人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

幸いなるかな!無知蒙昧

2015-03-07 16:19:36 | スピリチュアル?
「私も覚醒体験に預かってみたい!」
何人の人からごくシンプルな、こういう言葉を聞いた事が有ります。
その気持ちはよーく分かります。
それが現実に何らかの苦難を背負いこんでいる人ならなおさらです。
それに対し、「そんな体験なんて大したことないですよ」などと悟り済ましたこと言う人も居ます。
ンなわけないでしょーが!
それに預かった人が悟ったような事言ってるのは、事後いくつかの気づきを経て、おそらく成熟したであろう?視点から語っているのです。
「みんな最初から覚めている、悟った個人など居ない…そして体験すりゃいいってもんじゃない」などと…
何とも気楽なものです…。
でも、その人たちの正にそれに預かった瞬間についての記述が有れば読んでみたらいいです。
驚愕、「わお」、そこには言葉に言い表し得ない表現に満ち溢れていることでしょう。
これが何で「大したことない」で済ませられようか!
もっと「冗談でない!」のは、何にも通過したことの無い人たちが、分かったつもりになって「悟りだ、覚醒だ、何だって大したことない!どうだっていいんだ」と決め込むことです。
所謂体験ボコリという人たちが居ます。「体験してないヤツはダメなんだ!」とか吹聴してるの…
全く鼻もちならないです。
私が目の前でそんな言葉聞いたら「お前は何様のつもりだ!」とブレーンバスターでもお見舞いしてやりたいです。
でも、何と言われようと評論家みたいに分かったような事言う人にはハッキリ言うかもしれません。
「貴方はなんて無知蒙昧なんだ!」と…
だからと言って、それに預かろうとしたって、そうならないのもこれまた事実です。
そしてある人には全く手の平を返したようにこんなこと言うかもしれません。
「体験が有ろうと無かろうと関係無いです。」
その人というのは、どういう形にせよ神とか大いなる命とか、何となく自分を超えたものに意識が向けられていると感じられる人です。
所謂覚醒体験に伴う、歓喜、充足感といったものは、自分を超えたものと共にあるという事なのです。
何かの体験が無くとも、このことは感じられます。
それと切り離されたどんなにぶっ飛んだ神秘体験も意味などありません。
だから…「体験すりゃいいってもんじゃない」のです。
そして何時か、自分の無知蒙昧さを悟らされる日が訪れるかも分かりません。
本当にそれを実感している人は、全くもって無知蒙昧なんかじゃない!です。
神に愛でられる人です!その人は自分を超えたものを示されているからです。
敬虔であること。それは倫理だとか道徳とかの問題ではありません。
物理法則のようなものです。自分が低いからこそ、水の恩恵に預かれるのです。
自分の無知蒙昧さの分からない、頭が高い?人には理解出来ない事でしょう。
悟ったような事アレコレ言って済みません…
水の恩恵で流して下さい…。





コメント
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