「ムー」と言う雑誌が有るのを御存知ですよね。
UFO,異次元、超能力、終末予言、超古代ミステリーetc…ありとあらゆる空想を掻き立てる情報の百貨店ですね…
こういう世界と私が言う「人生の裏側」とは直接関係が無く、その扉をノックするにあたっては、空想事は脇へ置いておく必要がある、とは度々述べていることです。
ただ、そうでない時、何か面白いネタはないかなあ、なんて思っている時…これがまた…
実に面白い!…
超能力に関しては、ネコと話が出来る事以外、元々興味無かったですが、昔からこういうの好きですよ!照れくさいですけど…
特に日本の超古代文献とか日本=ユダヤ同祖論なんかは結構資料を漁ったりしましたね。
「日本は太古の昔から世界の中心で、モーセ、キリスト、釈迦も日本に来て根本神が伝える真理を習得した。…」
私が学生時代入信していたM教団に居た頃、こういった言説はその教団の教祖が真の神から伝えられた真理である、と信じて疑いませんでした。
その出どころが何であるかなど、詮索する必要も感じていませんでした。
教団の言説こそ絶対権威だったからです。
やがて、そこを離れて白光会に関わるようになって、ある人の紹介で自称宇宙考古学者K氏を知るようになりました。
この方の話から、M教団の金科玉条的?超古代観の出自が判明しました。
K氏が人生を捧げたと言ってもいい、「竹ノ内古文献」です。
より正確に言うなら、この文献と大本神話をミックスさせた「神霊正典」なる文書がM教団の教義の中核的部分に大きく影響を与えたのです。(ハッキリ言ってパクリです)
実は私には超古代の事より、K氏を通じて神の経綸による世界の変容を伝える、大本などの情報を詳しく聞けた事の方が意義深いものが有りました。
つまり以前より大分理性的かつ自由なスタンスで、太古の神の因縁や根本神の仕組みなどを、よりオリジナルなテキストで学び直すようになったのです。
それと共に私に巣食っていた閉鎖的、短絡的観方も開かれたものに成っていったようです。
こういう神の世界のお話というのは、当然のことながら客観的実証、論証のなされようが無く、又主観的に短絡的に信じ込むことは、私にとって飽きもせず愚かな堂々巡りになるだけです。
この点、この神ながら的学びを通じて、いつの間にか私にファジー(死語?)な理解、「そういう事にしておこう」精神が養われたように思います。
酒井勝軍、小谷部全一郎などはいずれも出口王仁三郎師と同時代人で、日本=ユダヤ同祖論者でしたが、とにかく考証、論証を重ねて客観的に自説の正しさを主張することに明け暮れていました。
私はトンデモ学会のように彼らを揶揄するつもりなど毛頭ありませんが、どうも彼らが実証しようとすればするほど、その説が荒唐無稽に思えてきてなりません。
一体何を躍起になっているんだろう?と…
実は出口聖師にも日本=ユダヤの太古の因縁、神の経綸に関する言説が見られます。
でもそれは単純な日本=ユダヤの関係に限った事ではありません。
厳と瑞、富士と鳴門の関係など~いや男と女の関係かも知れない~が複合的に絡んでいます。
全く訳が分かりませんで、済みません。
ただ、心象にそのような関係的なものが映ってくるか、どうか…
元々一つだったものが、愛別れて又結ばれて…という…え、益々訳分からない?
要するに心象に映ってくるか、どうかが重要なのです。
思うに日ユ同祖論者を突き動かしていたものも、このような心象に映った何かだったのではないでしょうか?
私はこの幻想とも現実ともつかない、心的領域に真偽の判断を下そうとは思いません。
神のみぞ知るとしか言いようがないですね。
ただ盲信から解放される契機となったのは間違いありません。
心象にあるものは何一つ固定した、限定されたものは無いのです。
有るとしたら、それこそ幻想というべきものです。
証明されなければならない、信じなければならない…そんな幻想を超えて、神遊びに任せるのみです。
物事を決めつけないで、オープンな気持ちで…。
やがてそこから本当に幻想を超えた疑いの無い世界も開かれてくるかも知れません。
UFO,異次元、超能力、終末予言、超古代ミステリーetc…ありとあらゆる空想を掻き立てる情報の百貨店ですね…
こういう世界と私が言う「人生の裏側」とは直接関係が無く、その扉をノックするにあたっては、空想事は脇へ置いておく必要がある、とは度々述べていることです。
ただ、そうでない時、何か面白いネタはないかなあ、なんて思っている時…これがまた…
実に面白い!…
超能力に関しては、ネコと話が出来る事以外、元々興味無かったですが、昔からこういうの好きですよ!照れくさいですけど…
特に日本の超古代文献とか日本=ユダヤ同祖論なんかは結構資料を漁ったりしましたね。
「日本は太古の昔から世界の中心で、モーセ、キリスト、釈迦も日本に来て根本神が伝える真理を習得した。…」
私が学生時代入信していたM教団に居た頃、こういった言説はその教団の教祖が真の神から伝えられた真理である、と信じて疑いませんでした。
その出どころが何であるかなど、詮索する必要も感じていませんでした。
教団の言説こそ絶対権威だったからです。
やがて、そこを離れて白光会に関わるようになって、ある人の紹介で自称宇宙考古学者K氏を知るようになりました。
この方の話から、M教団の金科玉条的?超古代観の出自が判明しました。
K氏が人生を捧げたと言ってもいい、「竹ノ内古文献」です。
より正確に言うなら、この文献と大本神話をミックスさせた「神霊正典」なる文書がM教団の教義の中核的部分に大きく影響を与えたのです。(ハッキリ言ってパクリです)
実は私には超古代の事より、K氏を通じて神の経綸による世界の変容を伝える、大本などの情報を詳しく聞けた事の方が意義深いものが有りました。
つまり以前より大分理性的かつ自由なスタンスで、太古の神の因縁や根本神の仕組みなどを、よりオリジナルなテキストで学び直すようになったのです。
それと共に私に巣食っていた閉鎖的、短絡的観方も開かれたものに成っていったようです。
こういう神の世界のお話というのは、当然のことながら客観的実証、論証のなされようが無く、又主観的に短絡的に信じ込むことは、私にとって飽きもせず愚かな堂々巡りになるだけです。
この点、この神ながら的学びを通じて、いつの間にか私にファジー(死語?)な理解、「そういう事にしておこう」精神が養われたように思います。
酒井勝軍、小谷部全一郎などはいずれも出口王仁三郎師と同時代人で、日本=ユダヤ同祖論者でしたが、とにかく考証、論証を重ねて客観的に自説の正しさを主張することに明け暮れていました。
私はトンデモ学会のように彼らを揶揄するつもりなど毛頭ありませんが、どうも彼らが実証しようとすればするほど、その説が荒唐無稽に思えてきてなりません。
一体何を躍起になっているんだろう?と…
実は出口聖師にも日本=ユダヤの太古の因縁、神の経綸に関する言説が見られます。
でもそれは単純な日本=ユダヤの関係に限った事ではありません。
厳と瑞、富士と鳴門の関係など~いや男と女の関係かも知れない~が複合的に絡んでいます。
全く訳が分かりませんで、済みません。
ただ、心象にそのような関係的なものが映ってくるか、どうか…
元々一つだったものが、愛別れて又結ばれて…という…え、益々訳分からない?
要するに心象に映ってくるか、どうかが重要なのです。
思うに日ユ同祖論者を突き動かしていたものも、このような心象に映った何かだったのではないでしょうか?
私はこの幻想とも現実ともつかない、心的領域に真偽の判断を下そうとは思いません。
神のみぞ知るとしか言いようがないですね。
ただ盲信から解放される契機となったのは間違いありません。
心象にあるものは何一つ固定した、限定されたものは無いのです。
有るとしたら、それこそ幻想というべきものです。
証明されなければならない、信じなければならない…そんな幻想を超えて、神遊びに任せるのみです。
物事を決めつけないで、オープンな気持ちで…。
やがてそこから本当に幻想を超えた疑いの無い世界も開かれてくるかも知れません。