人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

一如の世界

2015-04-06 09:17:35 | スピリチュアル
最近精神世界を中心に”二元性を超える”という事が強調されてきています。
この事について気付いた事を書いてみます。
例えばある教師なりマスターが”神と人間は分離しているんじゃない、もともと一つのものなんですよ。ワンネスというものが有るだけで、個人が存在してるなんていうのは幻想なんですよ”と最近耳にタコができるくらいおなじみのことを教えていたとします。
それをあなたがちっとも腑に落ちていないのに、一生懸命信じようとする…自分が信奉している先生がそう言ってるんだから…それを受け入れるということが、今の自分が抱えている苦難から解放されることなんだから…と。
これは大体宗教信者ならこういう自分と対象との戦い?は一度ならずとも経験するんじゃないかと思います。
又私のマスターは毎日瞑想修行をすることを推奨している…そしてあなたは毎日毎日一定の時間瞑想にその時間を費やします。
”今日はシンドイなあ”と思いつつも決めたんだから、教えられたとおり、呼吸を整えて、リラックスして…出来ても出来なくてもリラックスしなければならないんだから…こうすれば苦しみに満ちた、二元性の幻想は超えられるんだから…と。
さて、二元性とは一体なんでしょう?…
正にこういう事なんじゃないでしょうか?つまり、この場合自分と教え、瞑想というものが二つになっているという事なのです!
これはいいとか悪いとかという事でなしに、誰でも取っ掛かりとしてこういう道を歩まなければならない訳なんですが、こうした状態でいる限り、いつまでも対象(教えや瞑想)を追いかけなければならず、彼岸と此岸は離れたままになるという事なのです。
ある教師が非二元の道らしきことを説いていようが、”信じなさい”、とか”受け入れなさい”というワナに引っかかってはなりません!
ところが、時として思い計らいを超えて、スーッと教えが浸み込むように入ってしまったり、自然と日常的意識が落ちてしまい、瞑想的意識状態になってしまうということも起きたりします。
こんな状態にある時どっからか”信じざるを得ない!””瞑想せざるを得ない、祈らざるを得ない!”といった実感が湧いてきたりします。
ここでは教えも瞑想も自己と離れて対象としてあるのではなく、一つになっていると言えます。一如になっているのです。
小池先生はよく「信仰、信仰と信じ仰いでたってしょうがない! 新交、神交です!…キリストの中に祈り入ることです!」と言ってましたが、先生には
いつもこの”ざるを得ない”という気合が有りました。
私がM女史と接していた時、しばしば対面している女史が消えて、自分自身と交わっているような意識状態になったことがありました。
その他は何もかも印象から消えてしまうのです。
ユダヤ系哲学者マルティン・ブーバーの”我と汝”という説き方はしばしば誤解を受けているのですが、”神なる汝は自己と別にあるんじゃない、さりとて一つに溶け込んでいるのでも無い、一如…即してある、つながっている”という事を示しているのでしょう。
教えでも、修行でも自分がそれを使役しよう、捉えようとしているうちは、どこまでもそれを追っかけなければなりません。
”自分自身にはそれが無いんだ、よそから取り込まなければならないんだ”と思い込んでいる為です。
逆説的ですが、掴んでいるものを手放そうとした時、自分の中からか、周りからか喜ばしきものが立ち上り始め、いつのまにかそれに捉えられてもう、それに落ちざるを得なくなってしまうのです。
これはもう恋というものと同じですね…。
どの教師、マスターが何を教えているか…その先生はまだ二元論を克服して無さそうだからいまだしだ…などとジャッジしているより先に、もっと本質的な事は自分自身の在り方に気づくべきだと思いますね。
どんなに高遠な教えだろうと、何時までもこちら側にいたままで、向こうを眺めてたって何になるでしょう。
一元論も二元論も無い!こういう見かけに騙されてはなりません…”あなたはどうかい”ということなのです…。



コメント
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