人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

私は在る

2020-08-07 11:43:40 | スピリチュアル
世の中に"これが本当の真理"という教えが数多あり、故にますます混迷を深める要因になってしまうものですが、何の教えを信じていようと、どんな生き方をしていようと、何人も知っており、感じており、受け入れざるを得ない有り様というものがあります。
それは、"私は在る"というものです。有り様と言いましたが、どう言い表していいか分からないのです。難しいですね。
しかし、これを感じられない、それは難しいというのは全くどうかしていると言わざるを得ません。
だったら、私もあなたもここに存在していません。こんな当たり前すぎることはありませんi
しかし、"私は在る"とはフツーは言いませんね。私は居るとか言うでしょう。
こんな訳で、言葉にすると面妖になりますが、存在って言いましたがそれは、"私は存在する"ということとは、微妙にニュアンスは異なります。それにつながるのは言うまでもないですが、存在に先立つものでしょう。
私という何かが存在する。それは肉体である。いやそれは見かけだけのもので、本当は霊体、微細体であると決めつけているが...
言いたいことは、"私は在る"とは、こういう存在論、そうであろうと予見するもの、又表現し得る文法をも全く超えているということです。
(どうでもいいようなことですが、ここは結構重要なポイントでして、英語の"ビーイングーbeingー"という単語は、動詞ともbe動詞とも名詞とも分けられないってことが、このことをよく表していると思います)
偏った光明思想の信者は、しばしば"肉体は無い、物質は無いi"、と決めつけて霊だとかを想定して、それを本体に帰着したりするものですが、肉体は有るとか無いとかは問題ではないのです。
又同様に非二元の信者の、"私という個は無くて、全体だけが有る"ということも、相対的な数多の真理の一つに過ぎなくなってしまうのです。
"私は在る"ことには、如何なる限定も無く、別の何かに帰されることもありません。
あるいは、この有り様は、"純粋意識にある状態"ということも言えるかもしれません。しかし、それは純粋意識に目覚める以前から、"在り"ますよi、...意識というものに限定出来るのだろうか? 要するに、純粋だろうと、表層だろうと、深層だろうと、"私は在る"ってことなのでしょう。
こういう風に、言葉にするとますます分からなくなりますが、熱中症になったことのある人ならこの消息は知らされているかもしれません。
それは、私が神の手がかかる"と呼んでいるものと似ているのですが、思考も、身体感覚もマヒして、自分は思考にも肉体にも限定されず、ただ"私は在る"と感じているだけの様態...ただ後者には症状に伴う"シンドサ"は無く、喩えようのない至福感が伴っているのです。
そう、それは純粋意識の目覚めと愛、平安と切り離されない、人間の本源的なものなのでしょう。
私の場合、かつて意識障害が起きたのか、突然意識が遠退き、あるいは錯乱状態に陥りそうになった時、必死に神に祈っていると、声なき声の"大丈夫だよ、私はここに在る"という導きにより、"私は在る"という状態を取り戻すことが出来たことが、ずっと現在にもつながって身に覚えられているのです。
そう、それは何人にも、どんな時にも取り戻せる、帰ることが出来るものなのです。それが何ものにも分割出来ない、我々の本性だからなのでしょう。
コメント
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