人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

当たり前の視点

2015-03-06 20:30:55 | スピリチュアル?
自我、エゴ、マインド…
こういうものに縛られているから、悟れないんだ…
いや、そもそも悟ろうとするのは、自我意識の現れなんだ…
悟り、覚醒体験は特別なものらしい…こう思うのはエゴなんだ…
それを排除しようとするのも、これまたエゴ…
とかなんとか、ずっと考えてる…マインドの世界で…
こういうものに支配されてるから、世の人は皆そういうものと同一化して神経症じみているんだ…

私は近頃、所謂精神世界の間で飛び交っている、こうした言葉に接していて、一体どっちが神経症みたいなのか分からなくなりそうです。
真我だとかより神なる自己とか、高尚な精神のことなど何も関心の無い多くの普通の人たちにとって、例えば、コレコレを考えているのは誰かと訊かれたら、答えは「そりゃ、自分でしょう」となるでしょう。
「私ですよ!他に誰が居るってんだ!」その通り!
全く当たり前のことです。玉ねぎの皮をむくように「この私は、自我か、真我か、真我のフリした自我か…」とたづね続けてみても、最初から最後まで
私以外のどこにも行きつかないでしょう。
それが自我か、真我か、自分のフリしたパラサイトかは知りませんが…
又、どっからかインスピレーションみたいなのが湧いて来ました。これは自我から来るのか、真我からなのか?
どっちみち、私が受け、感じているのは間違いありません。
自我、エゴ、マインド…そんなに忌まわしいものなんでしょうか?
それ無くして、高尚な道の探究心など生まれるはずも無く、そうした縁にたどり着くことも出来ないでしょう。
本もブログも読むことが出来ず、何よりこんなケッタイなブログを書くことが出来ません。
「自我もマインドも、幻覚でして実体なんか無いんですよ」
生まれつきこういう事を言える人というのは、全くオカシイ人です。
特殊な人を除いて皆物心ついた時には、自我というものが芽生えているのです。
「悟るも何もみんな最初から悟っているんですよ」
そういう言葉は、そういう事に預かった人だからこそ言える訳で、そうでない人には理解出来ないでしょう。
むしろ理解してたらオカシクないですか?
理解出来ない事を無理に分かろうとするのは、新たな精神的負担になるし、混乱の元になるだけです。
いっぱし、ある経験に預かっちゃった人というのは、ともすると好き勝手な事を言ったり、書いたりするものなのです。(勿論私も同類ですよ!)
私も無責任にも色々な事を言いました…。当たり前の視点のことなど見向きもしないで…
知らず知らず、人に信じてもらおうとか理解してもらおうとか強いるような言い方をしてしまったり…。
そもそも私は人を教え、導くような分際では無いのです…
こうした事を含んだ上で、では自我や思考との葛藤をしている時どうしたらいいか…
私なら、この私自身の世の初めから、ずっと一蓮托生の関係にあるこの忌まわしき友の存在を認めてあげます。
物心ついてからのこの呪わしき運命を受け入れます。
だって、それは持って生まれたもの、与えられたものじゃないですか!
大切な私の側面なのです。
私の王国(至=私聖所)の絶好の表現主です。
崇高なる私も、ダメな私も、何かの因縁で寄生してる私も全部が私です!
悟りとは何か?私を生きるだけだった…。
当たり前じゃありませんか…








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする