どのジャンルにも名作とずっと語り続けられているものが有りますね。
映画、絵画であれば名画、音楽であれば名曲、名盤…
これは多分に巷でそのように評価されているというところから来るようです。これが”衆目の一致するところ”なんだと…
その言われはある有名な評論家から”これは五つ星間違いなしだ!”とお墨付きを与えられてからというケースもままあるようです。
では、それは誰のための名作なのか!これは分かりきった話です。自分のためですよね?
そうでなかったら誰のため?そのような評価をしているであろう、一般大衆におもねるため?
一般大衆なんて人は私は未だかってお目にかかった事が有りません。顔が見てみたいものです。
自分にとっての名作以外の何ものでもないはずでしょう…
世評なんかに魂を売り渡してはなりません!
そんなことしたら…至(私)聖所のポリスマン、守護者のユダに言いつけてやる…
ここでは私の人生には欠かすことのできない、音楽鑑賞についての話です。
私が大学に入った頃一寸した暗中模索していた時期が有りました。
それまで聴いていたロックも飽きてきて、一体何が自分にフィットする音楽なのだろう…と。
当時から、音楽雑誌でいっぱしの?音楽ファンを自認する人でNMM(後にMM)誌のことは知らぬ人は居ません。
その雑誌を通じて黒人ブルースを皮切りに、サルサ(ニューヨークで盛んだった新しいラテン音楽)、アフリカン・ポップス、レゲエなど、ロック、ポップス以外のその周辺の音楽が盛んに取り上げられ、一部で盛り上がりを見せていたのでした。
私はそうした動きに敏感に”探ってみようかな”と好奇心に駆られながらも、こうも思っていたものでした。
「どいつもこいつも”とうよう”思想にかぶれやがって!うっかりかぶれると自分の感性が分からなくなりそうだ」「とうよう思想にかぶれると何だか黒く塗りつぶされそうだ!」
”とうよう”と言ってもインド仏教じゃない…その動きの仕掛け人中村とうようさんのことです。
ポピュラー音楽評論の一つの在り方を作った人ですね。
ことに黒人音楽の火付けを推進していたのはよく知られています。
体制といったものにおもねらない、骨太なコメントの数々でも知られていたのですが、私にはどうもそのNMM誌には”とうようさんに追従!”というような
ある種の権威が出来つつある、と感じられていたのです。
(その古武士のようなとうようさんが、数年前飛び降り自殺で亡くなられようとは…)
それに肝心な事は前述の音楽というものが悪くはないが、イマイチ私の感性には合わないところがあったのです。
そんな時転機が訪れました。
確かラジオ関東で、1920年代の古いジャズを聴いたのがきっかけだったと思います。
(後年”この時代のジャズのライバル音楽を聴いてみよう!”と思い立ちました。それがタンゴとの出会いでした)
”おお、これだ!探し求めていたのは!”
それからというもの、余計な先入観や知識などに頼らず、自分の耳、感性を頼りにするという方針になって行きました。
(つまりは出口の無い世界に踏み入れてしまったという訳です)
そしてそれを抜きにして…つまり共感する感性が無ければあなたの名曲は生まれないのです。
いくらその曲に携わる作曲家、演奏家が居たとしても、共感してくれるあなたが居なければ日の目を見ないのです。
(まあ、日の当たらない音楽ばかり聴いていたので、余計そう感じるのでしょうけど…)
これって驚くべき事じゃないですか!
名曲とは作る側、聴く側との協調によって生まれるということです。
流行とか世評なんかに騙されてはなりません!
ノスタルジーと哀愁に満ちたアザーサイド名曲館…今宵は…あの時分によく聴いていたものから…
Duke Ellington/Immigration Blues,King Oliver/Willie The Weeper
映画、絵画であれば名画、音楽であれば名曲、名盤…
これは多分に巷でそのように評価されているというところから来るようです。これが”衆目の一致するところ”なんだと…
その言われはある有名な評論家から”これは五つ星間違いなしだ!”とお墨付きを与えられてからというケースもままあるようです。
では、それは誰のための名作なのか!これは分かりきった話です。自分のためですよね?
そうでなかったら誰のため?そのような評価をしているであろう、一般大衆におもねるため?
一般大衆なんて人は私は未だかってお目にかかった事が有りません。顔が見てみたいものです。
自分にとっての名作以外の何ものでもないはずでしょう…
世評なんかに魂を売り渡してはなりません!
そんなことしたら…至(私)聖所のポリスマン、守護者のユダに言いつけてやる…
ここでは私の人生には欠かすことのできない、音楽鑑賞についての話です。
私が大学に入った頃一寸した暗中模索していた時期が有りました。
それまで聴いていたロックも飽きてきて、一体何が自分にフィットする音楽なのだろう…と。
当時から、音楽雑誌でいっぱしの?音楽ファンを自認する人でNMM(後にMM)誌のことは知らぬ人は居ません。
その雑誌を通じて黒人ブルースを皮切りに、サルサ(ニューヨークで盛んだった新しいラテン音楽)、アフリカン・ポップス、レゲエなど、ロック、ポップス以外のその周辺の音楽が盛んに取り上げられ、一部で盛り上がりを見せていたのでした。
私はそうした動きに敏感に”探ってみようかな”と好奇心に駆られながらも、こうも思っていたものでした。
「どいつもこいつも”とうよう”思想にかぶれやがって!うっかりかぶれると自分の感性が分からなくなりそうだ」「とうよう思想にかぶれると何だか黒く塗りつぶされそうだ!」
”とうよう”と言ってもインド仏教じゃない…その動きの仕掛け人中村とうようさんのことです。
ポピュラー音楽評論の一つの在り方を作った人ですね。
ことに黒人音楽の火付けを推進していたのはよく知られています。
体制といったものにおもねらない、骨太なコメントの数々でも知られていたのですが、私にはどうもそのNMM誌には”とうようさんに追従!”というような
ある種の権威が出来つつある、と感じられていたのです。
(その古武士のようなとうようさんが、数年前飛び降り自殺で亡くなられようとは…)
それに肝心な事は前述の音楽というものが悪くはないが、イマイチ私の感性には合わないところがあったのです。
そんな時転機が訪れました。
確かラジオ関東で、1920年代の古いジャズを聴いたのがきっかけだったと思います。
(後年”この時代のジャズのライバル音楽を聴いてみよう!”と思い立ちました。それがタンゴとの出会いでした)
”おお、これだ!探し求めていたのは!”
それからというもの、余計な先入観や知識などに頼らず、自分の耳、感性を頼りにするという方針になって行きました。
(つまりは出口の無い世界に踏み入れてしまったという訳です)
そしてそれを抜きにして…つまり共感する感性が無ければあなたの名曲は生まれないのです。
いくらその曲に携わる作曲家、演奏家が居たとしても、共感してくれるあなたが居なければ日の目を見ないのです。
(まあ、日の当たらない音楽ばかり聴いていたので、余計そう感じるのでしょうけど…)
これって驚くべき事じゃないですか!
名曲とは作る側、聴く側との協調によって生まれるということです。
流行とか世評なんかに騙されてはなりません!
ノスタルジーと哀愁に満ちたアザーサイド名曲館…今宵は…あの時分によく聴いていたものから…
Duke Ellington/Immigration Blues,King Oliver/Willie The Weeper