人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

忘れようったって、忘れられないi

2020-08-26 12:08:09 | スピリチュアル
前回に書いた私の知り合いの女性との会話で、私が「"人生の裏側"に足を踏み入れると、そこはたとえようの無い至福感に満ちており...」ってなこと話したら...「それは忘れることが出来ないのでしょうね?」と訊かれたので、私は当然のごとく「そi、そりゃ忘れようったって、忘れられませんよi」とフツーに返したのでした。
だけど、私が言ったことにはフツーの意味以外の含みを持たせていたのです。
フツーはそういう忘れられない記憶のことを言うものですね。体験として覚えられているものとかはそうですね。
だけど、そういうものは脳裏から離れることだってありますよ。
しかし、頭から消えたって、在るんだからしょうがありません。体の一部のように...しかし、こういうことを言い表す言葉が無いとキテるので、"身が覚えている"とか言うしかないのです。
身といっても、単純に肉体のことじゃないから、ああ、もうヤヤコシi...だけど、それは頭の記憶よりはるかに具体的で、恒常的に覚えられているのですi
その会話でも話したのですが、その歓喜溢れる体験も数日して元の木阿弥になり、それから何度も"ああ...あの歓喜の瞬間をもう一度i"と、望んでみたものの、どうしてそうなったかも分からないので、その術も見つけられないでいたのでした。
この間は身に覚えられておらず、先のような含みで言い表すことは、到底不可能だったのです。
ところが...皮肉なことに、もうそのような追体験を望むことを断念したことから、頭の中のことが溶けて、五臓六腑に染み渡るようにも身に覚えられるようになったのです。
こういうことは、自分自身からはそうならないもので、玉城康四郎先生の「目覚めの事態は全く個人のレベルを超えている、個人的意識に囚われたらその事態から外れることになる」という意味の言葉に触れたことが大きかったのです。
捉えよう、捉えようとすることは、即ち思いに囚われることに他なりません。
とらわれは自分からは中々離れられないものですが、自分を超えたものに捉えられて、自ずと落ちたりすることもあります。
そういうことに気付かされていたにも関わらず、尚も私は"究極の悟り"を目指そうなどと性懲りもなく囚われていたのでした。
それもこうしてブログを書いているうち、自ずと意識的にさせられるからなのか、いつの間にかどうでもよくなってしまったのでした。
よく悟り系スピなどでは、個我的思いから離れるために、"体験のことなど忘れた方がいい"、などと言うのですが..."在るもの"については無理だと思います。
"忘れようったって、忘れられないi"ものはどうしようもないでしょう。
コメント
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