”悟りとか覚醒ってのは、特別な事なの? あるエラそうな人は体験の無いヤツはダメだ!とか言っている。又あるニターッとした人は特別な事なんて無いんですよ~実はね、人は皆最初から悟っているんですよ~なんて言ってる、一体どっちが本当なの?”
この辺の観方の違いというのは、畢竟、目覚めをもたらすものが、我々の表面意識に伝わっているか、どうかということではないですか?
到達したり、獲得しなければならないというものではありません。
誰もが意識の深いところでは、大本の命とつながっている…それが表面意識を貫いて顕わになる事かとも言えると思います。
まあ、こういうことはスピ界では、よく語られていることなのでしょうけど…
私は日常の意識に伝わっていなくとも、サッパリ分からないという事は無い…その人なりに何がしかのことは知らさているだろう、と思っています。
私の場合はもう疑いようが無いです。あの体験以前から知らされていました。
キリスト教に触れていたという事もあり、確かにそれらが機縁になっていたのでしょうが、ただそうしたことを観念的に信じていただけで、リアルに心身に衝迫してくるものは感じなかったでしょう。
そして洪水のようにそのあるものが押し寄せて、防壁を決壊させるのは時間の問題だったと思います。
このあるものは、おそらく誰もが意識のどっかでは分かってるハズなんじゃないですか?
表面意識に対して、深層意識、潜在意識とか言いますが、それは硬い扉みたいなものでセパレートしているようなもんじゃないでしょう。
岩よりも鉄よりも硬いものは、その扉じゃなくて思いなんです。
ある人たちはとてもその覚醒などに預かることを熱望してます。
多分、それが如何に喜ばしきものであるかという事を本などで知っているのでしょう。
でも、元々そう感じさせる下地というものが自分に無ければ、共鳴も、熱望も生まれないものでしょう。
しかし、いつも言うように、その体験というものは個人の力でどうなるものでは無い…でも体験が有ろうが、無かろうが喜ばしき下地を感じられるという事が、どれだけ宿縁に恵まれていることか…と思います。体験そのものに捉われる事は薬物依存と隣り合わせのものです。
薬物に頼っている時は、歓喜に耽たれても、無ければ禁断地獄…
本当に魂が求めているものは既に有るものだし、無くなりません。
我々の意識の深層に通底しているものは、喜ばしきものと分かち難くあるという事なのです。
それはある節目に表に顕れる…いやそもそもが表に顕れるものなのだ…とも感じられます。
何故ならば、我々には表面意識と言われるものを背負っているから…
地下水は泉を通して地表に表れます。
地中に隠れている根は幹や枝となって実を結びます。
これは隠されているものは、表れる事になっているという仕組みのような事を言っています。
見えないものこそが真実で、見えるものは幻想という事は多分無いと思います。
本が有って末が有る、そのすべてが真実ということなのでしょう。
そして根というものには、出よう出ようというハタラキが有るものです。
その自然の発露に任せておけばいいのです。
春分も過ぎ、あちこちから春の便りが…。
この辺の観方の違いというのは、畢竟、目覚めをもたらすものが、我々の表面意識に伝わっているか、どうかということではないですか?
到達したり、獲得しなければならないというものではありません。
誰もが意識の深いところでは、大本の命とつながっている…それが表面意識を貫いて顕わになる事かとも言えると思います。
まあ、こういうことはスピ界では、よく語られていることなのでしょうけど…
私は日常の意識に伝わっていなくとも、サッパリ分からないという事は無い…その人なりに何がしかのことは知らさているだろう、と思っています。
私の場合はもう疑いようが無いです。あの体験以前から知らされていました。
キリスト教に触れていたという事もあり、確かにそれらが機縁になっていたのでしょうが、ただそうしたことを観念的に信じていただけで、リアルに心身に衝迫してくるものは感じなかったでしょう。
そして洪水のようにそのあるものが押し寄せて、防壁を決壊させるのは時間の問題だったと思います。
このあるものは、おそらく誰もが意識のどっかでは分かってるハズなんじゃないですか?
表面意識に対して、深層意識、潜在意識とか言いますが、それは硬い扉みたいなものでセパレートしているようなもんじゃないでしょう。
岩よりも鉄よりも硬いものは、その扉じゃなくて思いなんです。
ある人たちはとてもその覚醒などに預かることを熱望してます。
多分、それが如何に喜ばしきものであるかという事を本などで知っているのでしょう。
でも、元々そう感じさせる下地というものが自分に無ければ、共鳴も、熱望も生まれないものでしょう。
しかし、いつも言うように、その体験というものは個人の力でどうなるものでは無い…でも体験が有ろうが、無かろうが喜ばしき下地を感じられるという事が、どれだけ宿縁に恵まれていることか…と思います。体験そのものに捉われる事は薬物依存と隣り合わせのものです。
薬物に頼っている時は、歓喜に耽たれても、無ければ禁断地獄…
本当に魂が求めているものは既に有るものだし、無くなりません。
我々の意識の深層に通底しているものは、喜ばしきものと分かち難くあるという事なのです。
それはある節目に表に顕れる…いやそもそもが表に顕れるものなのだ…とも感じられます。
何故ならば、我々には表面意識と言われるものを背負っているから…
地下水は泉を通して地表に表れます。
地中に隠れている根は幹や枝となって実を結びます。
これは隠されているものは、表れる事になっているという仕組みのような事を言っています。
見えないものこそが真実で、見えるものは幻想という事は多分無いと思います。
本が有って末が有る、そのすべてが真実ということなのでしょう。
そして根というものには、出よう出ようというハタラキが有るものです。
その自然の発露に任せておけばいいのです。
春分も過ぎ、あちこちから春の便りが…。