人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

悟り=差取り

2016-03-01 12:52:03 | 覚醒
出版界を中心に精神世界ブームと言われ出して久しく、すっかり定着してしまった感もありますが、重要な事で未だにきちんと認識されてないことも結構あるように思います。
例えば、当たり前のように語られる”悟り”というもの…
私はこうした理由もあり、あまりこの言葉は使わないようにしてます。”覚醒”とか”一瞥”といった言葉には私もピンとくるものは有りますが、これらと悟りとは同じなのか、違うのか?
まあ、定義なぞどっちゃでもええ、といえばどっちゃでもええんですけど…
悟りといった場合、それは一時の”そうなっちゃった体験”なんてもんじゃなくて、それらより何ランクも上?の”ある境地に達しちゃった、俗人じゃなくなっちゃった”ことについて言われている気もします。
どちらにせよ、私は常々それらは一個人に帰せられるものじゃない、と言ってます。
ハッキリ言えることは、それらは個人の力でどうなるものじゃない、からです。
もっと根本的な事は…私は悟りの何たるかも分からないながらも、自分なりのイメージを借りて述べてみます。
”私は悟っているんです” ”私は最終解脱者…究極の境地に達しちゃったんです…”こういう事を臆面も無く言う人は限りなくクサイ人だということは学のある皆さんでしたらもうお分かりですよね。
じゃ、どういう人がホントに悟った人かというと…これはもう逆説的に言わないとなりません!
ホントに、ホントに”自分は悟ったとか特別な境地に居るんじゃなくて、悟っていないであろう衆生と何も変わらないんだ…”という事を心底、ごく自然に感じている人だと思います。(だから私は悟りとは程遠い…)
悟りとは”差取り”の事とは実に言い得た表現ですね。
悟後の修行というのは差取りに尽きるかと思います。
も一つ言えば、悟りとは”私”が”渡し”となることでしょうか…
私はただ垣間見せられた限りの理解から感じられることは、こうしたものの根底にあるのは普遍調和世界とのつながりではないか…という事です。
その心持というのは、どちらが上であるとか下であるとか、特別な何かだとかといった相対的な一切を超えた領域に安んじている、というところから来るのでしょう。
それは悟りというものにしばしば付けられる、”超越”といったイメージとは、一面違うように受け止められます。
逆説的に言えば、自分だけ超越境を目指すような目論見は、普遍調和とのつながりを絶ってしまう事ともなるかも知れないのです。
でも、別の一面では、”つながり”というのは、それ自体超越された世界でもある…
何のこっちゃ分からないでしょうけど、それは正しく普遍調和ならぬこの世を取り巻くありとあらゆる、しがらみ、縛り…といった業的領域からの全き自由、超越に違いないのです。
この人類的宿業というものこそは、私は普遍調和の裏表にあるものという気がしてます。
もっとも、それは裏表などという生易しいものじゃなく、天国と地獄のような究極的対極性のようではあります。
どうして我々はこんな宿業を背負わされて生きなければならないのか…
それは、個人でどうなるものじゃないです。悟りの契機と同じく…
個人が悟るんじゃない…”個人が有るから問題なのだ”と言って無くす必要もありません。
ただ個を超えたものに委ねるしかありません。
”悟りだ、目覚めだ…”って、もうそれしかない…
このバカバカしい現実世界にあっては…
自分じゃない、人類的なものの悟りともいうべきものを想起する他ありません。







コメント
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