以前、私が出会った忘れられない人物としてD会のM女史のことを書きましたが、会主M師について書かないと片手落ちになってしまいます。
というのもD会の成り立ちにおいても、あり方においても二人の存在は切っても切れない両輪という関係だったからです。
といっても私が師と出会ったのは、師の人生の最晩年のころで既に心身共に衰えて、会の第一線からは既に退いておられました。
往時の写真や録音テープからうかがい知れるのは、正に威風堂々、圧倒的な声量の持ち主であったということです。
そして師の筆になるほとんどの会の刊行物の著述に触れてみると、最初は読みづらくて戸惑いを感じたものでしたが、ある時から完全に魅了されるようになりました。
特に(これは口述筆記ですが)会では通称「三千冊」と呼ばれている門外不出の聖典(と誰かが言ってました。)などは、来たるべき…(というより
過去完了で書かれることが多いのですが…)普遍調和世界のブループリントとも言うべきもので、
私のボルテージは上がりっぱなしになることしばしばでした。
「人類の復活」の著者西村忠義さんなど来会した折この書物を手にして、頁をめくるなり「これは私の本だ!」と言ってさっさと持って行ってしまったそうです。門外へと…
今 此処に,私達という‥あなた方が、言葉し、私という、あなたが、言語して おるのでございます。
時 人類の意志…は、今この 新天新地を、呼吸し…
機 人類の本願…は、今その 真実世界を、生活…せんとしているのでございます。
私がD会の縁で関西にまで移住する事にまでなってしまったのは、ひとえに師のその何とも揺さぶられずにおれない表現と、M女史との出会いによるのは言うまでもありません…。
師は幼いころから度重なる肉親縁者との死に別れに合い、人生苦から求道生活に目覚め、修養団体「一灯園」の西田天香のような捨身生活などを経て、ついに悟りを得るに至りました。
ところが、その自然法爾…天地との一体感といった、超越境にありながら新たな苦しみを覚えるようになるのです。
それは自己の内面は充足、解放されることはあっても、身、存在は未だ解決されていなかった…ということです。
これは推測ですが、この苦悩は自分はいくら悟境に達しても周りの世界は以前として迷いの中にいる…この生の、血の通った現実世界はどうなのか!というところから来るものと思われます。
所謂悟りという事については、語らねばならないことが沢山ありますが、最近の言葉で言えば”純粋意識の目覚め”ということでしょうか…私はそれが単なる一個人の主観という事で片付けられるもので無く、又個人的レベルの目覚め、救いに留まるものでは無い、と感じているのですが、その目覚めた世界からこの現実世界に戻ってきた際には、誰しもがそのギャップを痛感するのではないかと思います。
この問題は”純粋意識の領域では全ては調和に満ちていて、皆救われているんだ”という事で、達観出来る人には多分起きてこないでしょう。
これはもとよりこのガタイが…この性懲りも無く、迷妄に明け暮れているシャバがどうなのか!という問題だからです。
この相対的現実、時間と空間に制限された世界に、普遍調和が開かれるのかどうか…
M師に起こってきたこの問題は、玉城康四郎さんに開示された”業熟体”とも密接なつながりが有るようにも感じられます。
この業性の世界に生まれてきたという、その宿命に目覚めたと言うべきか…あるいは又意識の領域から存在の領域への転回とも言えるかと思います。
そして師の前にその事を証しする存在が顕れました。それが存在の発現者M女史です…。
D会において普通なら一人の開祖、創始者としてM師が位置づけられてもおかしくないのに、何故M女史(厳密にはさらに夭折した二人の存在が居ます)が位置づけられているのか、というと存在は関係によって開かれる、ということを強調しているのです。
じゃ、私とD会の関係は…これが微妙だったと言わざるを得ません。
誰もがそれぞれ因縁やら思惑やらを背負って生きている訳で…そこには共感もあれば反感もある…これがガタイを背負ってるって証拠です。
ただM女史はいつも言っていました「M師がお元気なころに貴方と会っていたらどんなに喜んだろうかねえ…」と…。
というのもD会の成り立ちにおいても、あり方においても二人の存在は切っても切れない両輪という関係だったからです。
といっても私が師と出会ったのは、師の人生の最晩年のころで既に心身共に衰えて、会の第一線からは既に退いておられました。
往時の写真や録音テープからうかがい知れるのは、正に威風堂々、圧倒的な声量の持ち主であったということです。
そして師の筆になるほとんどの会の刊行物の著述に触れてみると、最初は読みづらくて戸惑いを感じたものでしたが、ある時から完全に魅了されるようになりました。
特に(これは口述筆記ですが)会では通称「三千冊」と呼ばれている門外不出の聖典(と誰かが言ってました。)などは、来たるべき…(というより
過去完了で書かれることが多いのですが…)普遍調和世界のブループリントとも言うべきもので、
私のボルテージは上がりっぱなしになることしばしばでした。
「人類の復活」の著者西村忠義さんなど来会した折この書物を手にして、頁をめくるなり「これは私の本だ!」と言ってさっさと持って行ってしまったそうです。門外へと…
今 此処に,私達という‥あなた方が、言葉し、私という、あなたが、言語して おるのでございます。
時 人類の意志…は、今この 新天新地を、呼吸し…
機 人類の本願…は、今その 真実世界を、生活…せんとしているのでございます。
私がD会の縁で関西にまで移住する事にまでなってしまったのは、ひとえに師のその何とも揺さぶられずにおれない表現と、M女史との出会いによるのは言うまでもありません…。
師は幼いころから度重なる肉親縁者との死に別れに合い、人生苦から求道生活に目覚め、修養団体「一灯園」の西田天香のような捨身生活などを経て、ついに悟りを得るに至りました。
ところが、その自然法爾…天地との一体感といった、超越境にありながら新たな苦しみを覚えるようになるのです。
それは自己の内面は充足、解放されることはあっても、身、存在は未だ解決されていなかった…ということです。
これは推測ですが、この苦悩は自分はいくら悟境に達しても周りの世界は以前として迷いの中にいる…この生の、血の通った現実世界はどうなのか!というところから来るものと思われます。
所謂悟りという事については、語らねばならないことが沢山ありますが、最近の言葉で言えば”純粋意識の目覚め”ということでしょうか…私はそれが単なる一個人の主観という事で片付けられるもので無く、又個人的レベルの目覚め、救いに留まるものでは無い、と感じているのですが、その目覚めた世界からこの現実世界に戻ってきた際には、誰しもがそのギャップを痛感するのではないかと思います。
この問題は”純粋意識の領域では全ては調和に満ちていて、皆救われているんだ”という事で、達観出来る人には多分起きてこないでしょう。
これはもとよりこのガタイが…この性懲りも無く、迷妄に明け暮れているシャバがどうなのか!という問題だからです。
この相対的現実、時間と空間に制限された世界に、普遍調和が開かれるのかどうか…
M師に起こってきたこの問題は、玉城康四郎さんに開示された”業熟体”とも密接なつながりが有るようにも感じられます。
この業性の世界に生まれてきたという、その宿命に目覚めたと言うべきか…あるいは又意識の領域から存在の領域への転回とも言えるかと思います。
そして師の前にその事を証しする存在が顕れました。それが存在の発現者M女史です…。
D会において普通なら一人の開祖、創始者としてM師が位置づけられてもおかしくないのに、何故M女史(厳密にはさらに夭折した二人の存在が居ます)が位置づけられているのか、というと存在は関係によって開かれる、ということを強調しているのです。
じゃ、私とD会の関係は…これが微妙だったと言わざるを得ません。
誰もがそれぞれ因縁やら思惑やらを背負って生きている訳で…そこには共感もあれば反感もある…これがガタイを背負ってるって証拠です。
ただM女史はいつも言っていました「M師がお元気なころに貴方と会っていたらどんなに喜んだろうかねえ…」と…。