こないだある集まりで、どういう経緯でか、共に女性の私の知り合いとその友人とで、死後の世界の話で盛り上がっておりました。
その友人は、そっち方面への興味が強く、いくらか霊感もあるようで「死んだらね、自分が会いたいと思っていた故人と会えるのよ、会いたいって思えば会えるのi」と、自信たっぷりに知り合いに語り、彼女も「そうなのi、母に会ってみたいわあi」とテンションが上がっていたのでした。
私は...「死んだ後のことは、死んでみなきゃ分からないですねえ...」とそれを下げるよなこと言ったかもしれませんが、「ま、そりゃそうだわ」ってことでその場は落ち着いたのです。
その後友人の方が帰って、知り合いと二人になった時、「こう、毎日暑いと意識がトビそうになって、あの世に足を踏み入れそうになるよ...あん時のようにねi...」と、今度は先の話が頭にあったのか、私の方からつい、そのあの世?(人生の裏側)を垣間見た時のことを話してみたくなったのでした。ホントはそれはあの世だか霊界だか分からないのですけど...
それで先の話の続きのように「あなたもお母さんに会いたいでしょ?」と訊かれたので、「いや、特に無いですねえ...最愛のものと会うことが出来れば、母ともそれはつながっているでしょうから...」と、数十年前のことも交えて話したのでした。
こういう話になると私は相手に"とらわれ"を持たせないように、言葉を選んだりして注意を払うのですが、瞑界のようなところで巡り会うという"最愛なるもの"について話が及べば、どうしたって聞き手は、"それは一体誰?、何i、ご先祖様?、守護霊様、神様..."と探りたくなってこようというもの...
私は例によって..."それは...分からないのですi"、と答えるしかありません。
世の人はどうしても、"然して、その実体は?"とそれが何であるか知りたくてしょうがないようなのです。
その心理は分からないでもありません。得体が知れないってのも確かでしょうし...それにこういう話だとどうしても彼女のように、何らかの"霊的存在"という固定観念を持ち勝ちになってしまうのもやむを得ないのでしょう。
ヘンな霊に惑わされるって例もあります(そういうものを感じたら徹底的に疑った方がいいです!)
「その"霊"は見えるんですか、聞こえるんですか?」「いや、見えも聞こえもしませんi」と言うんだから、余計そりゃ何だ?ってことになってしまうでしょう。
「それが何か知りたいと思わないのですか?」「思いませんi」
それが何かは分からないけど、疑いようのない、現存感というものがあります。リアリティ感...そして今生で味わったことの無い愛、平安...導かれ、守られているという感じ...
こういうことが感じられるということが、ホントにホントーに大きいことなのですi 本当の安心がある...だからそれが何なのか...知ろう、探ろうという気が起きてこないのです。
第一、もし、それが見えたり、聞こえたりするものだったら...それはそれだけ"とらわれ"を持ってしまうということになるじゃないですか?
おそらく、その愛、平安、リアリティといったものは、別様の自由を欠いたもののように感じられるでしょう。
だから...分からないものは分からなくていいのですi
考えてみれば、思考がマヒしてしまうんだから分からないのが当たり前なんです。けれども感じることは出来る...今生では味わうことが出来ないものを...
"今生では決して味わうことが出来ないi"
それは、世の多くの人が"考えている"ようなことなんですけどね...ホントは心の底ではみんな知っている...かもしれない?
その友人は、そっち方面への興味が強く、いくらか霊感もあるようで「死んだらね、自分が会いたいと思っていた故人と会えるのよ、会いたいって思えば会えるのi」と、自信たっぷりに知り合いに語り、彼女も「そうなのi、母に会ってみたいわあi」とテンションが上がっていたのでした。
私は...「死んだ後のことは、死んでみなきゃ分からないですねえ...」とそれを下げるよなこと言ったかもしれませんが、「ま、そりゃそうだわ」ってことでその場は落ち着いたのです。
その後友人の方が帰って、知り合いと二人になった時、「こう、毎日暑いと意識がトビそうになって、あの世に足を踏み入れそうになるよ...あん時のようにねi...」と、今度は先の話が頭にあったのか、私の方からつい、そのあの世?(人生の裏側)を垣間見た時のことを話してみたくなったのでした。ホントはそれはあの世だか霊界だか分からないのですけど...
それで先の話の続きのように「あなたもお母さんに会いたいでしょ?」と訊かれたので、「いや、特に無いですねえ...最愛のものと会うことが出来れば、母ともそれはつながっているでしょうから...」と、数十年前のことも交えて話したのでした。
こういう話になると私は相手に"とらわれ"を持たせないように、言葉を選んだりして注意を払うのですが、瞑界のようなところで巡り会うという"最愛なるもの"について話が及べば、どうしたって聞き手は、"それは一体誰?、何i、ご先祖様?、守護霊様、神様..."と探りたくなってこようというもの...
私は例によって..."それは...分からないのですi"、と答えるしかありません。
世の人はどうしても、"然して、その実体は?"とそれが何であるか知りたくてしょうがないようなのです。
その心理は分からないでもありません。得体が知れないってのも確かでしょうし...それにこういう話だとどうしても彼女のように、何らかの"霊的存在"という固定観念を持ち勝ちになってしまうのもやむを得ないのでしょう。
ヘンな霊に惑わされるって例もあります(そういうものを感じたら徹底的に疑った方がいいです!)
「その"霊"は見えるんですか、聞こえるんですか?」「いや、見えも聞こえもしませんi」と言うんだから、余計そりゃ何だ?ってことになってしまうでしょう。
「それが何か知りたいと思わないのですか?」「思いませんi」
それが何かは分からないけど、疑いようのない、現存感というものがあります。リアリティ感...そして今生で味わったことの無い愛、平安...導かれ、守られているという感じ...
こういうことが感じられるということが、ホントにホントーに大きいことなのですi 本当の安心がある...だからそれが何なのか...知ろう、探ろうという気が起きてこないのです。
第一、もし、それが見えたり、聞こえたりするものだったら...それはそれだけ"とらわれ"を持ってしまうということになるじゃないですか?
おそらく、その愛、平安、リアリティといったものは、別様の自由を欠いたもののように感じられるでしょう。
だから...分からないものは分からなくていいのですi
考えてみれば、思考がマヒしてしまうんだから分からないのが当たり前なんです。けれども感じることは出来る...今生では味わうことが出来ないものを...
"今生では決して味わうことが出来ないi"
それは、世の多くの人が"考えている"ようなことなんですけどね...ホントは心の底ではみんな知っている...かもしれない?