても左派が啓蒙をしたいのであればかかる事情を考える必要があるのは当然だと思う。

観光地化について

2024-12-03 23:06:53 | 旅行や帰省


自分の故郷が観光地になってふるさとをなくした人は多いよな、あんな映画セットみたいなもの.....。

もっとも、観光地化しないものというのはかなり生々しい。たぶんおれの偏見なんだろうが、――やたら旅行に行きたがる奴には鈍感なタイプが多いと思う。そうじゃないと旅というのはその生々しさが怖ろしくてやってられない。冒険心はその鈍感さと表裏一体だみたいな旅行好きに媚びた意見も聞きあきた。