玉城康四郎先生の主著「ダンマの顕現」(大蔵出版)の初めに、先生の生い立ちから晩年に至るまでの精神的歴程が記されています。
改めてこれを味わってみるに、先生の歩みの端々に奇しき縁の執り成しというものが見出されます。
例えば先生の精神的探究の基底にある目覚めの原点ともいうべき東大在学時代の”爆発”覚醒体験などは、起こるべくして起きたことのように私には感じられます。
先生は熊本で真宗の家に育ったのですが、中学の時ある師の法座に連なった際、「私は興奮のあまり、どうして家に帰ったか覚えていない。気がついたら部屋の中をぐるぐる歩き回っていた」と述べられています。この言葉などは、実にその後の恩寵の訪れを予期させるではありませんか?
まだその年ごろでは、そんなに求道などに対し意識的なものは芽生えてなかったと拝察されますが、先生は既に言葉を超えたものを受信する感性に恵まれていた、と感じざるを得ません。
先生の求道の歩みで、その中心的なものは原始仏教の研鑽から導かれたブッダ直伝?の禅定(ある節で禅宗の禅から移行した)であったのは間違いなく、学問的にも深く究明されたのは、仏教の根源態ともいうべきブッダに顕わされ、展開された世界であったと思われます。
ただ先生はそれのみに止まらず、折々でインド、中国、日本と流れる仏教の諸潮流を初め、キリスト教を初めとした他宗教、近代インドの宗教思想(ヴィヴェカーナンダ、オーロビンド、クリシュナムルティ、ラダクリシュナン等)、カント、ハイデッガーなどの西欧哲学、ユングなどの心理学、近代科学からニューサイエンス…とちょっと前例がないくらい多岐にわたって探究を繰り広げています。
先生のどの著書を紐解いても、精神世界のパースペクティブな視界からの息づきというものが伝わってくるようです。
こうした先生の普遍性への希求を感じさせる精神性は、既に幼児の頃から養われていたようです。
閉鎖性の強い真宗の環境にあって、一時日蓮宗の乳母に育てられたといいます。
高校時代に禅に打ち込むことになったのも、元々こだわりが無く、又障壁を超えてしまうほど強い探究心が育てられていたのでしょう。
そしてその禅との縁で大学時代”奥野源太郎”というかけがえの無い師と出会います。
私はこの人(先生いわく”天才とはかくの如きものか…”)のことは、ほとんど知らないですが、どうも先生は直接的契機は無かったにせよ、この師を通じて形なき命の伝授を受けたのではないだろうか、という気がしてなりません。少なくとも先生はこの奥野師から言葉を超えたものを感じ取っているのは確かな事です。
この奇縁が前述の先生の”爆発”体験の一つの誘因となったとは言えないでしょうか?
何度か触れていますが、悟りとか覚醒というものは自分の力でどうなるというものではありません。
そこに至るまでには有形無形の縁というものが有る…という事を思わざるを得ません! 人物との縁は言うまでもないですが、何気なく読み出した一冊の本(先生の場合最初の爆発の契機になったのは”十地経”であり、二度目はデカルトの”方法序説”)である場合だってあるのです。
形なき命=ダンマが形を媒体にして生きハタラき、顕わになる…そこに一個人に帰せられる何ものも無い…全く本書の明らかにする通りです。
そして又それは、個人の所有となる質のものでない以上、所謂体験的なものは元の木阿弥となり、いつの間にか”なんてことない”日常に戻ってしまうのも必然的な事です。
でも、その体験されたものの奥にあるものは決して消えるというものでは無い…その事は玉城先生自身「目覚めてはあと戻りの繰り返し…それにも拘わらず禅定をやめる訳にはいかない…」と言われる、この精神の歴程が証していることです。
奥野師は若くして亡くなられるのですが、同じころ”足利浄円”という浄土系のもう一人の師と出会われています。
先生の歩みの一つの大きな転機は、なんと言っても原始仏典の参究から”業熟体”なるものに気付かされたことでしょう。「業熟体にダンマは浸透し、通徹してやまない…」という…これなどは、元々真宗の家で「物心つく前から親鸞の宿業の教えを聞かされていた」ことに加え、おそらくこの足利師からの影響というものも大きかったのではないかと思われます。この師とは出会いの瞬間「アッ、この先生だ!」と直覚したそうですから、やはり会うべくして会われる縁というものが有るのだな、と感じざるを得ません。
先生の生き様そのものが業熟体ー宇宙共同体であると同時に個の極みーの証なのでしょう…。
改めてこれを味わってみるに、先生の歩みの端々に奇しき縁の執り成しというものが見出されます。
例えば先生の精神的探究の基底にある目覚めの原点ともいうべき東大在学時代の”爆発”覚醒体験などは、起こるべくして起きたことのように私には感じられます。
先生は熊本で真宗の家に育ったのですが、中学の時ある師の法座に連なった際、「私は興奮のあまり、どうして家に帰ったか覚えていない。気がついたら部屋の中をぐるぐる歩き回っていた」と述べられています。この言葉などは、実にその後の恩寵の訪れを予期させるではありませんか?
まだその年ごろでは、そんなに求道などに対し意識的なものは芽生えてなかったと拝察されますが、先生は既に言葉を超えたものを受信する感性に恵まれていた、と感じざるを得ません。
先生の求道の歩みで、その中心的なものは原始仏教の研鑽から導かれたブッダ直伝?の禅定(ある節で禅宗の禅から移行した)であったのは間違いなく、学問的にも深く究明されたのは、仏教の根源態ともいうべきブッダに顕わされ、展開された世界であったと思われます。
ただ先生はそれのみに止まらず、折々でインド、中国、日本と流れる仏教の諸潮流を初め、キリスト教を初めとした他宗教、近代インドの宗教思想(ヴィヴェカーナンダ、オーロビンド、クリシュナムルティ、ラダクリシュナン等)、カント、ハイデッガーなどの西欧哲学、ユングなどの心理学、近代科学からニューサイエンス…とちょっと前例がないくらい多岐にわたって探究を繰り広げています。
先生のどの著書を紐解いても、精神世界のパースペクティブな視界からの息づきというものが伝わってくるようです。
こうした先生の普遍性への希求を感じさせる精神性は、既に幼児の頃から養われていたようです。
閉鎖性の強い真宗の環境にあって、一時日蓮宗の乳母に育てられたといいます。
高校時代に禅に打ち込むことになったのも、元々こだわりが無く、又障壁を超えてしまうほど強い探究心が育てられていたのでしょう。
そしてその禅との縁で大学時代”奥野源太郎”というかけがえの無い師と出会います。
私はこの人(先生いわく”天才とはかくの如きものか…”)のことは、ほとんど知らないですが、どうも先生は直接的契機は無かったにせよ、この師を通じて形なき命の伝授を受けたのではないだろうか、という気がしてなりません。少なくとも先生はこの奥野師から言葉を超えたものを感じ取っているのは確かな事です。
この奇縁が前述の先生の”爆発”体験の一つの誘因となったとは言えないでしょうか?
何度か触れていますが、悟りとか覚醒というものは自分の力でどうなるというものではありません。
そこに至るまでには有形無形の縁というものが有る…という事を思わざるを得ません! 人物との縁は言うまでもないですが、何気なく読み出した一冊の本(先生の場合最初の爆発の契機になったのは”十地経”であり、二度目はデカルトの”方法序説”)である場合だってあるのです。
形なき命=ダンマが形を媒体にして生きハタラき、顕わになる…そこに一個人に帰せられる何ものも無い…全く本書の明らかにする通りです。
そして又それは、個人の所有となる質のものでない以上、所謂体験的なものは元の木阿弥となり、いつの間にか”なんてことない”日常に戻ってしまうのも必然的な事です。
でも、その体験されたものの奥にあるものは決して消えるというものでは無い…その事は玉城先生自身「目覚めてはあと戻りの繰り返し…それにも拘わらず禅定をやめる訳にはいかない…」と言われる、この精神の歴程が証していることです。
奥野師は若くして亡くなられるのですが、同じころ”足利浄円”という浄土系のもう一人の師と出会われています。
先生の歩みの一つの大きな転機は、なんと言っても原始仏典の参究から”業熟体”なるものに気付かされたことでしょう。「業熟体にダンマは浸透し、通徹してやまない…」という…これなどは、元々真宗の家で「物心つく前から親鸞の宿業の教えを聞かされていた」ことに加え、おそらくこの足利師からの影響というものも大きかったのではないかと思われます。この師とは出会いの瞬間「アッ、この先生だ!」と直覚したそうですから、やはり会うべくして会われる縁というものが有るのだな、と感じざるを得ません。
先生の生き様そのものが業熟体ー宇宙共同体であると同時に個の極みーの証なのでしょう…。