人間は自分に都合の悪い過去のことは封印してしまうようです。
私にとりあまり思い出したくない事だったようですけど、いつも私が反面教師のように引き合いに出しているM教団との関わりですが、そもそも何でフラフラとそこへ行ってしまったのか?
ハッキリ思い出しました! 自分の感情をコントロール出来なくなってしまったからです。
しばらく途方に暮れるような毎日が続き、大学に辛うじて入って間も無く、何かのテレビで多分その教団のことが取り上げられてたのを観たのだと思います。
諸々の不幸は悪霊による障りが原因なので、それを祓う事で幸せになれるんだとか…
折しも、悪霊祓いをテーマにしたオカルト映画「エクソシスト」が大ヒットした直後のことでした。
して…私は思いこんだのです! ”僕にも悪霊が憑いてるに違いない!”と。(笑)
その教団では浄霊と称する秘儀により、憑いている霊が発動する(真偽のほどは分かりません)現象がみられるのですが、二年ばかしの入信期間を通じて、私自身にその発動というか霊動が起きたことはただの一度も有りません。
信者の人からは「アンタには余程頑固な霊が憑いている様だ…」などと言われ、又しても思い込みました!
”僕にはドエライ悪魔が憑いているらしい…”(笑)
しかしながら、半信半疑ながらも信者生活をし続けるうち、どうにか精神的に不安定な状態は沈静化しました。ドエライ悪魔は退散しませんでしたが…
なんだかんだと言っても、その教団との関わりもある局面においては、直接の因果はともかく、何かしらの恩恵ももらっていることも忘れてはならないと思います。
その時分は確かに私は迷っていたのでしょうが、迷っていたからこそ気付けることも多々有るのです。
この意味で人生で何一つ無駄な事は起きないし、至るところに学びが有ると感じざるを得ません。
ところで、日頃ジンジンする感覚、霊的な現臨とか、いかにも霊感じみたこと書いていますが、元来私はとても理性的な人間であり、先の例の如く霊感などは鈍い方なのです…
霊動と言っていいのか、自ずから体が動き出すようなことは身に覚えていますが、これは先の例とは同列に語られるものでは有りません。
その教団で行われていたものは、システマチックな技法が有って、暗示的な要素が強く、催眠術にかかったみたいに自分の意志で日常の意識に戻ることが出来ないところが有り、自分でコントロール出来る”自発動”系とは全く違う点がみられます。
こういったことは、実に我々の意識的な在り方と連動していると言えるでしょう。
M教団にみられる憑霊現象などは、”自分以外のところから何かの霊が障る…”正にこのような観念から起きることです。
そしてそうした現象と同じく、精神的にも教団特有の観念にコントロールされてしまうような、所謂洗脳と呼ばれるような事態にもなってしまうのです。
私が自発動的なものを覚えるようになったのは、特定の宗教教団に依存することから離れるようになり、同時に憑霊といった観念からも自由になってからのことです。
これと共に”お前はもっともっと自分を信頼しなさい!”という声なき声の誘いが感じられました。
逆説的ですが、自分を信頼することと、見えない導きを信頼することとは不可分なのです!
このことは見えざる導師に無条件降伏した時にハッキリわかりました。
無条件降伏とは究極の自己信頼に他ならないのです!
その時、自分もその現臨も一つになります。この事は主体性の問題でもあります。
主体性とここで言っている事は、通常の意味を超えて、見える私、見えない私も何もかも私自身の全てに関わることです。
そして私はどうもこの見えざる導師の許可?無しには(よそから霊がかかるような)ヘンな発動?は起きないところがあります。
発動するときは何時も自己信頼が伴っている、と言えます。
多分、私はもとよりドエライ悪魔と一枚になっているのでしょう…
私にとりあまり思い出したくない事だったようですけど、いつも私が反面教師のように引き合いに出しているM教団との関わりですが、そもそも何でフラフラとそこへ行ってしまったのか?
ハッキリ思い出しました! 自分の感情をコントロール出来なくなってしまったからです。
しばらく途方に暮れるような毎日が続き、大学に辛うじて入って間も無く、何かのテレビで多分その教団のことが取り上げられてたのを観たのだと思います。
諸々の不幸は悪霊による障りが原因なので、それを祓う事で幸せになれるんだとか…
折しも、悪霊祓いをテーマにしたオカルト映画「エクソシスト」が大ヒットした直後のことでした。
して…私は思いこんだのです! ”僕にも悪霊が憑いてるに違いない!”と。(笑)
その教団では浄霊と称する秘儀により、憑いている霊が発動する(真偽のほどは分かりません)現象がみられるのですが、二年ばかしの入信期間を通じて、私自身にその発動というか霊動が起きたことはただの一度も有りません。
信者の人からは「アンタには余程頑固な霊が憑いている様だ…」などと言われ、又しても思い込みました!
”僕にはドエライ悪魔が憑いているらしい…”(笑)
しかしながら、半信半疑ながらも信者生活をし続けるうち、どうにか精神的に不安定な状態は沈静化しました。ドエライ悪魔は退散しませんでしたが…
なんだかんだと言っても、その教団との関わりもある局面においては、直接の因果はともかく、何かしらの恩恵ももらっていることも忘れてはならないと思います。
その時分は確かに私は迷っていたのでしょうが、迷っていたからこそ気付けることも多々有るのです。
この意味で人生で何一つ無駄な事は起きないし、至るところに学びが有ると感じざるを得ません。
ところで、日頃ジンジンする感覚、霊的な現臨とか、いかにも霊感じみたこと書いていますが、元来私はとても理性的な人間であり、先の例の如く霊感などは鈍い方なのです…
霊動と言っていいのか、自ずから体が動き出すようなことは身に覚えていますが、これは先の例とは同列に語られるものでは有りません。
その教団で行われていたものは、システマチックな技法が有って、暗示的な要素が強く、催眠術にかかったみたいに自分の意志で日常の意識に戻ることが出来ないところが有り、自分でコントロール出来る”自発動”系とは全く違う点がみられます。
こういったことは、実に我々の意識的な在り方と連動していると言えるでしょう。
M教団にみられる憑霊現象などは、”自分以外のところから何かの霊が障る…”正にこのような観念から起きることです。
そしてそうした現象と同じく、精神的にも教団特有の観念にコントロールされてしまうような、所謂洗脳と呼ばれるような事態にもなってしまうのです。
私が自発動的なものを覚えるようになったのは、特定の宗教教団に依存することから離れるようになり、同時に憑霊といった観念からも自由になってからのことです。
これと共に”お前はもっともっと自分を信頼しなさい!”という声なき声の誘いが感じられました。
逆説的ですが、自分を信頼することと、見えない導きを信頼することとは不可分なのです!
このことは見えざる導師に無条件降伏した時にハッキリわかりました。
無条件降伏とは究極の自己信頼に他ならないのです!
その時、自分もその現臨も一つになります。この事は主体性の問題でもあります。
主体性とここで言っている事は、通常の意味を超えて、見える私、見えない私も何もかも私自身の全てに関わることです。
そして私はどうもこの見えざる導師の許可?無しには(よそから霊がかかるような)ヘンな発動?は起きないところがあります。
発動するときは何時も自己信頼が伴っている、と言えます。
多分、私はもとよりドエライ悪魔と一枚になっているのでしょう…