瞑想。これはあらゆる霊性の探究の道においては重要なツールであると認知されているようですね。
私はしかしそんなに熱心に修練を重ねてきたとは言えません。
修行という事自体さほど関心が無かったと言ってもいいでしょう。
それが、私がインド系を初めとした所謂精神世界に熱心に傾倒しなかった大きな理由の一つだったと思います。
僅かに探究し始めた初期の頃、三月程ほぼ毎日形だけなりともやっていたことはあります。
中国道教系のごくシンプルな形のもので、その主眼となるものは、あまり人為的な技巧といったものに頼らず”自然に任す”というところに有ったようです。そこでは呼吸法、集中、マントラといったツールに関することはほとんど提示されていませんでした。
この事は、瞑想といったことに限らず、ずっと私の精神的歩みの中で基調になっているのです…。
さて普段着を着たインドの教師クリシュナムルティは、瞑想について多く語っていますが、「どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。…故意に瞑想しようと試みることは瞑想ではない」(クリシュナムルティの日記)と述べられるように、彼にとって瞑想とは条件的でない、寄るべなきものだったようです。
聞いている側からは、何んだか取り付く島もないという印象を受けてしまいますが、彼は公ではあまり語ってこなかったことで、彼自身が”プロセス”と呼んでいる、自分の意志と関係無く起きる経験を何度も受けていることは無視できません。
それは、何らかの不可知のエネルギーが身体に浸透することにより、時に身体的苦痛、精神の倒錯を伴いながらも、精神的目覚めがもたらされるというものです。
私には何かが足りないと感じてしまう、彼の言説にはこのような人為、自己意志を超えたものによって裏打ちされていたという事が出来ると思います。
私は又前述の瞑想に触れていた時、それまで頭に抱いていた、道の見取りというものが根底からひっくり返させられるようなものに出会いました。
小池辰雄さんのキリストの聖霊を強調した集会です。
そこでは瞑想は勿論取り入れられておらず、熱心な祈りというものは有りましたが、それが必ずしもあの聖霊の感応というものと直結している訳ではありませんでした。
要するに如何なる人間的な意志的行為を通さずしても、そういう事態は起こり得るという事です。
私自身がその場でどうなった、という事は無かったですが、ある不可知のエネルギーがその場に満ちているのは認められました。
クライマックスの祈りの場になると、それはもう集団的エクスタシーというか、この世の常識を完全に超えた光景が繰広げられていました。
皆イッてしまったのかと思ったのですが、勿論その人たちは集会が終わると、普通の人に戻ります。(その集会が健全なものか、そうでないかはその辺のところを見極める必要があります)
私はこの有り様を見て、一体どうして修行もなにも介さずして、一人や二人どころでない、多くの人があのような法悦境?に至れるのかが理解出来なかったのです。
何十年もの間、厳しい禅修行などに打ち込んでいる人たちのその努力は無意味だというのでしょうか?
小池先生は「ご苦労さんなことだ」の一言です。そして聖霊の恩寵は無条件であると述べられます。
当時の私には、この事がとても奇異に感じたものでしたが、この人為的な力を超えた恩寵の発露というものは、様々な宗教において見られるものです。
そして私自身の身に…何度か書いてるようにそれから数年後、全く予期せずに事は起きました…。
それが聖霊によるものなのか、何かは分からないですが…
小池先生にせよ、手島先生にせよその聖霊の恩寵を信受することを重視して説かれますが、そこからどのように我々の内なる魂が導かれていくのか、ということについてはあまり語られません。
それは、その福音的集会というものが個人の内的成長と言うよりも、共同体的なものの形成を指向していたからだと思います。
これについては、この場とは別個に扱われるべきテーマかと思われ改めて触れてみます
ただ、これはどっちがいいかという問題でなく、少なくとも私にはどちらも分かち難くある問題だと言うにとどめておきます…
その後の私自身の歩みは勿論それで「一丁上がり」になるはずも無く、長いこと暗中模索を繰り返していたのでした…。
私はしかしそんなに熱心に修練を重ねてきたとは言えません。
修行という事自体さほど関心が無かったと言ってもいいでしょう。
それが、私がインド系を初めとした所謂精神世界に熱心に傾倒しなかった大きな理由の一つだったと思います。
僅かに探究し始めた初期の頃、三月程ほぼ毎日形だけなりともやっていたことはあります。
中国道教系のごくシンプルな形のもので、その主眼となるものは、あまり人為的な技巧といったものに頼らず”自然に任す”というところに有ったようです。そこでは呼吸法、集中、マントラといったツールに関することはほとんど提示されていませんでした。
この事は、瞑想といったことに限らず、ずっと私の精神的歩みの中で基調になっているのです…。
さて普段着を着たインドの教師クリシュナムルティは、瞑想について多く語っていますが、「どんな形であれ、意識的な瞑想は真実ではない。…故意に瞑想しようと試みることは瞑想ではない」(クリシュナムルティの日記)と述べられるように、彼にとって瞑想とは条件的でない、寄るべなきものだったようです。
聞いている側からは、何んだか取り付く島もないという印象を受けてしまいますが、彼は公ではあまり語ってこなかったことで、彼自身が”プロセス”と呼んでいる、自分の意志と関係無く起きる経験を何度も受けていることは無視できません。
それは、何らかの不可知のエネルギーが身体に浸透することにより、時に身体的苦痛、精神の倒錯を伴いながらも、精神的目覚めがもたらされるというものです。
私には何かが足りないと感じてしまう、彼の言説にはこのような人為、自己意志を超えたものによって裏打ちされていたという事が出来ると思います。
私は又前述の瞑想に触れていた時、それまで頭に抱いていた、道の見取りというものが根底からひっくり返させられるようなものに出会いました。
小池辰雄さんのキリストの聖霊を強調した集会です。
そこでは瞑想は勿論取り入れられておらず、熱心な祈りというものは有りましたが、それが必ずしもあの聖霊の感応というものと直結している訳ではありませんでした。
要するに如何なる人間的な意志的行為を通さずしても、そういう事態は起こり得るという事です。
私自身がその場でどうなった、という事は無かったですが、ある不可知のエネルギーがその場に満ちているのは認められました。
クライマックスの祈りの場になると、それはもう集団的エクスタシーというか、この世の常識を完全に超えた光景が繰広げられていました。
皆イッてしまったのかと思ったのですが、勿論その人たちは集会が終わると、普通の人に戻ります。(その集会が健全なものか、そうでないかはその辺のところを見極める必要があります)
私はこの有り様を見て、一体どうして修行もなにも介さずして、一人や二人どころでない、多くの人があのような法悦境?に至れるのかが理解出来なかったのです。
何十年もの間、厳しい禅修行などに打ち込んでいる人たちのその努力は無意味だというのでしょうか?
小池先生は「ご苦労さんなことだ」の一言です。そして聖霊の恩寵は無条件であると述べられます。
当時の私には、この事がとても奇異に感じたものでしたが、この人為的な力を超えた恩寵の発露というものは、様々な宗教において見られるものです。
そして私自身の身に…何度か書いてるようにそれから数年後、全く予期せずに事は起きました…。
それが聖霊によるものなのか、何かは分からないですが…
小池先生にせよ、手島先生にせよその聖霊の恩寵を信受することを重視して説かれますが、そこからどのように我々の内なる魂が導かれていくのか、ということについてはあまり語られません。
それは、その福音的集会というものが個人の内的成長と言うよりも、共同体的なものの形成を指向していたからだと思います。
これについては、この場とは別個に扱われるべきテーマかと思われ改めて触れてみます
ただ、これはどっちがいいかという問題でなく、少なくとも私にはどちらも分かち難くある問題だと言うにとどめておきます…
その後の私自身の歩みは勿論それで「一丁上がり」になるはずも無く、長いこと暗中模索を繰り返していたのでした…。