「高天原と天界は、至大なる一形式を備えたる一個人である。…人間もまた天界の模型であり、小天地である…」
(霊界物語 第48巻西王母)
出口聖師は、天使に導かれて見聞した、この天界の有り様を移写として地上に降ろすべく、綾部、亀岡の聖地を造営しました。
それは地の高天原にして、天の高天原の型であったのです。
大本に有った事は日本に移写し、日本に有った事は世界に移写す…
全く常識では理解出来ませんが、あたかも池に石を投じたら、いつの間にか世界的規模の大波紋になってしまうようなメカニズムによる地上天国形成の見とりです。
ただ現実にそのように展開したかと言うと…話は別です。
この事は何より、その後の出口聖師と大本教団を待ち受けていた悲劇的な運命が物語っています。
そうです。昭和10年の官憲による大弾圧です。
大正10年にもありましたが、この時ばかりはケタが違いました。
綾部、亀岡の聖地は何発ものダイナマイトにより破壊しつくされてしまいました。
私はこの事件を初めて知った当初は、普通の人なら誰しも考えるように、「奇抜な事をし過ぎた一宗教が国家権力に屈した」という印象しか持っていませんでした。
ところが、これについて知れば、知るほど驚愕の事実が明らかになります!
「この日本史上最大の弾圧事件は、出口聖師自ら仕組んだ!」
より正確に言うなら聖師は、あえて官憲が手を下すべく、あの手この手の挑発的パフォーマンスを演じ続けたのです。
では、それは何のため?…検挙された関係者には死者までいたと言うのに…
真偽のほどは分かりませんが、それは簡単に語りつくせない、否未だ解明されていない密意が何重にもあるようです。
今はその一つに焦点を当ててみます。
それは宗教を終わらせるという型だった…。
御存知かと思いますが、大本は、特に戦後急速に発展した新宗教の大本でもあった訳で、それを聞いて怪訝に思われる方もおられるかも分かりません。
でもその事は聖師の「宗教が無くならないと、ミロクの世は来ない!」という言葉から伺うことが出来ます。
聖師が伝える天界の消息に見る、大神人ともいうべき普遍的共同体と現実世界の宗教ーこれにはほとんど例外は無いと言っていいかも知れませんがーには全く相容れるところが無い、大きな相違点が有ります。
天界に見るそれは個々の存在はそれ自体独立した単体であるが、地上の宗教にあっては個々は全体から観れば従属物であり、部品のようであるという点です。
私が垣間見た世界は天界であったのか、現界、いや幻界であったのか知りません。私は霊能者でなく、ただの人間ですから…
これはしかし言葉にするとなると…誰か代弁してくれないでしょうか…
大いなる命とのつながり、調和…こうしたものを実感させるものは、私だけにしか与えられていない至聖所を通してだった…
矛盾した表現かも知れませんが、自己に与えられた天国に触れれば、触れるほどそれは鮮明になっていくようなのです。
小天国は大天国と相即しているのです。
この私というのは、言うまでも無く何野誰兵得という個人ではありません。
純粋意識の主体と言ったらいいのでしょうか?
真の自己実現は、個に留まることは無く、個的にして普遍的なものに結びつく!
多くの宗教信者が結びついているのは、特有の教祖的人間、教典、教義等々であり、個々は一括りの信者の内の一部と観なされます。
天国の型であった大本はどうだったでしょうか?
推測ですが、大方は「出口大先生に信従」というものだったのではないでしょうか?
それも宗教の型示しとしては、ごく自然な有り様だったと思います。
でもそれは、本当の天国の型を表すために備えられた影?の型であった…。
天国の写しには特定の教祖も大先生も居ないでしょう…。
怪物、日本史上最大の予言者と言われた出口聖師。大化け物で中々正体は見えにくいですが、この言葉は本音だったと思います。
「余は人である。神様扱いは迷惑である」
(霊界物語 第48巻西王母)
出口聖師は、天使に導かれて見聞した、この天界の有り様を移写として地上に降ろすべく、綾部、亀岡の聖地を造営しました。
それは地の高天原にして、天の高天原の型であったのです。
大本に有った事は日本に移写し、日本に有った事は世界に移写す…
全く常識では理解出来ませんが、あたかも池に石を投じたら、いつの間にか世界的規模の大波紋になってしまうようなメカニズムによる地上天国形成の見とりです。
ただ現実にそのように展開したかと言うと…話は別です。
この事は何より、その後の出口聖師と大本教団を待ち受けていた悲劇的な運命が物語っています。
そうです。昭和10年の官憲による大弾圧です。
大正10年にもありましたが、この時ばかりはケタが違いました。
綾部、亀岡の聖地は何発ものダイナマイトにより破壊しつくされてしまいました。
私はこの事件を初めて知った当初は、普通の人なら誰しも考えるように、「奇抜な事をし過ぎた一宗教が国家権力に屈した」という印象しか持っていませんでした。
ところが、これについて知れば、知るほど驚愕の事実が明らかになります!
「この日本史上最大の弾圧事件は、出口聖師自ら仕組んだ!」
より正確に言うなら聖師は、あえて官憲が手を下すべく、あの手この手の挑発的パフォーマンスを演じ続けたのです。
では、それは何のため?…検挙された関係者には死者までいたと言うのに…
真偽のほどは分かりませんが、それは簡単に語りつくせない、否未だ解明されていない密意が何重にもあるようです。
今はその一つに焦点を当ててみます。
それは宗教を終わらせるという型だった…。
御存知かと思いますが、大本は、特に戦後急速に発展した新宗教の大本でもあった訳で、それを聞いて怪訝に思われる方もおられるかも分かりません。
でもその事は聖師の「宗教が無くならないと、ミロクの世は来ない!」という言葉から伺うことが出来ます。
聖師が伝える天界の消息に見る、大神人ともいうべき普遍的共同体と現実世界の宗教ーこれにはほとんど例外は無いと言っていいかも知れませんがーには全く相容れるところが無い、大きな相違点が有ります。
天界に見るそれは個々の存在はそれ自体独立した単体であるが、地上の宗教にあっては個々は全体から観れば従属物であり、部品のようであるという点です。
私が垣間見た世界は天界であったのか、現界、いや幻界であったのか知りません。私は霊能者でなく、ただの人間ですから…
これはしかし言葉にするとなると…誰か代弁してくれないでしょうか…
大いなる命とのつながり、調和…こうしたものを実感させるものは、私だけにしか与えられていない至聖所を通してだった…
矛盾した表現かも知れませんが、自己に与えられた天国に触れれば、触れるほどそれは鮮明になっていくようなのです。
小天国は大天国と相即しているのです。
この私というのは、言うまでも無く何野誰兵得という個人ではありません。
純粋意識の主体と言ったらいいのでしょうか?
真の自己実現は、個に留まることは無く、個的にして普遍的なものに結びつく!
多くの宗教信者が結びついているのは、特有の教祖的人間、教典、教義等々であり、個々は一括りの信者の内の一部と観なされます。
天国の型であった大本はどうだったでしょうか?
推測ですが、大方は「出口大先生に信従」というものだったのではないでしょうか?
それも宗教の型示しとしては、ごく自然な有り様だったと思います。
でもそれは、本当の天国の型を表すために備えられた影?の型であった…。
天国の写しには特定の教祖も大先生も居ないでしょう…。
怪物、日本史上最大の予言者と言われた出口聖師。大化け物で中々正体は見えにくいですが、この言葉は本音だったと思います。
「余は人である。神様扱いは迷惑である」