ビウキャナン氏は、大いに賞讃して人口に関するマルサス氏の著作から次の如き有能な章句を引用しているが、それは私には、完全に彼れの反対論に答うる所あるものと思われる。『労働の価格は、その自然的水準を見出すに委ねられている時には、食料品の供給とそれに対する需要との間の、消費せられるべき分量と消費者数との間の、関係を示す所の、極めて重要な政治的晴雨計である。そして、偶発的事情を別として平均をとるならば、それは更に、人口に関し社会の欲求する所を明瞭に示すものである。換言すれば、現在の人口を正確に維持するためには、一結婚に対し幾何の子供が必要であろうと、労働の価格は、労働維持のための真実の財本の状態が静止的であるか、進歩的であるか、または退歩的であるかに従って、この数をちょうど維持するに足るか、またはそれ以上であるか、またはそれ以下であろう。しかしながらそれをかかる見解において考えることなく、吾々は、それをもって吾々が恣に引上げまたは引下げ得るもの、主として国王の治安判事に依存するものと、考えている。食料品の価格騰貴が供給に対して需要が余りに大なることを示している時に、労働者を以前と同一の境遇に置かんがために吾々は労働の価格を引上げる、換言すれば吾々は需要を増加する、そしてしかる後食料品の価格が引続き騰貴するのに大いに驚く。この場合に吾々の行為は、普通の晴雨計の水銀が暴風雨になっている時に、ある強制的圧力によってそれを快晴に引上げ、そしてしかる後に引続き降雨が続くのに大いに驚いているのと、極めて類似しているのである。』
――デイヴィド・リカアドウ「経済学及び課税の諸原理」(吉田秀夫訳)
村木道彦氏が有名な「ノンポリティカル・ペーソス」でたしか、自分は自閉症的に生を嗅ぐんだ、みたいな言い方をしていたと思うが、いまや病名が比喩的機能を失ってこまっているというのはあるであろう。で、困ったあげくに多くの文人気質たちがイデオロギー的になるというのはあるとおもう。
死と生についても、互いが互いを比喩のようにみていた。金子平吉(金子雪齋)なんか、中野正剛に、政治家は公のために餓死して当然さすれば国賓だみたいな説教をしたらしい(『魂を吐く』)。プロレタリアートの戦いが崇高化されるのもこういう土壌があってこそだったにちがいない。死が生であるからこそ、我々は立ち上がる。しかし、死が無限に未来に引き延ばされて生と関係ないかんじになってくると生そのものが衰弱するのである。
相手に勝つことに長けた人は、社会の運営もそのモードでやってしまうことがあるように思う。社会の運営というのはむしろみんなで負けることなのである。この逆説が理解出来ないひとが暴力的になっていずれ来る負けを引き寄せる。組織の運営なんかも、勝ちのこるために卑怯なことはしてもしょうがないみたいなセンスが繁茂しているわけだが、その姿勢によって、その主体的行為=運営自体が崩壊、――勝ち負け以前に崩壊するのは必然である。おそらく、いま一部が善意で背負っている過剰労働をする気がない、人にも自分にも優しい世代が組織の中心になってそれが加速する。その優しさは、それが及ばない外部を従えるために暴力を発動させる。これはそういうものと決まっているのである。
そのような暴力に対抗する暴力をいかに考えるか思考した哲学者に廣松渉がいるが、――だからこのひとにはまる人は結構多いのであるが、わたくしが学んだことと言えば、論を確実にゆっくりにするときに使える漢語の言い回しだ。いま具体的に出てこないほど影響を受けている(受けてない)。彼のおかげで、漢文の文化は西洋哲学の飜訳的世界に残ったが、一方で勝手な大和言葉信仰へのスライドも人によっては早めたのである。
そういえば、デジタルコレクションを愛用しているけれども、そもそも活版印刷の本になれた我々のような人種は活字が立っていないと読めた感じがしない。デジタルコレクションの場合は今の印刷よりも更にぼやっとしている。活字は一度死んで更に死ぬのであった。そして広く読まれるのであった。