「人間は自分の頭の中で想像した神に満足してはなりません。何故なら(神に対する)想像が消え失せるにつれて、神も消え失せるでしょうから。むしろ我々は本質的な神を持たねばなりません。このような神は、人間の想像とあらゆる被造物の想像をはるかに越える方なのです」
(マイスター.エックハルト「神の誕生」/エンデルレ書店刊)
中世ドイツの神秘思想家マイスター.エックハルトの本を久しぶりに読んでみました。
初めて読んだのは40年ほど前で、とにかくものすごく心が揺さぶられたのを、昨日のことのように覚えています。
何をどう、理解したかはともかく...いや、簡単に理解した、分かったなどと言ってはいけないのでしょう。ことに神については...
エックハルトは、修練を通して、我意から離脱することで、神との一致の道が開かれると説いているのですが、その修練の具体的な方法などについては述べられていません。
それは、残された彼の言葉から伺えるように、当時、修道院で広く行われていたであろう、断食、徹夜といった厳しい規則や苦行に則ったものでは無かったのは明らかです。何故ならばそれも我意から来るものだからです。
彼が強調するのは、専ら神そのものを求めることにあったのです。その神は、外的な像ばかりでなく、心に描かれる如何なる像からも離れたものでなくてはならないと言います。
「誰かがある一つのものを熱心に愛する時、彼はそのもの以外の何をも心に留めないでしょう。...彼が愛しているものは、彼の内から決して消え失せません。それはどこにいても誰と一緒にいても、何を始めても事情は全く同じです」(同書)
つまり、我々がこの我意からの離脱を可能にするものは、我々の努力に依るのではなく、最愛なるもの、思いを超えた神的なものに依るのに他ならないのです。
"神的なもの"...彼は容易に"心の像"と結び付く"神"という言葉に対して、"神性"ということを言って、区別していました。
それは、我々の思いを超えた、心の底、絶対無の領域であり、そこで出会う神は言い表すことは出来ない...
西欧キリスト教社会で、これほど"直接的に"無の道を切り開いた人を私は知りません。
もはや、ここには信仰も修行もありません。
...と、こう書いてみて思うことは、私の精神には、ずっとこのような道念みたいなものが息づいていた、ということです。
私が日頃言っているものの"元ネタ"はここにあったのか、と自分でも思うくらいです。
しかし...ただ、借り物だろうが何だろうが、字面を追うだけでいつもあんなこと書けるか、ってんですよi...これは、あの時心が揺さぶられたから、自然に言葉が出て来てしまうということなのでしょう。
どれだけ分かって言っているのかはともかく...分かったつもりになったら、何も分かっていないということは分かっている(つもり)です...。
エックハルトの書物は手に入り易いものは、他に講談社学術文庫「神の慰めの書」、岩波文庫「エックハルト説教集」がありますが、私が最初に読んだ上のものは、分量は少ないですが、とても読み易く意味は分からないが、すーっと読めたのでした。
(マイスター.エックハルト「神の誕生」/エンデルレ書店刊)
中世ドイツの神秘思想家マイスター.エックハルトの本を久しぶりに読んでみました。
初めて読んだのは40年ほど前で、とにかくものすごく心が揺さぶられたのを、昨日のことのように覚えています。
何をどう、理解したかはともかく...いや、簡単に理解した、分かったなどと言ってはいけないのでしょう。ことに神については...
エックハルトは、修練を通して、我意から離脱することで、神との一致の道が開かれると説いているのですが、その修練の具体的な方法などについては述べられていません。
それは、残された彼の言葉から伺えるように、当時、修道院で広く行われていたであろう、断食、徹夜といった厳しい規則や苦行に則ったものでは無かったのは明らかです。何故ならばそれも我意から来るものだからです。
彼が強調するのは、専ら神そのものを求めることにあったのです。その神は、外的な像ばかりでなく、心に描かれる如何なる像からも離れたものでなくてはならないと言います。
「誰かがある一つのものを熱心に愛する時、彼はそのもの以外の何をも心に留めないでしょう。...彼が愛しているものは、彼の内から決して消え失せません。それはどこにいても誰と一緒にいても、何を始めても事情は全く同じです」(同書)
つまり、我々がこの我意からの離脱を可能にするものは、我々の努力に依るのではなく、最愛なるもの、思いを超えた神的なものに依るのに他ならないのです。
"神的なもの"...彼は容易に"心の像"と結び付く"神"という言葉に対して、"神性"ということを言って、区別していました。
それは、我々の思いを超えた、心の底、絶対無の領域であり、そこで出会う神は言い表すことは出来ない...
西欧キリスト教社会で、これほど"直接的に"無の道を切り開いた人を私は知りません。
もはや、ここには信仰も修行もありません。
...と、こう書いてみて思うことは、私の精神には、ずっとこのような道念みたいなものが息づいていた、ということです。
私が日頃言っているものの"元ネタ"はここにあったのか、と自分でも思うくらいです。
しかし...ただ、借り物だろうが何だろうが、字面を追うだけでいつもあんなこと書けるか、ってんですよi...これは、あの時心が揺さぶられたから、自然に言葉が出て来てしまうということなのでしょう。
どれだけ分かって言っているのかはともかく...分かったつもりになったら、何も分かっていないということは分かっている(つもり)です...。
エックハルトの書物は手に入り易いものは、他に講談社学術文庫「神の慰めの書」、岩波文庫「エックハルト説教集」がありますが、私が最初に読んだ上のものは、分量は少ないですが、とても読み易く意味は分からないが、すーっと読めたのでした。