★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

欲望は獣を欲望する

2025-03-22 23:22:42 | 文学


「つらき者に思ひおきて、今まで知られたまはざりける。対面しぬるは、限りなくなむ心のびてうれしく」と宣へば、女君「ここには、さらにさ思ひきこえぬを、この君の、さいなみしをりを、おはしあひて聞きたまひて、なほ便なきものに思しおきたるなめかし。『しばしな知られたまひそ』とのみ侍るめるに、つつみてなむ。心には、さらに知りはべらぬなめげさも、御覧ぜられつることをなむ、いかがと限りなく思ひたまへつる」と宣へば、「そのをりに、いみじき恥なり、何事に、思しつめて、かくはしたまふならむ、と思ひたまへしを、今日聞けば、君をおろかに思ひきこえたりとて、勘当したまふなりけり、と承りあはすれば、なかなかいとうれしくなむ」と、うち笑ひたまへば、女君、いとあはれと思して、「さてしもこそ、かしこけれ」と申したまふほどに、督の君、いとうつくしげなる男君を抱きて、「くは御覧ぜよ。心なむ、いとうつくしくはべる。天下に、北の方も憎みたまはじとなむ思ひたまふる」と宣へば、「そもけしからぬことを」と、かたはらいたがりたまふ。

これぞコミュニケーション能力というべきであって、結局、落窪の姫が権力とむすびついたのでもう穏やかに事態を収めるほかはないという自明の事実をなんか「気を遣」っているようなやりとりで隠蔽、あるいは、落窪の姫のキャラクターで、ことは荒立てられなかったことの整合性をつけている。――べつにイジワルな見方をしているのではなく、よく現代でもあることだから言っているだけである。別に復讐を法が押さえ込んでいるように見える現代人に特有の作法ではない。

そういえば、相撲とか野球でも我々は敗北をすると妙に心が軽くなり、言うことも軽妙になることがある。例えば、あまりに御嶽海が負けまくるので、つい「御嶽海のファンの皆さんに朗報です。番付表をひっくり返してみて下さい。御嶽海はほぼ角界の頂点です。あまりに頂点過ぎるので、天井を突き抜けて十両に昇格する可能性があります。」などと言い放ったりしがちである。あるいは、高松商業が惨敗したので「わが高松商業は100年前の怨みのせいで早稲田実業に負けたようです。あと100年後に復讐すれば、オセロ的に昨日も白星です。」などと言ったりもするであろう。

そういえば、AIに負けまくっている我々は、過去のAIがでてくる作品なんかも癒やしの一つになってゆくであろう。しかし作品の場合は、創られた時代においては、むしろ非実践的であることによって反革命的であるにもかかわらず、未来へのぬか喜びを書き込んでいたりもするのだ。例えば、「宇宙戦艦ヤマト」にアナライザーというロボットが出てくるが、スカートめくりが趣味であった。われわれは現在、AIがお硬い論理野郎と決めてかかっているがどうであろうか。ロボットが進化するというのはそういうことかもしれないのだ、――といったように。実際のAIは擬人化よりももっとひどい獣化が予想されるというのに。どういうことかというと、AIの発明は、人間を獣化するのである。脳をAIに預けたのであるから、脳を抜かれた我々が獣化するのは当たり前ではないか?

独創性を唯一の支柱にしていた研究者に未来はない。かれらのほとんどは論理的一歩を速く踏み出すことにとりえがあったわけだから、もうほとんどはいなくても大丈夫である。かえって人間が残っているのは、機械的な動作を全部は省略できない事務仕事の方だ。彼らの人材が枯渇して最小限で仕事を回す状況になると、当然ながら社会に民主的な屈撓性がなくなる。民主主義とは手続きだ。それが、あっちからこっちに何かを動かすことしか出来なくなり、いちから手続きを創造することが厳しくなるからである。だから、その創造を強制できるのは強権だけになる。いま民主制みたいなものが作動している感じがしているのは事務方が身につけたもので、その習慣が作動しているに過ぎない。でもこの習慣の常識的作動がないとものごとは動かない。民主的の精神だけで動いているのではない。これを忘れると必ず精神的強権が制度すべてを破壊して人が死ぬ。旧来の、権力構造のなかの権力の遍在性というか、弱者の権力性を相対的に重く観るみかたは、どこかしら、事務方などが余裕を持って振る舞っていたことと関係があるとおもわれる。それは権力の問題ではなく、手続きの創造性の問題だったような気がする。

むろん、こういう創造性は民主制という仮面をかぶる気合いとともにある。それが重荷でないことはない。これに対しては、我々は欲望みたいな言葉しか持ち合わせていないのがやっかいだ。欲望を体現したモンスターを欲するしかなくなるからである。

開かれた因果への短絡

2025-03-21 23:37:24 | 文学


 ダンテの三行詩節とジョイスの章句において起こることは要するに、美的効果の構造規定に照らせば類似した方法をもつ。つまり表示義と共示義の集合が物質的価値と融合し、有機的な形を形成するわけである。どちらの形も、その美学的観点から考察すれば、絶えず更新され一層深まってゆく享受行為に対する刺激として開かれている。だがダンテの場合、一義的メッセージの伝達が常に新たに享受されるのに対し、ジョイスの場合、それ自体(そして実現された形のおかげで)多義的なメッセージが常に多様に享受されることを作者が意図している。すると美的享受に典型的な豊かさに、現代の作家が実現すべき価値として自ら提示する新しいかたちの豊かさが一つ加えられるわけである。


――エーコ『開かれた作品』(篠原資明他訳)


予備校のときに名古屋の本屋で立ち読みしたときに、それが「開かれている」ことになるのかどうかわたくしは疑問であったが、いまでも疑問である。わたくしは浪人生で、非常に運命というか必然というか、そんな何かを感じていたので、テキストが開かれていようと閉じられていようとどうでもよかった。いまだって、あまりそういうことに興味はないし、解釈?が開かれているという言説がなにか怖ろしいことのように思えたからでもある。わたくしは開かれているということは、それが開かれたまま自走していってしまうことのように思えたのである。人は、そこまでテキストを目の前にし続けないし、自分の考えさえ制御できない。

先日も書いたように、ヴァンス副大統領の『ヒルビリー・エレジー』を読んだ限りでは、この作品にロシア文学みたいな「文学」を感じる東浩紀氏の感想も少し大げさだとおもったが、そういう感想は十分ありうるし、主人公(書き手)に対してセンシティブとさえいえるのだと思った。

この自伝は、やはりいま流行のエビデンス主義なのである。因果が現在を決定する。過去の悲惨は現在につながっている、と。しかし我々は、いいかげん我々は都合のいいエビデンスでっち上げることばかりしていないで、同じエビデンス主義でも因果応報というものを知るべきなのである。いきなりオウム事件を身から出たさびと見做すことがきついならもっと分かりやすいものでよいが――、とりあえずオウム真理教なんかは、戦後の教育とサブカルで醸成された善意とSFの結合が原因という説明がよくあるけれども、よのなかそんな簡単な因果では出来事は生起しないのではないか。わたくしは、善意とSFというものの周囲が重要だったことは認めたいが、そこに自由という観念がどこまで関与したかに興味がある。善意が孤独でないところに置かれるとやっかいなことはよく知られているが、なぜ善意の集団化が暴走しがちかといえば、なにか自由を目的化させるものが善意にあるからだ。自由を因果から遁れる暇つぶしに考えないのである。

おそらく教員の集団も、いま、因果を信じたい善意と整理不可能な現実との闘いを演じている。それこそ世の因果で前者は負けることになっている。勝ったら宗教集団として顕れてしまう。

可能性の抑圧について

2025-03-20 23:02:17 | 文学


一枚の白い紙を掬い上げるように
向うの鏡の中に
美しい女は現われては来ない
漂流する飛行機の上で
故障した無電機から
かすかな鋸の音を聞いているような
不安な影が


――上林猷夫「機械と女」


もはや、松本零士の四畳半の世界であるようだが、いまだって、このような美女と機械の組み合わせは、大きく観れば非常に非常に多く追及されている。それはそれで面白いのであろうが、わたくしは、そういうことをやりたがる人間とは何かという問いしか頭に浮かべることができない。

どちらかといえば、わたくしには、フェミニストが問題にしていたような修辞的介入の有効性みたいなものが引っかかり続けているのだ。

昨日も、「ものすごい猫好きは、ケネディにも猫を感じるらしい。ネが入っているのとケとかデとかイが猫が寝転んでいる姿に似ているらしいのだ。世の中ほとんどが猫では。」などと妄想し独りごちでいたわけであるが、果たしてこういう修辞に意味はあるのか?またわたくしは、ドジャースで試合前にマグロの解体をやったという記事をみつけて、「コロッセオで猛獣殺すかわりにマグロの解体かよとも思うが、こういうのがないから授業とかが眠くなるんだろうな、わしも授業前にマグロの解体ショーでもしようかな。むかしPerfumeもどさ回りでマグロの解体ショーやったって言ってたし。」とか妄想した。わたくしにとって、こういう行為さえ、修辞的介入ではあるのだ。しかし、こういうのは果たして、世界の修羅場をくぐった人間たちの怖ろしい権力に勝てるのか?東浩紀が言うように、むろん勝てるはずがない。勝つことは政治的な問題である。そういう局面になると、文学も「修辞的介入」とか言っている場合ではなく、ラスコーリニコフの次元にうつってゆくしかない。

春すぎて夏来にけらし白妙の衣ほすてふ天の香具山

最近は、「春すぎて」が一番うるっときてしまう私は、実に平和ボケしている。

あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜をひとりかも寝む

そもそもあまり勤勉でなかったむかし、鴨がひとりで眠そうにしているのかと思っていたぐらいなのだ。

我々の文化風土は、生と死の次元にすぐ政治的な問題が移ってしまう。いままで数々の屍体を葬ってきたからではなかろうか。死をもたらした大きな人為的事件には生を生み出す何かがあり、私の世代なんかは自分が連合赤軍事件の山岳ベースで生まれたのかもとか妄想するやつもいたであろう(私が実際そうだった)。このまえ、桐野夏生が似たような発想で小説書いていた。オウム事件に関してもそういう人いるにちがいない。むろん、こういう妄想に政治的な力はない。桐野の小説に、連合赤軍の行為にフェミニズム的な希望への反転をみる文学的願望があったとしても、あれでは、内戦事件をある意味弔ったことにしかなっていないではないか?

よって、我々は現実に無力な教師たちを笑えない。子どものとき、学校世界で仲間はずれと友だちになったことのないやつが「寄り添いたいです」とか言って教員になっても、そのさきどうなるかは明瞭だ。しかし、放置された武士たちの死体を埋めて弔うことしかできなかった農民たちの行為と、その無責任さは何処が違うのだ。多様性を実際に擁護したことのないやつが一番多様性が素晴らしいとか言うのは、自分を擁護し、仲間はずれをつくるためだ。かくして、仲良く出来そうな(コミュ力ありそうな)やつばかりを身の回りに配置し、結果、群れ上手な奴だけしかいないディストピアのなかに生きる。創造性は無論ないが、時々やってくるマレビトや怒りのあまり磔になるやつを利用して少し学ぶ。そもそも大学はいる年齢のときに自分の将来を宣言できる人間に可能性なんかあるわけないが、そもそも可能性を抑圧するとこに我々の生き方があったのだ。この様態は、まるである種のブリコラージュ、文学のつくりなのである。

先ほど、森祐香里氏の野間宏論を手掛かりに野間宏のいくつかを読み直したが、確かに彼は可能性を見出そうともがいていたことは確かだと思った。

罵倒を超えて

2025-03-19 23:48:39 | 文学


「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。


――太宰治「グッド・バイ」


だれかもう研究しているんだと思うが、文芸作品における罵詈雑言、下品な批判の歴史というもの、いかにもマッチョなうんこみたいな歴史になりそうで暇ならやってみたいものだ。指嗾とか魔術とか言っていかにも神秘的なオーラを出しているような煙幕を張っているが、その実、「お前は大馬鹿野郎だ」と言われている気がするし、今度は自分も言ってみたいと思わせるのが小林秀雄であった。人は、そうやって生み出された批評家たちに、小林の模倣、つまり自意識をも読み取るであろう。デビューから老人の繰り言みたいな感じだった小林を除けば、若手というものは大概――そういえば、最近の若手の批評家も、コンスタティブ?なわかりやすい?AIみたいな文章を書くので批判されている。そして本人たちも小林秀雄やその末裔たちの自意識過剰を相対化するみたいな意識があるのかも知れないが、むかしから小林秀雄ばっかりいたわけじゃなくて、たいがいはわかりやすいかしこまった批評なのである。

糞も小便も、人生には実在する事実である。これをもって実在するからおれは糞を愛す、と称して糞をつかむ奴はあるまい。

――杉山平助「批評の批評の批評」


杉山平助は、小林秀雄がブラームスなら、ロットやマーラーみたいな感情表現で、批評が批評に対する批評でありながら感情が乱れない。上の罵倒は昭和9年で、まだ杉山の罵倒のリズムには乱れない自由があった。対して、自由がない罵倒がある。花田が「赤ずきん」でからかった類いである。上の自由はやはりうんこを物質として扱っているからであった。この前、男が産むのはうんこだけ、というコールが話題になっていた。むろんこれは「男=糞」を仄めかしているのが肝であったが、だからこそ、男の糞という実在物から離れてしまった。だいたい、生まれたての子どものほうも、正直なところほぼうんこ製造器とも言うべきものであって、子どももうんこも、遠くから観れば似たようなものなのである。フェミニズムの本懐は、男の偽善や責任観念や国家や生産や「人間」のもろもろの善などが男っぽく造られていることを重要視してそれを崩壊させることであった。すると、みずからの権利運動も一部掘り崩すことになり、戦略的にはわりと単純な善悪観念に頼らざるを得ない。その際に、運動がどのような表現を使ってしまうべきなのかが、大きな問題として立ちはだかる。結局、花田清輝や村上春樹なんかも突き当たったところなのである。善意があるからといって、それが簡単に表現できると思ってもらってはこまる。「文学」を学ぶべし。デリダなんかもそういう「文学」に頼っていると言われて批判されたことがあった気がする。フェミニストのある者にとっては、文学にとどまっていてはそれこそ構築主義的な循環に陥ることを座視することに他ならなかったであろう。しかし、理屈はそうでも、現実の運動は文学を超克できるほどレベルが常に高いのであろうか?我々は自分たちをもっと馬鹿だとはじめからみなしていなければならないとおもうのだ。

男的近代文学もルソーのはじめから糞忌々しい表現によって人を惹きつけてきた。ルソーの「告白」はほんと自分もルソーなみにおかしな奴ですということを告白したくなる性質があっておそろしい。この前読んだヴァンス副大統領の自伝にそれはない。いや、人によってはあるのかもしれんが。。。ルソーに影響を受けたでもあろう藤村の「夜明け前」もすごいんだが、彼は「春」や「新生」みたいなものであれしたからなのか、まじめくさりすぎている。発狂しているおやじを傍らにルソーの「新エロイーズ」みたいな話が進んで行くべきで、後輩たちが糞真面目になりすぎたのもこの小説の影響がある。発狂も出来ずに単に糞真面目になった後発世代の親父たちは、「超克」とか言い始めた。どこをいつの時点でどう超えるのだ?ルソーの子ども時代の忌々しい性体験の時点か?藤村の「初恋」の時点であろうか?

過去と現実

2025-03-18 23:51:21 | 文学


 王さまはふたりを裁判所につれてこさせました。そこで、ふたりに罪がいいわたされました。
 むすめのほうは森のなかにつれていかれ、おそろしいけもののために八つざきにされてしまいました。
 魔法使いの女のほうは、火のなかへねかされて、みるもむざんに焼け死んでしまいました。そして、この女がもえて灰になったとき、あの子ジカはもとの人間のすがたにもどりました。
 妹とにいさんとは、それからこの世をさる日まで、しあわせにいっしょにくらしました。


――グリム「にいさんと妹」(矢崎源九郎訳)


いしだあゆみ氏が亡くなった。おとなになったら、いしだあゆみや寅さんの妹さんみたいなひとと会えると思っていた当時の子どもは多いんだと思うが、いざ大人になってみると、会うのは映画のそれよりも甲斐性がない女寅さんみたいなやつばかりで、自分もそうだからやってられん。思うに、我々にとっての母の世代の歌手(女優)たちは、どことなく端唄や長唄をうなりそうな雰囲気を持っていた。まだ彼岸の人という感じである。我々が小市民をやっている限り、いっこうに彼らに会わないのは当然のことだ。

ネット上にある木曽の宿場の素晴らしい写真を数々を見るに、――わしの小さい頃はこんなじゃなかったナア木曽は過去に向かって成長しているナと思わざるを得ないが、AIで加工する以前に実物が過去に向かって加工=成長すれば問題がないことが証明されたといへよう。わたしの小さい頃は、木曽の中山道はまだ舗装されてないところがたくさんあったし、うちの婆さんは昼間も和装、親たちは和装で寝てたし、赤ん坊の私も和装の写真が残っている。そういう風景はいまは消滅したのであろう、代わりに建物だけ江戸風になっている。この矛盾は、たいしたことがないと思われるかも知れないが、そうではないと思う。我々は簡単に環境に合わせて進化するからだ。ヨーロッパなんかが伝統を守っている(というか、ギリシャローマの幻影につきまとわれている)のは、建物を壊さないからであろう。我々だって、文化に於いて簡単に江戸以前に戻っている。源氏物語や平家をつかって、我々の心性をかんがえる文化人は、フロイトがやたらギリシャを召喚しているのとかわらない。あり得ないことだが、もっと西洋は自らを破壊し自殺すべきだったのである。

我が国の場合、破壊されたあとの「戦後」はどのようなものだったのであろう?三島由紀夫は石原慎太郎の「太陽の季節」の青年たちは葉山あたりには珍しくない人種なんだと言っていた(「石原慎太郎」)が、たしかにそう見えるやつはいまでも結構多い気がする。青春は客観的には明瞭で堅固なところがある。そこに不安とか葛藤だとかを無理やり読み込もうとして失敗するのは文士とか学校の先生だったのに、いま社会全体がその失敗を合理化しようとして迷走している。石原の描く青年なんかはリアリズムにすぎなかったのだが、これを新たな病理ととった人が多すぎた。その病理を直すと、想像上の伝統的な道徳的日本人がまた仮構されるだけであった。

石原の小説がむしろ反になりきれない「肉体文学」の一種であったこともあまり重視されなかった。三島由紀夫が言うように、坂口安吾や田中英光、太宰治などは自分の頑強な肉体への敵意があったと思う。精神が肉体に負けるような感覚があったのだ。案外、清原氏なんかも、肉体はすごいけどもうすこし頭がよかったらとか言われて(自分でも言ってた)、肉体改造したりウったりしたのはそれと関係あるようなきがしてならない。石原の場合はその逆ではなかったが、そこそこ精神を研ぎ澄ましているつもりだったのかもしれない。それを「政治」で実現しようと思った。彼はその意味で「中道」なのであろう。

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ我が衣では露にぬれつつ

どの程度の「露にぬれつつ」なのかがなんとなく分かるわれわれを石原は信頼しすぎてそれが保守だと思っていた。もっと我々はバカで肉体もそれほど強くない。露に濡れれば風邪をひく。

人間と構造をめぐるエトセトラ

2025-03-17 23:16:22 | 文学


中納言殿に来て、おとどに「かうかうなむ宣へる」とて、この包める物を北の方に奉れば、「あやしう、覚えなう」とて引きあけて見るに、おのが箱なり。落窪の君に取らせしにこそあめれと見るに、いかなることならむと思ひ、肝心も騒ぐに、まして底に書けりける物を見るに、むげに落窪の君の手なれば、目も口も、はだかりぬ。この年ごろは、いみじき恥をのみ見せつるは、くやつのするなりけりと思ふに、ねたう、いみじきこと、二つなしとは世の常なり。一殿の内、ゆすり満ちて、ののしる。
 おとど、家取られて、いみじき仇敵と思ひし心ち、わが子のしたるなりけりと思ふに、罪なく、さきざきの恥も思ひ消えて、「子どもの中に、さいはひありけるものを、何しにおろかに思ひけむ。かの家は、この人の母の家にて、ことわりなりけり」と、言ひいます。


ついに衛門督の北の方が落窪の姫であったと判明、――継母の北の方が「ねたう、いみじきこと、二つなしとは世の常なり。一殿の内、ゆすり満ちて、ののしる。」と、この世が壊れんばかり、「屋敷」が震動するほど怒り狂っているのにたいし、父親の方は、「家」が取られた怨みは「自分の子だからしょうがない」としぼんでいる。この家屋に対する対比はおもしろく、北の方はとにかく家を動かし空間を動かすのが好きなのだ。わたしたちが育てた草木は取り戻せ、みたいなことをこの後で言うのも、なにかこう、草木の変化への嗜好がある気がする。後妻としてはとにかく変化を認める生きかたをしているのかも知れない。あちらは天皇の血を引く盤石な姫である。その姫がまた盤石に、自分の住まいを奪って、そうなろうとしているのである。――しかしこういう暴れん坊の動き自体にも「人間」としての意味がある。日本の政治家なんかも、この北の方に似ている。平安朝の政治家たちだって、大して違っていたとは思えない。中納言がおとなしいオヤジだからそうは見えないだけで、男で北の方みたいな奴が多かったはずだ。そういう「人間」が「窪」とか「家」とかの構造を転覆しようとあがいている。

日本の地方の政治家のやりたい放題を仄聞するに、われわれはやくざをわざわざ自分たちの代表にして悪事を公認していると言わざるを得ない。まずは、それは選挙で選んでいるという意味での公認ではあるのだが、世に常識というものはあるから、あからさまな悪事をやればさすがに世間が許さない。だから、法に従う公務員の仕事上の手続きによって無理やり行為が公認させられている。その手続きにはかなり嘘が混じっているけれども手続きが取られた後だとかなり見えにくい。公務員だってサスガにこれはどうなんだろうと思うこともあるにきまっているが、躊躇っていると、どこからか脅迫があったりするのである。映画のはなしではない。

こういう脅迫は、別に構造やら重層的決定やらスキーマやらの難しいものではなく、単なるジャイアン問題である。小さい頃から、ジャイアンの言うことをきかされていると公務員たちがはじめから諦めてしまっているにすぎない。ジャイアンの言うことをきかされるというのにはいまは幅がある。直接に罵詈雑言で下僕みたいに扱われるみたいなことから、先生がジャイアンの気持ちを丁寧に聞いたり(ほんとにそれだけ出来るのかは分からんが――)して、結句、被害者の失望をよそにジャイアンには罰が下されないみたいなところまでを含んでいる。かくして、ジャイアンに抵抗できないというのはむかしよりも当然のことになってしまった。最後の砦は先生だったと思う。で、ここが重要なのだが、先生は大概は公務員である。公務員(国家)が強い者に屈服しているのを子どもに見せるのはきわめてよくない。――しかも、その悪事が、それにしても見過ごされすぎてしまうのは、たいがい目的に町おこしとか**振興とかが掲げられていて、みんなで生きるために悪事も少々必要かとか多くの人が諦めているからでもあるが、その町おこし・振興策とやらが効果があったかなかったかなんてほとんど証明されたことはないし、もともとできるわけがない。学者の論文数でそのひとの学者としての本質をはかるような非本質的なやりかた、――たとえばの人が集まった数でとかで計測するぐらいしか出来ない。

それにしても、数を数えるのなんかは、構造的な把握の中では一番幼稚であるにせよ、――我々はやたら問題を科学的に把握しようとして、構造や社会の側から人間社会を見過ぎている。ジャイアンは「人間」であり、構造の一部ではない。そのつもりでいかないと人間は見出せないし動かないのはなかろうか。

坂口安吾が書いていた(「反スタイル論」)が、荒正人は、女中とか家族にヒロポンを打たせて家庭(家事)の効率を上げるみたいなことをしてた、と。ほんとかどうか知らないけど、荒正人ってほんとそういうとこあるわけである。無頼派よりもよほどこういうタイプの正義の味方みたいなやつのほうが悪人なのである。ただ、安吾にしても荒にしても、ヒロポンを打って人間を変化させようとあがいているだけで卑怯ではない。野間宏を読んでいて思うのだが、ほんと当時の「肉体文学」の意義をわたくしは舐めてたと思う。「肉体は濡れて」みたいなのを貶した共産党と私は瓜二つであった。大江健三郎なんかが、「遅れてきた青年」でひどい閨房=檻房の描写から入ったとしてもなんか貫禄があるのは、戦後文学の「肉体」の残響でもあったからかもしれない。しかも、野間の接吻の描写の方が朗読してみるとかなり笑える。これを無駄な害悪とみた左翼はまことにセンスが狂っていると言わざるを得ない。しかし野間の方も、そこにとどまらずすぐに普遍性とか言い始める癖がある。が、まだ癖らしいからよいではないか。

清水高志氏がXで、柄谷行人は禁煙とか言ってないでヒロポンでも打ったらもっといいのがかけたかもと言っておられたが、確かにそれはいえる。柄谷氏の「私」はその「空性」みたいなのに拘り過ぎている。氏の評論はもう一つの「人間失格」なのである。「トランスクリティーク」ではなく、「トランスクリニック」になったとしても、病みの道を進むべきであった。「探究Ⅲ」を書き始めていたあたりで打っていたらまじめに「霊界との交換様式」みたいなの書いていたかも知れまない。おそらく、中年の危機で、ある種の「常識」に帰っていたところがある。その影響で、彼の読者も、常識人化した。例えば、柄谷のコミュニケーションの定義――「命がけの飛躍」とやや対照的な観察、「教える者こそが学ぶ者の奴隷である」的な言い方は、発表された当時はぎりぎりアイロニカルな意味合いを伴って面白く感じる可能性もあった。現場の教師なんかにとってはその逆説は常識で、しかも「明言したら現場のコモンセンスを崩壊させる危険な自明の理」だったからだ。しかしすぐにそうではなくなって原理がそうなんだからそうすべきみたいな覚醒を柄谷を読んで起こすような連中が出てきた。柄谷を読んでポストコロニアリズムやり始める奴はまだ羞恥心があった方で、あからさまに、カノンを殊更発掘して世の中を単純化して支配するボスザルになるための方法を、結果的に読んでいるやつもいたくらいだ。本人はそう思っていないだろうが、実際かなりいる。――柄谷の弟子筋と言ってもよい王寺賢太氏がXで、柄谷の論理は今の「スチューデント・コンシュメリズム(学生様はお客様です)に席巻される現在の大学の論理そのもの」だ、と言うのは当然なのである。柄谷はアイロニカルに言っただけで、教育に対するそのコミュニケーションに還元してしまう認識それ自体は、「明言してもよい」認識になりつつあったに過ぎなかったということだ。東浩紀氏なんかがまだよかったのは、彼が「オタク」という決して明瞭にならない病みとともにある道を選んだからである。

あまりに機械的な

2025-03-16 23:04:42 | 思想


クラウゼヴィッツにとって、政治的国家はすでに「徹底砲撃を防げる非伝導体性ミリュー」だった。こうした定式のうちには軍事階級の野心の性格が完璧なまでに現れており、核状況が投射されている……。 「ボナパルト(将軍/国家元首)とともに、戦争は一分も無駄にすることなく遂行され、 反撃は間断なく行われるようになっていた。こうした現象が、我々を、厳密な演繹による戦争の本源的概念に連れ戻すのは当然ではなかろうか」。力学的効率が国家機械の原理的性質であり、速度術的進歩の最終段階たる核国家は、戦略計算機によって概念の統一性を保証する。この究極の戦争機械と向かい合い、それに臨検を受けつつ、最後の軍事プロレタリアートが立っている。消滅した軍の最高指導者、共和国大統領の、意志なき身体が。 大統領の身体は二つの砲火の間の旧徴集兵たちの身体に似ている。彼の最後の動作は、今もって突撃なのだ。

――ポール・ヴィリリオ『速度と政治』(市田良彦訳)


トランプなんかはもはや上のような「意志なき身体」であり「軍事プロレタリアート」だと言ってよいかも知れない。我々は、かくも大統領が人間でなくなるとは思ってもいなかったような気がするが、気がするだけである。大リーグのチームと日本のプロたちの試合にも人間の闘いはない。もともと野球にはそういう「戦争機械」になりかねない予感をもたせるものがあった。あまりにもボールが――弾丸のように――速く飛びすぎるからだ。プロ野球が興業だから乱闘があったのではない。あれは、人間としての「最後のプロレタリアート」の「突撃」の姿だったのであろう。第一次星野ドラゴンズといまのドジャースやらせて、死球合戦、乱闘で、オキュペイドジャパンを上演すべし。しかし、もはや我々の世界は、そういう想像も不可能なほど、戦争機械の世界である。オキュペイドされる国もする国もない。それはすべて機械的プロセスである。トランプはそれをディールと言っているだけだろう。

落合博満氏のチャンネルで知ったのだが――、落合氏が使っていたバット=アオダモの木はいまはあまり使われなくなっていて、なぜかというと手に入らなくなっているからだという。しかし、理由は根本的な枯渇ではなくて、木自体はいまでも北海道には生えてるみたいなのだが、国有林化とか切り出してくる人たちの高齢化とかが関係しているらしい。で、アメリカの素材の木が多く使われるようになったと。そういう意味でも、日本のプロ野球も、人間の意図を越えた理由でもはや「日本産」ではなくなっているのであった。大谷を観ても思うのだが、バットが軽くなるとこんどはバッターの肉体のほうがより強力なマシンになる必要がでてくるのだと思う。AIでかんたんな情報の整理や図式化にたいする負担が軽くなると、われわれが益々高度な思考マシンにならなければならないのと事態は似ている。

三島由紀夫はたぶん、そんな事情をよく分かっていた。だから人間の意図として機械的肉体となり、機械としての集団(軍隊)を私設した。その意味では。のんさん主演の『私にふさわしいホテル』という映画が良かった。のんさん演じる若い小説家が大御所の小説家に三島由紀夫の檄文のいたずら電話をかけるところがすごい。そういえば、のん(能年玲奈)という俳優、デビュー当時からどこかしらロボットみたいなところがあり、それが逆に人間らしく見える。そして三島由紀夫の檄文もサイボーグが喋ってみるみたいだったが、そんな側面を美事に浮かび上がらせていた。

そういえば、以前、大学院生に、ドゥルーズとフーコーを引用せずにレポートを書きましょう、と指示したことがあるが、かなり効果的だった。それだけで論証が稠密になる。ただこれは、大学生の初期にやるべきことではない。――かくも我々の思考は機械的である。

「思考」に任せておくとこうなるわけである。もはや機械的に変化させてしまうべきなのは、言葉のほうである。例えば、確定申告って、ほんと響きがかたいので「ぴょこぴょこうさぎ」とか「こころのお餅」とか「いやんもうおかねとっちゃいやん」みたいな名称に変えたらいかがであろうか。変身文化を生み出した戦後は、そういう試みを行っていた。

もうみんな言っていることだろうと思うが、手塚治虫のマンガのスピードって、転向を許さないスピードという感じがする。戦争機械よりも速いヒューマニズムというか。。それも、人間が擬人化した動物になってから人間へ再復帰したキャラクターによって。それは、動物的にブラッシュアップした人間である。それは転向しない。転向とは、転向後のプロセスを含んだものであって、それによって変身を防いでいる。例えば、本当はワークとライフなんか分かれてもいないしだからバランスなんかとりようがないのだが、そこでワークを鎗ながら内面としてのライフで右往左往するのが転向である。世の中、ただライフを棄てよ機械になれと言っているだけなのだから、さっさと変身して対抗したほうがよい。これが夢物語であるだけに、戦後は夢のようなかんじであった。ほんとは、夢が覚めてからのことも考えておくべきだったと我に返ってみたら、すみやかに地獄に墜ちることだけの速さがはますますいきがよい。

鍛錬場と自意識の世界

2025-03-15 23:43:01 | 思想


最も特色をなすのは、「日本的現實室」である。常連執筆者は一週最低五時間をこの室ですごさなければならない。ここには、尖端的な映寫設備と、立體音響設備と、各種の臭氣を發散する装置などがあり、中央に座蒲團が一つ置いてある。執筆者は義務として、その座蒲團の上に坐るのである。そして目の前に並んだ幾多のボタンの一つを押す。ボタンの一つには「日本的濕潤性」といふ名稱が書いてある。それを押すと、密室はたちまち、颱風の来る前のやうなじとじとした濕氣とむしあつさでいっぱいになり、まづ、何ともいへないいやらしい流行歌がきこえて来て、どこかで人のすすり泣く聲がし、やがて泣き聲は田舎の朝の鶏鳴のやうに、あちこちで競ひ立つてきこえるやうになる。すると、その泣き聲の一つ一つが分析されて畫面になつてあらはれ、母子の別れだの、親分子分の別れの盃だの、夫婦別れだの、戀人同士のすれちがひだの、數數の、えもいはれぬ悲しい光景を展開し、つひには一家心中の實況にいたる。 執筆者はあまりの實感に、「もうやめてくれ」と叫びたくなるが、責められに責められて耐へ抜くのが修行なのであるから、音を上げてはならない。やうやくこれが終り、次に「アジャ的停滯」といふボタンを押すと、まづ耐へがたい糞尿の臭氣が部屋いつぱいに立ちこめ、どんなに鼻をつまんでも防ぐことができない。やがてしづしづと、都大路をねり歩く牛車があらはれ、新型の自動車の列に悠々と追ひかれながら、その牛車の積んでゐる桶が示されるが、立體畫面でその桶のひとつが轉倒し、黄色い液體がザアッとこぼれてくる迫真性には、思はず頭をおほわずにはゐられない。

――三島由紀夫「個性の鍛錬場」


三島の「個性の鍛錬場」の後半は、文士たちが「日本的現実室」とか「日本の貧しさ」とかいうボタンを押すとそれを映像とか音響とか臭気発生装置などによって体験する部屋に籠もらなければならないみたいな「鍛錬場」が描かれていて、当時はありえなかったであろうが、現在ならあり得る。VRといかなくとも、youtubeなどを永遠に覗き込んでいる方々は、「個性の鍛錬場」に籠もっているようなものだ。三島の想定するのは才能ある文士たちの鍛錬であったであろうが、素人がこれをするとまさにみんな違ってみんないレベルの個性が叢生する次第である。いうまでもなく、それは個性と言わなくもよい。しかし、個性なんかないんだとはいえない。あるに決まっているからである。それ以上のことを何かを乗り越えた形で言い始めるとよくない。三島が提案する鍛錬による反発の方がまだましだ。

三島由紀夫は「楽屋で書かれた演劇論」で、フルトヴェングラーのことば、――「ワーグナーは芸術家だったから理想主義者ではなかったが、ニーチェは理想主義者だったからワーグナーを嫌った」を引用して、日本でも江戸時代まではこういう考えだったと言っていた。というわけで、独逸のほうは、日本の江戸時代の状態のまま敗戦を迎えたのかも知れないのである。日本は、その独逸精神を近代(もしくはそれを超えるものだ)とだと思っていたから、結局、未来に向けられたまなざしが江戸に逆行して行くのは時間の問題であったのかもしれない。

フォークソングの時代に「翼をください」という曲があった。あれは右翼と左翼が共闘すれば悲しみのない自由な空へイケるという感じじゃないだろうか。しかし、現在もたいがいどちらかだけだし、もっとひどいのになると、中道とか言うて、道しか歩かない気満々のやつが超克しました顔ででかい顔をし始める。せめて中道ではなく中論ではなかろうか。清水高志氏の最新研究に期待である。

発達障害の「発見」も何かを超克した顔をしているが、その実、それで見えなくなった部分も多いからむしろ後退である。実際、それによって新たな差別の方便となっている。自分は発達障害でみんなで協力するみたいな場面で何をしたらいいのか分からない、みたいなことがよくネット上でも歎かれているのだが、当たり前だが、協力すべきでない場面も結構あるのだ。そういうことがあまりにも言われなさ過ぎているのは、発達障害は現実に適応できないという観点が我々に立ちふさがっているからだ。小学校とか中学校でそんな馬鹿馬鹿しいことにノらなきゃいけないのかということは昔からあったが、気のせいなのか今のほうがひどく多い。「生きる力」とか「共感力」みたいなことが言われ出すのには確かに理由もあったが、だからといってそれへの対処法が常に正しいとは限らない。先生たちがそういう懐疑をみずからに向ける頭脳の余裕をなくしている。

こういう差別に組織経営の半端なコンサルティングとやらが合体すると最悪である。危機への対処のために平気で差別は仕方がないとみなし始めるのだ。ほんとなにそれ、そういう風にすべき理論でも存在してんの?というかんじである。危機に陥った組織はその構成メンバーがさぼっていたからだという論法、戦争末期とか戦後の総懺悔の時のあれである。で誰が言ったかというと、自分の失敗を隠すための何か言わなくちゃいけなかった輩だろう。いまでも確実にそうである。だいたい、広い意味で組織や社会に対して革命ではなく説教するたぐい――コンサルみたいな役割を担っている学問て、動機がだいたいルサンチマンなのである。だから自分はなにか体制への反抗者だと思っている。そのルサンチマンとは勉学に対する苦労から来ていて、ニコニコしながら実験したり思索をしているタイプが脳天気に見える。で、時代遅れ(あるいは発達障害)とかなんとかいって攻撃するわけである。以前、戦争に進んだ理由はたくさんあるけど、ひとつはそういうルサンチマンの持ち主が学生が増えることでけっこうな勢力になってしまったというのが確実にあるようなきがする。いまもそうだから。

例えば、カーツワイルのシンギュラリティが「AIが人間を超える」という、これまた「超克」思想の一種なのは、この考え方が自意識(ルサンチマン)と繋がっていることを示している。AIを人格みたいに捉えて勉強で勝とうみたいな自意識の連中がいるのだ。確かに、機械的暗記とか学習をAIが代替すべき局面はあるし、人間もその強いられた学習の機械性をいやがっているから、みたいな意見には一理あるが、学校の勉強に限らず、知識の整理整頓や問題を解くみたいな作業には、ある種の人間的な快感があるのである。当然、社会の中の事務仕事にもある、というか多くの仕事にある。それ以外に人間的なものが存在すべきという感覚は分からなくはないが、人間はそういう単純に自由な動物ではないと思う。脳が発達してしまったためにか?高度な単純労働が好きな側面があるのだ。基本、研究も教育もそうで、機械的な作業の習慣がついている奴、機械的作業を行わせる教育者だけが、その帰趨として自由みたいな地点にたどり着く。これにたえられない人間がルサンチマンを抱いて、AIを片手に脅しをかけているわけである。

こういう自意識の政治が行われている一方で、単に差別的でヤクザな世界というものはある。先頃、アフリカから来た礼儀正しいバイトのお兄さんがいたコンビニがつぶれたので、次に家に近いコンビニに行ったら70ぐらいの日本人女性がバイトやってるコンビニで、まだ「コンビニ人間」の設定は牧歌的だったのではないかと思った。官僚的な世界に限っても、社会保障とか教育の現場の一部ではあと一万円になっちゃった、あと5000円になっちゃったみたいな話題で頭を抱えているのだが、一方では元税金のすごい金が動く分野があり、そこに群がって沸いてくる人間はレベルが違う。悪い意味で。もうそういうところででてくるエピソードというのはほんと週刊誌の記事かよみたいなものがある。アカデミシャンはしばしば週刊誌の記事は盛っているとはじめから決めつけがちなのであるが、むしろ抑制されている部分だってかなりある。そもそもみんないろんなことを見聞きしながら黙っているものだ。

秘書は金剛インコである

2025-03-14 23:47:58 | 文学


戌の時ばかり渡りたまふ。車十して、儀式めでたし。おりて見たまへば、げに寝殿は皆しつらひたり。屏風、几帳立て、みな畳敷きたり。見たまふに、げにいかに思ふらむと、いとほしけれど、北の方ねたしと思ひ知れとなりけり。女君は、おとどの思すらむことを、おしはかりたまふに、物の興もなく、いとほしきことを思ほす。男君は、「運びたらむ物、失ふな。たしかに返さむ」と宣ふ。

復讐はさまざまなかたちをとるので、にっくき中納言と北の方が歎けばそれでよいような気がするのであろうが、だいたいこういうときには、文字通り「目にものを見せる」かたちになる。立派なモノ達の登場である。かんがえてみれば、落窪に姫さまを落とし込んだ時点でそれはかなり「目にものを見せる」やり方であって、加害者がかなり馬鹿であるというのは前提なのである。現代でも、物理的な厭がらせは馬鹿のやることと知れている。実際のいじめはもっと巧妙なものだ。

わたくしは、高校の時の古典の先生に、大事なのは「見えないものを見る力だ」と教わったが、この教師は惜しいことを言ったと思う。これでは、見えていない事態にたいして「目にもの見せる」やりかた、現代では「見える化」みたいなことが強力だということになりかねない。むしろ「見えないものを見えないままに見る力だ」と言わねばならない。

今日入ってきたニュースだと、「男が生めるのうんこだけ」というコールがあるフェミニスト?の集団によって発せられたらしいのであるが、まさに生産を「見えるもの」に限っている点で論外だ。そもそも私の場合、おしっこも生めるし、数年前のことであるが、尿管結石というものも生んだことがある。生めよ増やせよが論外なのは勿論であるが、うんこも子どもと同様、見えすぎるものに過ぎない。ただし、子どもの場合、その本体はほとんど見えないものである。最近、大学の体たらくをいつか小説に書いて欲しいとわたくしに言ってくる人がいるのであるが、冗談ではない。しかし、確かに、見えないものを見えないままに見る=描けるのは、文学ぐらいしかないのである。それは比喩を超越したやり方であるからだ。

見えないものの例のひとつは、たとえば、例の融即の法則みたいなものがそうかもしれない。見える化を至上命題とする正義の味方は、秘書がやりましたというのを汚い言い訳と見做す。しかし、それは見えすぎる真実にすぎない。彼らのいう秘書とは「金剛インコ」であって、秘書がやりましたというのは融即的にアタイがやりましたと言っているのである。これにたいして石破首相の場合は、素直に自分がやりましたと言っているので却って危険である。こういう人は、過去の私、もう一人の私とかいうて分裂して行くタイプである。高市氏なんかになると、今日の『大阪スポーツ』の一面に書いてあったが、「地球外生命体認めた」んだそうである。たぶん「金剛インコ」どころではなく、「地球外生命体」にまで融即の法則が及ぶ人もいるのだ。

そういえば、今年度の授業で扱った「推し活」現象であるが、これは「推す」相手に贈与することで攻め込む代わりにみずからがいちはやく「金剛インコ」になる競争である。モースの「贈与論」でいえば、ポトラッチ――首長たちが自分が破滅するまで贈与をしてみずからの権威を高めるようとする競争的贈与である。「推し活」は、推しがやりましたの代わりに私が贈りました、と言っているのであった。

死を抑圧しない大学

2025-03-13 23:43:04 | 文学


衛門の督の殿には、渡りたまはむとて、女房に装束一具づつして賜へば、ほどなく今めかしう、うれしと思ひけり。中納言殿には、物をだに運び返しに人やりたまへど、「さらに入れだに入れず」など言へば、北の方、手を打ち、ねたがる。「いかばかりの仇敵にて衛門の督あれば、わが肝心も惑はすらむ」と、まどふ。越前の守「今はかひなし。『物だに運び返さむ』と申せば、『早うそれは取られよ』とは、なだらかに宣はど、人々さらに入れねば。いさかふべきことにしあらぬば」。たけきこととは、集まりて、のろふ。

呪いが土地に憑く、とはこういう情況をいうのであろうか。それは冗談としても、地券を持っている持ってないでこれほどのことが起こるのは当然であるようであるのに、中納言家はあまりに迂闊である。むかしから、その土地の持ち主は誰かみたいな問題で人が殺されたりしているわけであるが、現代だって似たようなものである。それが暴力で解決しないように、厳しい税金と煩雑な手続きが課されているのが現代であるが、人間がこういうことにずっとたえられるのかどうかは、分からないと思う。

ずっとトレンドになっているコミュニケーション能力とやらは、相手に柔らかくも厳しくも攻め込むような能力であって、仲良い友だちをつくる能力とも優しさとも観察能力とも違う。近いのは、証拠を挙げて相手を説得する能力であろう。証拠(エビデンス)とは、必要な場合の武器に過ぎない。これは、物事を死に行く生=生活に即して「つくる」「常識」(戸坂潤)とは無縁の武器であって、――とたえば、アイデアを出せという奴はだいたいアイデアだしたことないし、出しても自分でやらずに逃げ、そして成功したら自分がやったと言い張る。これはその成功した物事が証拠だからだ。かんがえてみると、イザナギはそういうやつだったかもしれない。イザナミがおそらく神を生み出した疲労で死んだから、それを棄ててイザナミが生み出した様々な神を統べる生の立場を勝手に僭称する。この統制というのが、土地を奪う行為と極めて近似的であるのは言うまでもない。「国家」というものがそうである。

だいたい「生」の立場、「生産」の立場というのは「死」の隠蔽というきわめて欺瞞的な立場なのである。我々はこのことを生きのびるためにだかなんだかわからんが、簡単に忘れる。噂では、ある教★学部の新入生のガイタンスで「君たちは大学に入ったのではない。教員養成の専門学校に入ったのである」と言われ仰天した、という話を聞いた。まあそういうやばいところに教員志望のやつが果たしていくのかなと思うが、結構行くのだからよのなか佳く出来ている。大学とは死を抑圧しない場所であるべきだ。その死は、イザナミのような神を生み出すような事態であって、教員養成の専門学校とは生を統制するだけの生産の場所である。

コミュニケーション能力?であいつは出来るあいつは出来ない、みたいなことを陰口を言いあい、果ては学生を評論している集団は、群れとして醜悪という以上に、自分たちのコミュニケーション能力?が「人間の全体性」の長所だと思い込んでいるというのが最悪である。だから、一部突出した異形な能力や落ちこぼれを差別するのである。これは結果的には、偏差値エリートが全能感におぼれるのと同じ結果に陥っている。似たもの同士だからいがみ合っているに過ぎない。

生と死、あるいは脳と肛門

2025-03-12 23:20:16 | 思想


 ひそかに推測してみると、人間の生存の根源的不安を課題にした『不安の概念』におけるキェルケゴールと、すべての不安神経症の根源を〈母胎〉から離れることへの不安〉 に還元したフロイトは、どちらもヘーゲルのこういった考察からたくさん負っているような気がする。だがへーゲルのこういう考察は、自己幻想の内部構造に立ち入ろうとするとき問題になるだけだ。ここでヘーゲルの考察から拾いあげるものがあるとすれば 〈生誕〉の時期での自己幻想の共同幻想にたいする関係の原質が、胎生時の〈母〉と〈子〉の関係に還元されるため、すくなくとも生誕の瞬間の共同幻想は〈母〉という存在に象徴されることである。
 人間の〈生誕〉にあずかる共同幻想が 〈死〉にあずかる共同幻想と本質的にちがっているのは、前者が村落の共同幻想と〈家〉での男女のあいだの〈性〉を基盤にした対幻想の共同性の両極のあいだで、移行する構造をもつことである。そしておそらくは、これだけが人間の〈生誕〉と〈死〉を区別している本質的な差異であり、それ以外のちがいはみんな相対的なものにすぎない。
 このことは未開人の〈死〉と〈復活〉 の概念が、ほとんど等質に見做されていることからもわかる。かれらにとっては〈受胎〉、〈生誕〉、〈成年〉、〈婚姻〉、〈死〉は繰返される〈死〉と〈復活〉の交替であった。個体が生理的にはじめに 〈生誕〉し、生理的におわりに 〈死〉をむかえることは、〈生誕〉以前の世界と〈死〉以後の世界にたいしてはっきりした境界がなかった。『古事記』には〈死〉と〈生誕〉が、それほどべつの概念でなかったことを暗示する説話が語られている。


――「祭儀論」(『共同幻想論』)


『教行信証』読んでないから急ぎ読まねばと思うが、あまり時間がない。しかし親鸞とは文学をやるものにとって、交響曲第9番の如きものであって、あつかったらもう最後みたいなところがあるからよいのかもしれない。――いや、よくおもいだしてみれば案外生きのびるやつもいるようである。野間宏なんかたしかに生きのびた。もっとも、彼なんかはもうデビュー当時の「暗い絵」とか「顔の中の赤い月」なんかでももう生きながら死んでいると言えば言えるので信用できない。デビュー前の野間宏はイザナミのようなものであって、そこから逃げてきたイザナギが戦後の小説家としての彼であるのではなかろうか。

生も死もないんだ機械があるんだ(違うか)みたいなことを言っているドゥルーズなんかは『アンチ・オイディプス』で、次のように述べている。ちなみに、大学の私は、この革命的な書物において、この辺りで挫折した。

〈器官機械〉が〈源泉機械〉につながれる。ある機械は流れを発生させ、別の機械は流れを切断する。乳房はミルクを生産する機械であり、口はこの機械に連結される機械である。拒食症の口は、食べる機械、肛門機械、話す機械、呼吸する機械(喘息の発作)の間でためらっている。 こんなふうにひとはみんなちょっとした大工仕事をしては、それぞれに自分の小さな機械を組み立てているのだ。〈エネルギー機械〉に対して、〈器官機械〉があり、常に流れと切断がある。シュレーバー控訴院長は、尻の中に太陽光線をきらめかせる。これは太陽肛門である。

――宇野邦一訳


思うに、我々の身体とは、我々でないものまで機械として作動させることがある。そこにはスイッチなどがあり、肩書きなんかをもらうと、自分の身体を棄て組織でうんこを漏らそうとする。たしかにこれにくらべると、太陽肛門なんかはストイックさで清く正しいような気がしてくるほどだ。肩書きのスイッチが入ると、「誰にでも」命令を下せると思っているレベルの奴がなんでこんなにおおいのか、一見わけわからない。たとえば下部組織の人間だってただちにお前の部下ではないことすら忘れ、政治と官僚の関係も部署の違いも忘れる。しかし、違うのである。自分の脳で発した素晴らしいアイデアを、組織の肛門から排出しているだけなのだ。このとき、組織は死ぬが彼の脳だけは生きのびるようにみえる。しかしやはり組織は組織であって、食道と肛門だけでできているのではない。ちゃんと筋肉とか肺とかもある。

組織のなかにいると、強者と弱者の対立と言うより、肩書きで興奮した強者が、組織を支える動きが可能なある種の強者を奴隷としてつかうために、何もしない多数を奴隷でない右往左往するだけの群れとして放置しながら甘やかす場合さえあるのがわかる。外部から観ると、あたかも上の興奮した輩が勇敢な抵抗者に見えることがある。だから外から見ているだけではだめなのである。確かに、いろいろ外から見えることもあるだろうが。外からは、すべての動きがゆっくり自分勝手に総花的に見える。だから、もっと単一の食道と肛門しかないような美しい花を夢みる。この外の人とはだれかに似ている。先ほどの興奮した脳の人に似ているのである。

純粋姫様の周辺

2025-03-11 23:40:16 | 文学
 かかる物思ひに添へて、三条いとめでたく造り立てて、「六月に渡りなむ。ここにて、かくいみじき目を見るは、ここの悪しきかと、こころみむ」とて、御むすめども引き具していそぎたまふ。衛門聞きて、男君の臥したまへるほどに申す、「三条殿は、いとめでたく造り立てて、皆ひきゐて渡りたまふべかなり。故上の『ここ失はで住みたまへ。故大宮の、いとをかしうて住みたまひし所なれば、いとあはれになむおぼゆる』と、返す返す聞えおきたまひしものを、かく目に見す見す領じたまふよ。いかで領ぜさせ果てじ」と言へば、男君「券はありや」と宣へば、「いとたしかにてさぶらふ」。「さては、いとよく言ひつべかなり。渡らむ日を、たしかに案内してよ」と宣へば、女君「また、いかなることを、し出だしたまはむ。衛門こそけしからずなりにたれ。ただ言ひはやすやうに、いみじき御心を、言ふ」と怨みたまへば、衛門「何かけしからず侍らむ。道理なきことにも侍らばこそあらめ」と言へば、男君「物な申しそ。ここには心もおはせず、御なめあしき人は、『いとあはれなり』と宣へば」、「わが身さいなまるる。よし」とて笑ひたまへば、衛門心得て、「いかがは申すべき」とて立ちぬ。

道理なきことには正義の鉄拳をと息巻く人に対して、姫様は誰にでもお気の毒だと思ってしまうみたいである。今でも、殲滅せよみたいな正義派と寄り添い派の両方がいる。しかしこの二つは別に対立しているわけではなく、後者が前者のように振る舞ったり前者が後者のようなことを言い始めるのが屡々である。そのためにであろうか、大して細々描かれていない姫様が純粋な存在として想定されていなければならず、これは我々の文化で人間を超えたお姫様が屡々顕れるのと同様である。この純粋姫様の周りに憎しみや笑いが決定的な亀裂を生じさせずに生起する。姫様は天皇の血を引くものであった。



藤井清治の『光り輝く神の御支配』(昭19)である。まさに、この時代からやたら「見える化」をやりたがっていた証拠のひとつであろう。各自に与えられたる神性は努力によって真に顕現するらしいのであるが、ハイデガーと違って死の影がなく、この図の2頁後には、教育とは「育成」ではなく「化育」であり、その者を喜ばしめつつ行われなければならない――みたいな、現代の絶対的自己肯定感みたいなことまで言うている。だいたいこの「神」に関しては、彼の「世界平和樹立理念の提唱」(昭16)でも、宇宙とはアマテラスの身体だみたいなことを言うているところからして、「天皇陛下萬歳」みたいな崇拝とはストレートに繋がらない。しかし、同時に天皇が現存在として措定されないとこの論法はありえないようにみえる。そんな困難に感づいたある読者が、デジタルライブラリーの元になったこの本の表紙に、この議論は観念的で云々と疑念を殴り書きしていた。昭和12年の「全人類之指導原理大日本教 : 大日本国の真態・日本人と其本領」にも終わりのほうには、宇宙と人間の肉体と心の関係が図示されている。宇宙には、神界、霊界、幽界、現界があって、これが最初のほうから順に土台になってピラミッドのように重なりその最後に現界(肉体)が乗っている。そしてこのピラミッド全体が「こころ」である。つまり宇宙は心である。――というわけであるが、この図に、現にいる天皇とか幽霊とか不肖の人民とかがどこに位置づけられるのかわからないと同時に、心が肉体に従属した主観であるみたいな通念を転倒する勢いが、どことなく気合いありげにはみえる。これは復讐劇としての図式でもあったわけだ。

思うに、継子いじめや復讐劇も具体的にみえるが、それがそれだけでおわらない側面をあまり深く考えすぎると、上のような図式=空想に陥るのである。このような帰趨を我々は笑えない。官庁の世界のポンチ絵なんか、これと大差ないからだ。そういえば、与えられた個性が不可侵である(神性)という前提の元、「みんなちがってみんないい」が道徳化するとこんな感じになっているではないか。みんなの違いを全部記述してから言ってくれ、というやつである。逆に、キョンシー映画は「霊幻道士」という名前ついてたが、いま見るともはや人道映画にみえる。なぜかといえば、その「霊」とか「幻」がちゃんとぴょんぴょんとでてきて、人間の欲望と闘っているからである。宇宙とか霊界が出てこないのは重要である(すくなくとも一作目はそうだった記憶がある)。キョンシーと人間たちの暴力とは、人間の欲望の表れにすぎないところに笑いがある。これにくらべて、落窪の暴力と笑いは、慈悲と支配による平和に導かれる。これは人間の感情ではなく、何かそうしなければならない情動のせいである。むかし、ユーモア論というのがポストモダニズムのなかでも流行ったことがあったが、そのなかでフロイト的なヒューモアが、自己の解体みたいなものとセットのものとして持ち上げられたこともあった。要するに人間の行為の成長と関係づけられている(下手すると最近はこういうものでさえ、コミュニケーション能力らしい――)わけだが、もともとGalgenhumorは、実際の死刑台で放ってなんぼなのだ。みんなで仲良く放つものではない。ユーモラスな人間たちが、どのような情動に突き動かされているのかは、観察してみないと分からないのは当然だ。

そういえば、ニュー・マテリアリズムのカレン・バラッド『宇宙の途上で出会う』みたいな本は下手をすると、藤井清治みたいになるところがあるんじゃないだろうか。問題=物質(マター)とか、「こころのますがた」と何処が違うのだ。

欲望について

2025-03-10 23:16:42 | 文学


 人は肉慾、慾情の露骨な暴露を厭ふ。然しながら、それが真実人によつて愛せられるものであるなら、厭ふべき理由はない。
 我々は先づ遊ぶといふことが不健全なことでもなく、不真面目なことでもないといふことを身を以て考へてみる必要がある。私自身に就て云へば、私は遊びが人生の目的だとは断言することができない。然し、他の何物かゞ人生の目的であるといふことを断言する何等の確信をもつてゐない。もとより遊ぶといふことは退屈のシノニムであり、遊びによつて人は真実幸福であり得るよしもないのである。然しながら「遊びたい」といふことが人の欲求であることは事実で、そして、その欲求の実現が必ずしも人の真実の幸福をもたらさないといふだけのことだ。人の欲求するところ、常に必ずしも人を充すものではなく、多くは裏切るものであり、マノン侯爵夫人も決して幸福なる人間ではなかつた。無為の平穏幸福に比べれば、欲求をみたすことには幸福よりもむしろ多くの苦悩の方をもたらすだらう。その意味に於ては人は苦悩をもとめる動物であるかも知れない。


――坂口安吾「欲望について」


そういえば、このエッセイについてよく考えていなかったと言うこともあるけれども、――わたくしにとって、長年、実感がわかないにもほどがある問題でもあったが、なんかみんなが重要だと言うから欲望の問題について考えることにした。これによって、とにかく根本的なやる気がないということはどういうことなのか考えることになるであろう。

例えばわたくしは、ルイ・エモンの「白き処女地」が大好きであって、ここに描かれている欲望とは何だろうと時々空想する。これは映画化もされたが、文月今日子のマンガが結構よかった記憶がある。「大草原の小さな家」をいい話として受け取って育ってきてしまった私だからであろうか。カナダの仏蘭西人移民が恋をしながら森に沈潜していくはなしを、なにか自動的によい話として受け取っているのであろうか。森や農村の恋、ツルゲーネフの「あひゞき」や藤村の「初恋」をまじめに受け取りすぎているのであろうか。

情動・心・動物

2025-03-09 23:55:14 | 文学


よろしき人ならばこそ、もしやと言ひはべたらめ、ただ今の一の者、太政大臣も、この君にあへば、音もせぬ君ぞや。御妹、限りなく時めきたまふを持たまへり。わが御覚えばかりと思すらむ人、うちあふべくもあらず」など言ひて往ぬれば、かひなし。おりなむと思ひて、六人まで乗りたりければ、いと狭くて、身じろきもせず、苦しきこと、落窪の部屋に籠りたまへりしにも、まさるべし。[…]「北の方、このたびの御婿取りの恥ぢがましきことと、腹立ちたまふ。宿世にやおはしけむ、いつしかとやうに孕みたまへれば、心ちよげに見えたまふかし。北の方も思ひまつはれてなむ、いみじう誉めたまふめるものを。鼻こそ中にをかしげにてあるとこそ、言はるめれ」と宣へば、少納言「嘲弄し聞えさせたまへるなり。御鼻なむ、中にすぐれて見苦しうおはする。鼻うち仰ぎ、いららぎて、穴の大きなることは、左右に対建て、寝殿も造りつべく」など言へば、「いといみじきことかな。げに、いかにいみじうおぼえたまふらむ」など語らひたまふほどに、中将の君、内裏より、いといたう酔ひて、まかでたまへり。

車の中に閉じ込められた北の方たちは落窪の姫よりも苦しかったに違いないとか言ってみたり、鼻の穴に寝殿を建てられるとか言わせてみたりと、現代に生きていれば「箱男」でも書いたのではないかとも思われる「落窪物語」の作者である。うんこネタが有名な「落窪物語」であるが、そういえば、幼児は矢鱈段ボール箱とかに入りたがるものである。わたくしもそんなだった記憶があるが、やはり個体差がある。かまくらに頭をツッコみたがる同級生も全員ではなかった。――それはともかく、この物語の精神は幼児退行とでもいうものであったに違いない。

今日は情動論のトークセッションをオンラインで勉強しに行った。よく言われるように、情動が前個体的なものだとすると、いずれは個体になるのかもしれない。その前に上のように落ち窪んだり牛車に押し込められたり、鼻の穴に建物を建てたりするのであろうか?それとも我々は個体となってからその個体を広げて解体して行くのであろうか?ここに強い感情が伴うことは確かであるが、それが我々にとって欲動なのか情動なのかわからない。学生にパッションを要求する教師が多いし、そのためには自分がパッションを持っていないと感染しないとか言われることもあるが、この現象は情動の範疇なのであろうか?思うに、赤ん坊の泣き声を我々は蝉の鳴き声と一緒にすることができない。たぶん、情動の理論の底にはそんな感覚が横たわっている。

豹一はぱっと赧くなったきりで、物を言おうとすると体が震えた。呆れるほど自信のないおどおどした表情と、若い年で女を知りつくしている凄みをたたえた睫毛の長い眼で、じっと見据えていた。
 その夜、その女といっしょに千日前の寿司捨で寿司を食べ、五十銭で行けと交渉した自動車で女のアパートへ行った。商人コートの男に口説かれていたというただそれだけの理由で、「疳つりの半」へ復讐めいて、その女をものにした。自分から誘惑しておいて、お前はばかな女だと言ってきかせて、女をさげすみ、そして自分をもさげすんだ。女は友子といい、美貌だったが、心にも残らなかった。


織田作之助は表情を行為で解体し「心」ここにあらずの主人公たちをあたかも動物の感覚にまで還元しようとする如くであり、最後の場面の雨は蛙に降っているようなものかもしれない。しかし読者たちはここになんか「心」を感じる。同じイケメソの話でも、谷崎の「美男」と織田作之助の「雨」ではかなり違う。わたくしは後者がすきである。どうも、蛙のそれのように残った「心」に心を感じる昭和文学に惹かれている性もあるが、谷崎の主人公たちはもっとまともかたちで「人間」的に気が狂っているからである。

私は、教育家の口から、児童生徒の個性尊重の話を聞く度に、今日の教育の救はれないものに成つた理由を痛感します。教育と宗教とは、別物でありますけれども、少くとも宗教に似た心に立つた場合に限つて、訓育も智育も理想的に現れるのだと考へます。
この情熱がなくては、教授法も、教育学も、意味が失はれてまゐりませう。生徒、児童の個性を開発するものは、生徒児童の個性ではなくて、教育者の個性でなければなりません。


――折口信夫「新しい国語教育の方角」


思うに、折口は、教師にも児童生徒にも人間を感じていないのである。宗教に似た心によってなされる教育者の個性とは、蛙のような鋭さを持ったものだ。蛙が落ち窪んだところにいるのは自然に冬眠するからにである。これをポストヒューマンみたいに感じるのは我々が人間にまだ未練を持ちすぎて居るどころか、蛙を差別しているからに他ならない。

人間の組織の内部監査とかいわれるたびに、わたくしは、「アナコンダ」における、アナコンダの食道内部からの視点で飲まれた人間の頭がカメラに向かってくるB級映画最高の場面を思い出す。我々はいつもこのような奇妙なことをやっている。アナコンダの腹に入っていないのにどうしてアナコンダの食道が撮れるのであろう?

「私は勉強する学生よりも、学生運動をする学生の方が好きです」なんていってたのは、どこの誰だい? 大河内一男前総長だよ。それならそれで、愛する学生運動家の吊し上げを最後まで食らって死ねばいいじゃないか。それこそが男としての一貫性だ。言行一致だ。

――三島由紀夫「東大を動物園にしろ」


三島も蛙になりたかったくちである。最近、研究者のアスリート化がめちゃくちゃ進んでいるなというのが、日々の印象である。アスリート化は肉体組織の目的化=人間化である。安部公房がオタク化を予言したとすれば、三島由紀夫はアスリート化を予言的に実践して、しかも死んでみせた。かくして、アスリート化した研究者は健康になって永遠に三島に負け続ける。清原氏なんかは野球選手の三島由紀夫みたいなものだ。しかも現代医学で生きのびて、あとどうなるかを実践している模様である。三島を超えるのは清原氏を措いて他はなし。

ぐるっと線でそれを囲めば

2025-03-08 23:36:59 | 思想


たゞスターリンの人となり、スターリンの正体は、知れるものなら知りたいと思ふ。不思議な存在に対する好奇心のせゐか。彼は千八百七十九年に生れた筈である。私と同じ年である筈だ。同じだけの人の世を見て来た筈である。

――正宗白鳥『読書雑記』


トランプが暴れているせいで、露西亜と米国が似た国になったという感慨があちこちから洩れているが、安部公房や三島由紀夫みたいな人たちがむかしそういうこと言ってたのは勿論、多くの人々が結構言っていた訳で、――冷戦というのはそういう似たもの同士が対立したさまを示すことで真の対立を隠蔽しているのというの、(新)左翼の常識だったのではないだろうか。だいたい、第二次世界大戦終わったとき、この二国はグルだった訳で、で、言ってみりゃずっとグルだったわけで、中国(むかしは生意気な大日本帝国)が台頭してくりゃそりゃ元のように組むわなとしかいいようがない。

ロシアは世界に冠たる社会主義革命をまがりなりにもでっちあげた国であり、アメリカも同じような意味で民主主義から始めた国というのをでっち上げた国である。この思想系の国はところどころ、その思想を振り回す場面でその人間性を発揮する。我が国が絵とか文学で発揮するのと対照的である。例えば、むかし「ビバリーヒルズ高校白書」に、主人公の一人である金髪美少年のブランドンが「決まりは破られるためにある。違いますか」とか主張して、飲酒し卒業が危なくなった女友達を卒業させようと、同級生みんなでデモる場面があった。これは、校長や教頭、親の世代の――かつての学生運動を想起させる形で、ノスタルジックにえがかえてもいたわけであるが、しかし、このブランドンのこういう発想て、法や習慣は破られるためにあると言わんばかりのトランプとあまりかわらない。だいたいこの白人のお金持ちの子ども達は、グループ内で相手をとっかえひっかえ交際したり、妙に卒業後に起業とかしたりしている点、やつらは青春の典型ではなく、新たな偉大なアメリカの典型だったのである。ものすごく長いドラマで、その「高校」とか「青春」的な雰囲気を長引かせることで、そのことを隠蔽していた。

彼らは自由や青春を謳歌しながら、典型を押しつけてくるので、その典型を受容することが自由を体現しているような錯覚に陥った我々は、他のものが不自由にみえてしまう。子どものおもちゃのカタログとか観るとわたくしでさえ、男の子はダンプカーとか消防車にか興味がないのかよとか、女の子はキッチンとお洋服かよと思う。これらはおそらく、アメリカの五〇年代だかに輸入された何かである(イメージ)。そういえば、男の子の恐竜趣味がオタクと理系に、女の子の恋愛趣味が文系に強く導かれすぎているのはどうみても遺憾であるからして、――小1の教科書には、ダンプカーの女子が恐竜と子どもを作ってその子どもが医者やりながら恋愛小説を書き、最後兵十にうたれる話を載せるべきだと思うのである。すなわち、我々は、定期的に兵十にうたれる如きアナイアレイションを体験して、ごんのジェンダーなど問題にならない現実を見出すべきであった。我々の現実は、どちらかというと、典型による二分法による破滅の回避ばかりを選択させられてしまう。

夜のNHKのニュースで、Xで私が退職した本当の理由というハッシュタグでさまざまなセクハラの被害者の声が可視化されたと言っていた。ずっと言われてきているが、この論法は危険であり、テレビの制作者がXの声を真実だと思って右往左往しているの単にばからしい。そもそもセクハラが深刻なのは中居の件以前からだし、Xの声というのは「声」じゃなくて出力された「文字」なのだ。言うまでもなく、Xに書かれている文字としてのお気持ち的精度じゃ物事の実態はつかめないのであって、そこをきちんと取材などで問題が何処にあるのか研究するのがメディアの役割だったはずだ。よく言われるようにSNSの何が問題かというと、書き込みが吹き出しの中にある科白になってて、人物の思ったことが書かれているように感じられる。我々の「声」と感じられる本当の姿は、吹き出しの如く括りはないし、それ自体独立もしていない。にもかかわらず、ぐるっとそれを線で囲めば、価値がないものにも価値があるように感じられる効果すらあるわけである。額縁効果である。学校でよく使用されている「ワークシート」の効果もそれで、白いノートよりも格段に何か書いてみようという気になるかわりに、修正もそれ以上の思考の発展ものぞめない。これがノートテイクに取って代わってしまったのが深刻である。学級崩壊や発達障害に対する有効な手段として開発されたことがオルタナティブとしてかんがられてゆくのは理由もあったが、そもそも教育のプロセスが、旧弊として批判される際にものすごく単純化されて理解され、もともとの困難さや難しさが忘却された面がある。

それは教育界だけに限ったことではない。執拗なリアリズムが欠けているところで、旧を乗り越えるみたいなことをすれば、じぶん以外を蔑視してしまうような、頭の悪い研究者みたいに現代社会全体がなってしまうであろう。ある種の蔑視によって論文の大量生産て実際可能なのである。よく読めばリアリズムの深度に問題があるのが明らかなのだが、それが判明するのには時間がかかるので、本人もそれが判明したときには時代が変わったとか言えばいいと思っている。

善悪の判断は二分法のかたちをとり、それでよろしいのだが、だからといって、それを現実の仕組みの説明に使用するから、排除しかやることがなくなるのだ。そういうことが大変幼稚であることを告発するところから近代文学は出発している。むろん、彼らの認識にも二分が入り込み作品も混沌とする――プロレタリア文学なんかはその表れである――わけであるが、混沌すら経験しない連中よりはかなりましである。