私がいつも言っている、"意識を向ける"とかいうことには、確立されたやり方、メソッドというのは無いのです。
私が知らないだけで、そういうメソッドというのもあるのかもしれませんが...どうも私にはそういうのは不自然なものに思えて仕方ありません。
そう、それはごく自然になんとなーく、そうなってしまうようなことなのです。といっても、その感じは実にハッキリと、アリアリとしたものなのですが...
分かっている人には自明なことですが、意識の在り方というのは、それくらい実に人生そのものの根本に関わることと言っても過言ではないのですi
然るに、人生においては、多く"考えること"か"行うこと"しか無いかのようにしか"思われてない"というのは何としたことかi..."在ること"を抜きにして、その人間も存在すらしないというのに...
このことに気付いたなら、もう意識的にならざるを得ないというもの...で、何を?...と、地球を一周してしまう訳なんですが...
考えててもしょうがないので、本でも読もうかと思い、ここに2冊の本があります。
どっちの本にしようか? どっちが役に立つのか、どっちが単純に面白いのか迷いますね。(如何に我々は表層的な、本質的でない思考に振り回されているかということに気付かなければなりません)
ここで、そういう諸々の想いを脇へ置いてみて(考えないで)、2冊の本を目次をめくるなりしつつ、単純に意識してみる(これは重要なことで、それは念じたり、イメージしたりすることとは違います)。すると考えようとしなくとも、自ずと思考が離れてゆく感じになってゆく...そうさせるものが立ち上ってくる...
そして、自ずとどちらかの本に何か光が当たっているような感じになり、それと共に意識がそっちに動くというか、何か深まってゆくように感じられます。
すると、その感じは、役に立つとかナントカといった諸々の思いに隠れながらも、心の奥で感じていたものと一つのもののように感じてきます。
そこには、より自分が自分で居られるような、愛、幸福感、リアリティが感じられる。
そうなると、どっちの本を選ぶかは、もう選択の余地が無い...
こうして私の本心は、本を通じて自分が自分らしくなることを望んでいた、という"私の在り方"が分かったのでした...。
と、まあ、これが意識を向けると、パッとなるという消息の一端を描いた(夏休み特別企画か何かで秘伝を公開している?)ものなのですが、ここではその意識が自ずと向いちゃう、何かがあるということが感じられるでしょう。
これを意識してみると自ずと感じられて来ると思いますよ。それは自分の中に元々ある(私は在る)とも言えるし、それが見つけにくいのであれば、思いの彼方から現れるもの(現臨)のように感じたりします。この例では本の中にその媒体が隠れているかもしれないのです。
"意識を向ける"という、あるいは"考えない"という、最初の取っ掛かりとして、人為的な意志を働かせたりするのですが、後は自動的に思いを超えたものの方が無為的に運んでくれるのです。こういうものは自動的な"意識の動き"として感じられるのですが、人為的なものに依らずとも、自ずと意識が向けられ、思考が離れてゆくということです。
そして、愛、平安、リアリティといったものは獲得するものでなく、生来的に与えられているものということが分かるのです。(心の奥で感じていたもの)
読書というものを例にしてみたのですが、私の経験でも、こういうことは結構あるものです。本を読むことは、考えることだとばかり思われ勝ちですが、それは思いを超えたものとの出会いの場でもあると私は思います。そういう時は考えているというより、意識的になっていると言っていいでしょう。
その他、出会いの場所は様々...それは他ならぬ自分自身との出会いでもあるでしょう。
そうして、本当の自分らしい、自分自身の在り方が示されるのです。
どうしてこういうことに確立されたメソッドのようなものの必要を感じないか...人為的なものになって、不自然になってしまうのと、画一されたあなたも私も存在しないからでしょう。
私が知らないだけで、そういうメソッドというのもあるのかもしれませんが...どうも私にはそういうのは不自然なものに思えて仕方ありません。
そう、それはごく自然になんとなーく、そうなってしまうようなことなのです。といっても、その感じは実にハッキリと、アリアリとしたものなのですが...
分かっている人には自明なことですが、意識の在り方というのは、それくらい実に人生そのものの根本に関わることと言っても過言ではないのですi
然るに、人生においては、多く"考えること"か"行うこと"しか無いかのようにしか"思われてない"というのは何としたことかi..."在ること"を抜きにして、その人間も存在すらしないというのに...
このことに気付いたなら、もう意識的にならざるを得ないというもの...で、何を?...と、地球を一周してしまう訳なんですが...
考えててもしょうがないので、本でも読もうかと思い、ここに2冊の本があります。
どっちの本にしようか? どっちが役に立つのか、どっちが単純に面白いのか迷いますね。(如何に我々は表層的な、本質的でない思考に振り回されているかということに気付かなければなりません)
ここで、そういう諸々の想いを脇へ置いてみて(考えないで)、2冊の本を目次をめくるなりしつつ、単純に意識してみる(これは重要なことで、それは念じたり、イメージしたりすることとは違います)。すると考えようとしなくとも、自ずと思考が離れてゆく感じになってゆく...そうさせるものが立ち上ってくる...
そして、自ずとどちらかの本に何か光が当たっているような感じになり、それと共に意識がそっちに動くというか、何か深まってゆくように感じられます。
すると、その感じは、役に立つとかナントカといった諸々の思いに隠れながらも、心の奥で感じていたものと一つのもののように感じてきます。
そこには、より自分が自分で居られるような、愛、幸福感、リアリティが感じられる。
そうなると、どっちの本を選ぶかは、もう選択の余地が無い...
こうして私の本心は、本を通じて自分が自分らしくなることを望んでいた、という"私の在り方"が分かったのでした...。
と、まあ、これが意識を向けると、パッとなるという消息の一端を描いた(夏休み特別企画か何かで秘伝を公開している?)ものなのですが、ここではその意識が自ずと向いちゃう、何かがあるということが感じられるでしょう。
これを意識してみると自ずと感じられて来ると思いますよ。それは自分の中に元々ある(私は在る)とも言えるし、それが見つけにくいのであれば、思いの彼方から現れるもの(現臨)のように感じたりします。この例では本の中にその媒体が隠れているかもしれないのです。
"意識を向ける"という、あるいは"考えない"という、最初の取っ掛かりとして、人為的な意志を働かせたりするのですが、後は自動的に思いを超えたものの方が無為的に運んでくれるのです。こういうものは自動的な"意識の動き"として感じられるのですが、人為的なものに依らずとも、自ずと意識が向けられ、思考が離れてゆくということです。
そして、愛、平安、リアリティといったものは獲得するものでなく、生来的に与えられているものということが分かるのです。(心の奥で感じていたもの)
読書というものを例にしてみたのですが、私の経験でも、こういうことは結構あるものです。本を読むことは、考えることだとばかり思われ勝ちですが、それは思いを超えたものとの出会いの場でもあると私は思います。そういう時は考えているというより、意識的になっていると言っていいでしょう。
その他、出会いの場所は様々...それは他ならぬ自分自身との出会いでもあるでしょう。
そうして、本当の自分らしい、自分自身の在り方が示されるのです。
どうしてこういうことに確立されたメソッドのようなものの必要を感じないか...人為的なものになって、不自然になってしまうのと、画一されたあなたも私も存在しないからでしょう。