人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生きた比較思想

2016-03-08 16:05:38 | 哲学・思想
手島郁郎先生は生涯実に多くの著名な海外の宗教家、学者などと出会われています。
ユダヤ系哲学者M・ブーバー、A・J・ヘッシェルを初め、E・ブルンナー、O・ピーパーらの欧米の神学者など…
では、その中で先生がもっとも感銘を受けた出会いは誰とのものだったのか?というと…
これが…S・ラダクリシュナンだったといいます。ヘッ!…この人はユダヤ=キリスト教とは直接関係無いです!この辺が如何にも手島先生らしいところでしょうか…
インドの元大統領にして宗教哲学者。インド哲学が専門でしたが東西の宗教思想の比較論にも業績を残しています。その時の彼の言葉の一部「教理やドグマをどれだけ持ってきても、それは私たちに必要でない。本当の真理に生き、神を生きている人間が、インドにも日本にも必要なのである」
手島先生が会われた時はまだ副大統領だったそうですが、先生はこの哲人の全存在から醸し出される言葉を超えた力に感応したようです。
私はこの命の交流のあらましこそが、生きた比較思想の成果ではないかと思っています。

我が国の比較思想の代表者の一人としては、仏教学を専門にしていた玉城康四郎先生がおられました。
先生に「比較思想論究」(講談社)という大著があり、ー私事ですが、これは一巻の本で私がもっとも高価(約3万円!)を払って18年くらい前入手したものですーこれはどこを開いても古今東西の宗教思想の根底にあるものが伝わってくるような、読む宇宙マンダラともいうべき趣が有ります。
比較思想と呼ばれるものの中には、自らある一つの宗教や思想に依拠して、他派を比較対象にして自派の、特殊性、優位性を論証しようと目論む向きもあります。
私はこういう種類のものには嫌悪感しか抱くことが出来ません!
これは比較論というより護教論と言った方が近いでしょう。元々普遍的なものとしてあるものの一部を切り取って、「ここがわが宗、主義の他に増して秀でたるところだ…」などと…”一体、井戸の中で何を宣わっているのか!”と言いたくなります。一方的に比較対象に利用された他派の者こそいい迷惑です!
そこで語られるどんなに高遠、深遠そうな言説に接しても私の魂は頷くことは絶対に有りません!
切れ端のようなものには命が通っていないからです。
ラダクリシュナンや玉城先生には、普遍世界に根差したものが伝わってきます。
宗教思想の現実世界の展開では、諸々の差異も事の優劣と捉えられる事象もあります。
しかし、その根底に流れているものと結びつくことで、生きたものとなるのです。

小池辰雄先生はちょうど玉城先生と同時代人であり、ともに東大教授でした。
小池先生はしかし比較思想がどうもキライだったようです。
ある講話で「比較思想なんてやってるヤツはダメだ!」とブチ挙げていたのに接した事が有りましたが、私はてっきり玉城先生を暗に批判しているのか?と思ったものでした。
熱烈なるキリスト者の小池先生がそのように言われるのも私なりに理解出来るところもあります。
それは前述した護教論的な意味ではありません。
おそらく”あれ”とか”これ”とか、比較的アプローチはともすれば悟性的に傾き、右顧左眄的になり、直接性に欠けるところが有るからでしょう。
でもこうしたある距離間を持った観方も、ファナチックに陥りやすい直接的アプローチの傾向を和らげるという面もあると思います。
別の小池先生の講話ではこんな話をしていました「こないだ面白い人から手紙をもらったよ! ”今の日本にこんなキリスト者がいたのか!”と共感してくれたよ! この人は宗教哲学者だけど、ただの学者じゃない! 体験に裏打ちしたことを言っているんだ…」と…この手紙の主こそ玉城先生なのでした!二人の私の人生の教師は、ともに言葉を超えたものを通じて共感しあえる仲だったのです。
多く語られなくとも、ここにも生きた比較思想の証が伺えるではありませんか…
生きた比較思想とは普遍世界からの音信を伝えるものなのです…。
















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