精神的な道について、いつも感じ、言っていることは、ただ観念的に思ったり、考えたり、信じたりしてても何にもならないということです。
あなたという個人が居るとか居ないとか、神は存在するとか、しないとか、この教えを信じたら救われると信じて、"救われたと信じた"とか...大体は人の言葉を信じているのですが、まるで、観念の世界で地球を一回りして戻って来るようなような話ではありませんか。
宗教やスピには短絡的に信じ込んでしまう人が付き物ですが、そういう思いのクセの強い人はどんどん悟るどころか、本心から離れて行ってしまうものです。
このことが分からない人は、例えば"思いというものは無くさなければならない"、"肉体も想念も消さなければ悟ることが出来ない"、ということさえ決められた命題のようなものにして信じ、そういうドグマにずっと思いが囚われたままでしょう。
何故、こういうことが起こるのでしょうか? 一つには世間の生き方として、"考え方"というのがあって、それに則らなければならない、という風に刷り込まれているからでしょう。
だから考え方を変えなきゃならないんですi...つったって、そんなん、ある考え方や信仰から別のそれに変わるだけで堂々巡りだっつーのi
考え方というのも勿論必要ですよ。そっからおおよその見取りとか一定の理解とかが出てきます。
だけど、そっから先、一歩踏み込みたい向きには全く質の違う在り方が求められます。
これは、世間ではほとんど呼び慣らわされていないことで、宗教、スピでは、当たり前すぎるほど欠くことの出来ないものです。それは何か?...(もう、言っちゃってるほど当たり前のこと)"在り方"ですi
変えなきゃならないのは在り方なのですi
どうして同じように道を歩んでいながらも、ある人は思ってるだけでなく、"そうなっちゃった"り、ある人はずっと思い、迷い続けて堂々巡りしてたりという違いが生まれてくるのでしょうか?
これは在り方の問題、違いと言えるでしょう。しかし、精神的道では何と、この根本的なものが蔑ろにされて、あの教えがどうとか、こうとか観念的なことばかりが取り沙汰されてきたことでしょうi
ただ、それは言葉で表すにはとても難しいのは確かなことです。しかし、実際の有り様は、難しいも何もありゃしませんi..."ここに生きている"という在り様があるだけなのですから...
そこで、自分自身の在り方というものを知りたいのでしたら、徹底的に自分に問うてみたらいいでしょう。(他人事じゃないですよi 自分自身のこと...ここが大きいことなのですi)
"自分はどう在りたいのか?"...そこで"考え方"におもねっていてはダメi...ってことは別に無いですが、もし、そうなってしまうとしたら、それがあなたの"考える在り方"ということなのでしょう。
在り方そのものには、本来良いも悪いもありません。ただ、ここで言っていることは、あなたが観念的なことに留まらずに、もっと確信に触れたいという在り方に照らせば、いつまでも観念の沙汰にしている在り方は間違っているということなのです。
結局、在り方というのは本来的に向かわせられるということ、ある意味で"好きか、どうか"ということに関わっているのでしょう。
そして、"私はこう在りたいi"ということがハッキリしたら...自ずと意識は思いから離れてそっちに向くでしょう。
意識が向くとか、向いちゃうというのは、考え方でなしに在り方の問題なのです。
あなたという個人が居るとか居ないとか、神は存在するとか、しないとか、この教えを信じたら救われると信じて、"救われたと信じた"とか...大体は人の言葉を信じているのですが、まるで、観念の世界で地球を一回りして戻って来るようなような話ではありませんか。
宗教やスピには短絡的に信じ込んでしまう人が付き物ですが、そういう思いのクセの強い人はどんどん悟るどころか、本心から離れて行ってしまうものです。
このことが分からない人は、例えば"思いというものは無くさなければならない"、"肉体も想念も消さなければ悟ることが出来ない"、ということさえ決められた命題のようなものにして信じ、そういうドグマにずっと思いが囚われたままでしょう。
何故、こういうことが起こるのでしょうか? 一つには世間の生き方として、"考え方"というのがあって、それに則らなければならない、という風に刷り込まれているからでしょう。
だから考え方を変えなきゃならないんですi...つったって、そんなん、ある考え方や信仰から別のそれに変わるだけで堂々巡りだっつーのi
考え方というのも勿論必要ですよ。そっからおおよその見取りとか一定の理解とかが出てきます。
だけど、そっから先、一歩踏み込みたい向きには全く質の違う在り方が求められます。
これは、世間ではほとんど呼び慣らわされていないことで、宗教、スピでは、当たり前すぎるほど欠くことの出来ないものです。それは何か?...(もう、言っちゃってるほど当たり前のこと)"在り方"ですi
変えなきゃならないのは在り方なのですi
どうして同じように道を歩んでいながらも、ある人は思ってるだけでなく、"そうなっちゃった"り、ある人はずっと思い、迷い続けて堂々巡りしてたりという違いが生まれてくるのでしょうか?
これは在り方の問題、違いと言えるでしょう。しかし、精神的道では何と、この根本的なものが蔑ろにされて、あの教えがどうとか、こうとか観念的なことばかりが取り沙汰されてきたことでしょうi
ただ、それは言葉で表すにはとても難しいのは確かなことです。しかし、実際の有り様は、難しいも何もありゃしませんi..."ここに生きている"という在り様があるだけなのですから...
そこで、自分自身の在り方というものを知りたいのでしたら、徹底的に自分に問うてみたらいいでしょう。(他人事じゃないですよi 自分自身のこと...ここが大きいことなのですi)
"自分はどう在りたいのか?"...そこで"考え方"におもねっていてはダメi...ってことは別に無いですが、もし、そうなってしまうとしたら、それがあなたの"考える在り方"ということなのでしょう。
在り方そのものには、本来良いも悪いもありません。ただ、ここで言っていることは、あなたが観念的なことに留まらずに、もっと確信に触れたいという在り方に照らせば、いつまでも観念の沙汰にしている在り方は間違っているということなのです。
結局、在り方というのは本来的に向かわせられるということ、ある意味で"好きか、どうか"ということに関わっているのでしょう。
そして、"私はこう在りたいi"ということがハッキリしたら...自ずと意識は思いから離れてそっちに向くでしょう。
意識が向くとか、向いちゃうというのは、考え方でなしに在り方の問題なのです。