大学3年の頃、M教団を辞めようかどうか迷っていた時、私はしばしば市川にあった白光会の道場へ行ってました。
そこでその青年部の人たちと交流をしてたのですが、脱会することが出来たのは彼らの後押しがあったからだと思っています。
同じころ彼らに交じって、どういう因果でか突然神がかった青年が出入りしていました。(奇しくも彼はM教団を脱会して間が無かったのです!)何か目つきがギラギラしていて、上から目線で実にエラそうな口利きでしたが、道場の帰りに数人の青年たちと喫茶店で談話しているうち、彼から”皆の前世を占って進ぜよう”という話が持ち出されました。
勿論その真偽のほどは分かりませんが、面白いことにそこに居合わせた全員が幻の”ムー大国”に前世を持っていたことでした。
ある人は船乗り、またある人は医者という具合で…して私はというと…その青年は間髪入れずに、全て決定していたかの如く”もう、この人は宗教家(神官?)です!間違いない!”と言い放ったのでした。
私もそう言うだろうと思っていたので、多分間違い無いのでしょう…(笑)
私はもしかしたら、数万年前その沈没した大陸で宗教に絡んだ天国のような無上の歓喜、地獄のような苦汁を味わっていたのかもしれません…。
つくづく思うに、宗教というのは関わりを持つと全く以て天国と地獄の分かれ道となるものです。
かくも天と地ほどの隔たりを残酷なまでに映し出すものなのか!と思える程です。
現在報道で伝えられるものと言ったら、それに起因した地獄的様相ばかりではありませんか!
この地獄へと転じてしまう起因とは、この相対世界に有って、その相対性を病的なまでに強化してしまう、その教えなどの盲目的絶対視です。
この世に在っては様々な相異なる宗教が有る。しかしそこに忌まわしき価値判断が付加されると、自派の特殊化が生まれ、ひいきのひき倒しに満ちた自派の自己主張が生まれます。
宗教で語られる言葉は如何にも神、真理の普遍性といった心の広さというものを伝えているか、と思いきやその実はこれほど狭量で閉鎖的なものは有りません。
全く宗教に縁の無い人たちの意識の方がはるかに自由で、偏りが無く、精神的にずっと健全と言えます。
要するに頑迷なる教えへの固執は機能不全、病気なのです!
この事に気付けるか、自覚症状を持てるか否かが、回復への決め手となります。
だが…悲しいかな”自分は常に正しい”という病の慢性化が進むとその見込みも無くなります。
何が機能不全なのでしょうか? そもそもの命と切り離されるからです。
命は普遍性と共にあります。何かの教えのようにこの普遍性ということを言葉だけで切り売りしてても何もなりません。
観念的信者は「うちの先生はこう言っている…教典にはこう書かれている…だから信じましょう…」と観念の押し売りに終始するばかりです。
普遍的領域とは、限定されたその実相対化している殻を突き抜けた、自己限定、自己閉鎖の砦から解放されたところに有るのです。
だからと言って、私は今現在何かの宗教に関わっている人にエラそうに”それらを捨てよ!”というつもりなどありません。
その宗教はエセ、邪教でない限り(エセ、邪なものはどこまで行ってもエセだし、邪なものです。それらは直ちに改宗すべきものです)普遍的なものにつながっている筈なのです。何故ならば、それはそこに関係するあらゆる個々の人間の内に有るものなのですから…
私は冒頭で述べた頃、探究意欲に駆られたのですが、一体この世に流通普遍の真理を伝える教えなるものが果たして存在するでしょうか? かつてムー大陸で奉じられていたという、諸宗教分化以前の根源的教えのような…
何処にも見出されることは多分ないでしょう。それは私やあなたの魂に書かれているものでしょう…。
全ての宗教の教師も教典もその我々の内なる天国を映し出す媒体に他ならないのです。
媒体とは、そこに映る先のもの、本体なるものを前提にしてあるものです。
この本体と共にある時、あなたはもはや普遍なるものに対し、特殊化し、分離された一部品のようなものではあり得ません!
その普遍なるものとは、あなたの本体そのものなのです。
”私の腕と足とではどちらが優位で、どちらが真理に近いか…”などと言うのはバカげた話です。
天国というどっかの時空間が有る訳では無い…我々が天国体そのものなのです!
ちょうどあの頃、多分初めて声なき声の諭しを感じました。
”あらゆる宗教の根源にあるものを知りたくないか…さあ、一歩踏み出すがいい…
この学びは私がお前と一つとなるまで終らないんだよ…”
そしてすぐ私は教団とお別れしたのでした…。
そこでその青年部の人たちと交流をしてたのですが、脱会することが出来たのは彼らの後押しがあったからだと思っています。
同じころ彼らに交じって、どういう因果でか突然神がかった青年が出入りしていました。(奇しくも彼はM教団を脱会して間が無かったのです!)何か目つきがギラギラしていて、上から目線で実にエラそうな口利きでしたが、道場の帰りに数人の青年たちと喫茶店で談話しているうち、彼から”皆の前世を占って進ぜよう”という話が持ち出されました。
勿論その真偽のほどは分かりませんが、面白いことにそこに居合わせた全員が幻の”ムー大国”に前世を持っていたことでした。
ある人は船乗り、またある人は医者という具合で…して私はというと…その青年は間髪入れずに、全て決定していたかの如く”もう、この人は宗教家(神官?)です!間違いない!”と言い放ったのでした。
私もそう言うだろうと思っていたので、多分間違い無いのでしょう…(笑)
私はもしかしたら、数万年前その沈没した大陸で宗教に絡んだ天国のような無上の歓喜、地獄のような苦汁を味わっていたのかもしれません…。
つくづく思うに、宗教というのは関わりを持つと全く以て天国と地獄の分かれ道となるものです。
かくも天と地ほどの隔たりを残酷なまでに映し出すものなのか!と思える程です。
現在報道で伝えられるものと言ったら、それに起因した地獄的様相ばかりではありませんか!
この地獄へと転じてしまう起因とは、この相対世界に有って、その相対性を病的なまでに強化してしまう、その教えなどの盲目的絶対視です。
この世に在っては様々な相異なる宗教が有る。しかしそこに忌まわしき価値判断が付加されると、自派の特殊化が生まれ、ひいきのひき倒しに満ちた自派の自己主張が生まれます。
宗教で語られる言葉は如何にも神、真理の普遍性といった心の広さというものを伝えているか、と思いきやその実はこれほど狭量で閉鎖的なものは有りません。
全く宗教に縁の無い人たちの意識の方がはるかに自由で、偏りが無く、精神的にずっと健全と言えます。
要するに頑迷なる教えへの固執は機能不全、病気なのです!
この事に気付けるか、自覚症状を持てるか否かが、回復への決め手となります。
だが…悲しいかな”自分は常に正しい”という病の慢性化が進むとその見込みも無くなります。
何が機能不全なのでしょうか? そもそもの命と切り離されるからです。
命は普遍性と共にあります。何かの教えのようにこの普遍性ということを言葉だけで切り売りしてても何もなりません。
観念的信者は「うちの先生はこう言っている…教典にはこう書かれている…だから信じましょう…」と観念の押し売りに終始するばかりです。
普遍的領域とは、限定されたその実相対化している殻を突き抜けた、自己限定、自己閉鎖の砦から解放されたところに有るのです。
だからと言って、私は今現在何かの宗教に関わっている人にエラそうに”それらを捨てよ!”というつもりなどありません。
その宗教はエセ、邪教でない限り(エセ、邪なものはどこまで行ってもエセだし、邪なものです。それらは直ちに改宗すべきものです)普遍的なものにつながっている筈なのです。何故ならば、それはそこに関係するあらゆる個々の人間の内に有るものなのですから…
私は冒頭で述べた頃、探究意欲に駆られたのですが、一体この世に流通普遍の真理を伝える教えなるものが果たして存在するでしょうか? かつてムー大陸で奉じられていたという、諸宗教分化以前の根源的教えのような…
何処にも見出されることは多分ないでしょう。それは私やあなたの魂に書かれているものでしょう…。
全ての宗教の教師も教典もその我々の内なる天国を映し出す媒体に他ならないのです。
媒体とは、そこに映る先のもの、本体なるものを前提にしてあるものです。
この本体と共にある時、あなたはもはや普遍なるものに対し、特殊化し、分離された一部品のようなものではあり得ません!
その普遍なるものとは、あなたの本体そのものなのです。
”私の腕と足とではどちらが優位で、どちらが真理に近いか…”などと言うのはバカげた話です。
天国というどっかの時空間が有る訳では無い…我々が天国体そのものなのです!
ちょうどあの頃、多分初めて声なき声の諭しを感じました。
”あらゆる宗教の根源にあるものを知りたくないか…さあ、一歩踏み出すがいい…
この学びは私がお前と一つとなるまで終らないんだよ…”
そしてすぐ私は教団とお別れしたのでした…。