人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

愛が無ければ何の意味も無い

2015-04-26 13:48:25 | 
いつもこうして言葉の制約を受けながら、気の向くままに書かせていただいている訳ですが、
ある一点で言葉をもってしては、どうしても伝えることが出来ないことのもどかしさを感じ
てしまいます。
それはワンネスだとか常人がたどり着けないような究極の真理などでしょうか?
いいえ、それは喜ばしきこと、愛を感じること、幸福感といったものです。
”個人は幻想だという事が分かった”…”ただ起こることが起こるだけだという事が分かった”…
そりゃあ、よかった!しかしそこに喜び、愛というものが無ければ一体何の意味があるでしょうか?
もし、苦難、悩みを解消したくて真理の探究をしているとしたら、このものに触れること自体でいつの間にか、その問題は無くなります。
究極の真理など、”クソくらえ”ではありませんか!
喜び…それは無条件の愛と共にあります。
もし、そこに”それで一体何の役に立つのだろうか”
といったことが問われるならば、もう無条件なものではなくなります。
逆に言えば無条件の愛に触れた時、そのような条件付けは全て黙ってしまいます!
黙って愛に落ちてしまうしかない…ということです。
私はこれまで人様の書かれているものに触れて、当然のことながら共感出来る部分、出来な
い部分というものが生じてくるのは、それぞれの人生、視点というものがある以上仕方ない
ことだと思います。
ただ殆ど例外なしに無条件で共感できる記述というものも有ります。それはその人が無条件
の愛に触れて、まあ、表現は多種多様ですが、宗教的回心というか無条件降伏をしたことを
述べているものです。
我々は、この一点において一つになれる! ”ああでなきゃならない” ”こうでなきゃならない”なんてのは、ホントにホントにバカみたいなものですよ!
私は今自分のこととしてこの事を書いているのですが、この無条件の愛と共にあったことか
らいつの間にか離れてしまうと、”真理に至るテクニック” ”真理に至る究極の教え”などと
いった自分の到達したとされるもの、自分の信念だとかがはびこるようになります。
もう、そこにはあの絶対との出会いの一瞬にあった、無条件の愛の領域から第二義的なもの
に落ちてしまうのです。
これはまたシャバで生きる事の宿命なのでしょうが…
(私が軽々しく言う”絶対”なる言葉は正しく無条件的なものを指しています。絶対境とは無条件にお手上げしてしまう事態のことです)
そのような手垢が付いたような押しつけがましい、宗教の教義の如きものに付き合わされる
身にもなった方がいいです。
”もうスピ系も精神世界もバカらしい! ヤ~メた!”というのが賢明かもわかりません。
ただ…どっかで感じられる喜ばしい風に触れながら、その途上で投げ出してしまうとしたら…
それは本当にオメデタイ話です!
神、絶対者、ワンネス…それについていくら考えていようと、それらは頭の中にしか実在しません。
”あなたは最初から悟っている”という教えもそうです。それは無条件の愛と共にあるのです。
だからと言って私は”マインドを落とせ!”とか小難しいことは言いません。
それについてではなくそれ(喜ばしきサムシング)あって考えるべきなのです。
要するに考えるのが楽しけりゃ、それでいいんじゃないですか?
人間はどうしたって、こうしたって楽しいことに赴いてしまうものです。そこに愛があるから…
以上小賢しい話終わり…






コメント
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