人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

生きがいとは?

2020-08-23 09:46:51 | 雑感
このブログの一番最初の記事にも関連したことを書いたのですが、これから書くようなことは言わば当ブログの基調と言ってもいいのです。
人は誰しも生きる上で、"生きがい"というものに肖ろうとし、それを求めるものですね。
しかし、何と多くの人はそれに"何を為すか、成すか"ということと結びつけていまうことでしょうi
そして、何らかの理由で、為そうとしたことが出来なくなると、生きがいの喪失を感じてしまったりするのでしょう。
又"使命感"といったものにとらわれ出すと、さらに"為さねばならないi"という思いも加わり、為せなければ、"自分は何のために生きているのか?"と自責の念に駆られたりします。
そういうことが悪いと言っているのではないですよ。今為していること、成したことで生きがいを感じることも勿論あるでしょう。だけど、そうでないことだってありますよi
"これをやるのが生きがいなんだi"、と思ってはいても、いざそれを為していても、心の底からそう感じられないこともあるのです。
その理由は、為すこと以前に、"自分自身の在り方"がどっかズレているためだったりするのです。それは、その生きがいを感じるというその具体的な行いと、生の根本的な在り方とのズレと言っていいかもしれません。
生きがいというものは、幸福と共にあるものでしょう。しかし、為すことで必ずしもそうならないとしたら...おまけに為せなければ、何か"重し"がのしかかってしまうとしたら...
もし、根本的なところで幸福に感じられなければ、何をやってもそう感じられなくなるはずです。逆も又真なり。
自分自身で在ることで幸福なら、何をやってもそう感じられるはずなんですi そして自分自身で在ることで幸福でない訳が無いのですi
それは生かされていることと言い換えてもいいでしょう。
大きく、深い人生の中で、"何を為すか"、"成したか"ということはごく一部分のことに過ぎません。人生に見切りなど自分ではつけられないのですi
私は人生の裏側へ足を踏み入れてしまった人間...そこでは何も考えられず、何も為し得なかった...しかし、そこには到底今生で味わえないような生の充足感があったのですi
だけど、私はそういうことになる以前から、そのことは何となく知らされていましたよ。(思われたままでないということは、何と思った通りのものであることかi)
自分本来の在り方のことは、小鳥の囀ずり、縁側で"ねこ"ろんでいる猫などに触れてみれば、何か感じてこないでしょうか?
何もしなくても幸福に感じられたなら、そのことに意識を向けてみる...すると自然と向けられちゃうということが分かってくるでしょう。それが自然な在り方なのだから...
これは、人生そのものの基調なのですi
そういうことにこそ、"ああ、生きていた甲斐があったi"、と感じるのではないでしょうか?
コメント
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