人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

本当の安心

2020-08-06 12:11:21 | スピリチュアル?
"あなたという個人は居ないというのが本当の真理です。
あ、そうだったんですね、Aさん。何だか安心しました..."

ノンデュアリティというのは、我々の思いに纏わる、あらゆる定見から解き放ち、自由な在り方を示すものだと思っていたのですが、某有名スピ教師は、ブームが去ってもまだシツコクそう説き続けているのです。
そこには我見への固執、それへの安易な追従しか感じられません。教師と信者の共依存。
ご存じのように、宗教、スピ界隈にはずっとこういう構図が付きまとっているのです。
何故、そこで決めつけた言葉が取り交わされるのかというと、"安心"したいからでしょう。
神、霊、死、悟り、自分というもの...見えないもの、形なきものは分からないものだらけだからです。
しかし、なんとまあ、この界隈には定見、約束ごとで溢れかっていることでしょうi
"この教え、メソッドがあなたの救い、悟りを約束する"、"この未来予言が将来を約束する"
何も保証しない、不確定な世界は不安なので、そういう決めごとに取りすがろうとする訳です。多くの信者は直接確かめられないので、信じ込むしかありません。(そこに金銭的なものが絡んだりしたら立派な詐欺じゃないでしょうか?)
しかし、そうやって、本当に、心から、腑に落ちるように安心を得られるでしょうか?
目に見える安心、確たる実体、実証に適応させる在り方、感じ方というのは、全くこの物質的現世のみに囚われた意識状態を物語っていると言えるでしょう。
そこに本当の安心を得られそうもないことは、"自分には真実でも、他人にはウソかもしれない"、数多の定言がひしめいていることで分かりそうなものではありませんか?
そこで!...私が直接"人生の裏側"を垣間見て、強く言い表したいことは...そこには確たるもの、決まったものなどは、何一つ無いということですi 信じて納得出来るものもありません。
信じなくたってキョーレツに実感出来るのです。安心、平安がi
そして、この"直接性"から離れて確たるもの、安心を求めるところにその実感は失われる、ということが分かるのです。
本当の安心とは、何か動かないものを握りしめるようなことじゃなく、平安そのものなるものに握られ、ただそう在らしめられるようなことです。
こういうことは思いに囚われていたら分からないのです。
おおっと...この私の話もウカツに信じちゃならないということでもあるのですよi
本当のことはあなたが直接確かめるしかありません。
と言って又、何にも信じられない現世にあって、どうすりゃいいのか?
私は、私自身の神に寄り頼み、信じる他ありませんでした。
コメント
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