人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

絶対的に相対的な話

2015-04-21 20:12:06 | スピリチュアル?
ある時、近くの公園で猟奇事件が起きていました。血まみれの惨死体が発見されたのです。私はハッキリ見ましたから…
小鳥の惨死体。そしてその傍らで何事も無かったかのように寛いでいる容疑者…ペロちゃんです。
私はあの天使のようなペロちゃんが犯人とは信じたくなかったのですが、時々私のヒザで寝ていたと思ったら、突然目つきが変わりダッシュして小鳥を追っていた事が有りました。その時のペロちゃんの表情といったらまるで邪悪の権化です。
でも仕方がない、これがニャンコの二つの顔なんですから…そして又いつもグターッとしてるのかと思いきや、なんという瞬発力なのでしょう。
世間ではネコは執着深い動物だと言われていますが、よく観察してみたらあんなに飽きっぽいヤツは居ません。
エサを食べ残したりしますし、とにかく移り気なのです。
ネコも私?も一面的な観方だけで判断すると、頭がぐちゃぐちゃになりますよ!
そして精神世界の話も…
近年よく今世界は統合に向かっているんだと言われています。
しかし、どっかで統合されている一方で、どっかでは分裂の様相を見せてたりします。
ワンネスに目覚める人が増えていると言います。個我は幻想だと気づいたとか…全ては一つだとか…
だがオンリーワンの個性の開花を強調する人もいます。
何しろ数学の世界のように、数式だとか定理だとかがものを言う世界と違うので、多面的な観方、アプローチが必要です。
証明も出来ない事が多いので、主観的(とされる)表現も多くなりがちです。
言葉で言い表せない直観を得たことのある人であれば、ほとんどの場合表現する上で言葉の限界に突き当たってしまうことでしょう。
ハッキリしていることは、このように言葉を借りなければならない、という制限された条件下で表現せざるを得ないという事です。
にも拘らず、ネットなどを通じて”私やあなたという個人は居ないのです!”と全くミもフタも無い言葉が平然と語られています。
これが、その人自身の直覚し得た境地の表明といったものであれば(この発信者の言葉に従えばそういう人は存在しないことになるのですが)全く他人がどうこう言うべきことも、否定することもないでしょう。
ことにそれがその人の絶対境のようなものであれば、こちらが共感出来る、出来ないに関わらず尊重されるべきものだと思います。
私がいつもそのような言葉に接して腑に落ちないことは、それが時として全く一方通行で独りよがりのような話が”信仰表明”のように語られる点です。
”これが真理なんだ、それ以外は幻だ”と暗に他者に”信じて欲しい”と訴えているように感じるのです。
このような方を通じて多くの方に気づきを得る契機が与えられることは、それはそれで意義のあることだと思います。
ただ、一方で”頭がぐちゃぐちゃになりそう”だとか混乱もまた起きているようなので…
(迷ってるときは自分で考えて結論を出そうとしないで、いったん手放してしまうことをお勧めします)
何時の時代でも問題が起きるのは”自分の観方だけが正しい”という表明が幅を利かせるためです。
一種の絶対境に預かると”もうこれっきゃない!”という心理がはたらくのも私はよく分かります。
でもこの場はそれが夢だろうと幻だろうと、幾多もの絶対者がひしめき合っている相対的現実なのです。
だからこそ、私はつとめて他者(私とか他人が居るかどうかはさて置き)の絶対的なものは尊重したいと思っています。
グダグダ言いましたけど、話は簡単ですね。”色々な観方が有ってもいい”ということです。
精神世界(と言っておこう)は今、曲がり角に来ているようです。
あの”ウンコクサイ”人も霊・現の二者は統合されてしまったようですし…
これからはますます、多面的理解というものが必要になってくると思います。
ものの表裏というものが明らかになってくるであろうから…
すなわち人生の裏側、世界の裏側がフタ開けされるであろうから…
それは他の誰でも無い、あなた自身の問題です…。
(別に信じなくてもいいですよ!)














コメント
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