五井先生の信者には、祈りにせよ瞑想にせよ、先生がその両方を合わせたような"統一行"を誘導していたテープを聴かないとならない、と信じ込んでいる向きがあります。
そのすべての人がそうではない、と思うのですが、何とも不自由な在り方と言わねばなりますまい。これは本当に初心者ならともかく、先生自身がそういう指導をしていたのでしょうか?
その主たる理由が、実修中、幽界からの障りを受けるからだと言うのです。その行以外の修行法は、そういうことに陥る、と本気で信じているのでしょうか?
私は長年、そのやり方を行じてきた信者で、何か憑霊的なことになっている人を知っているのですが、私にはその人は、既にそういう"幽界の何かがとり憑く"、という固定観念に憑かれているように見受けられました。
本当に邪なる霊の障りというものがあるか、どうかは私には分かりませんが、ここに"憑かれる"ことの本質的な問題が存在しているように思われます。
つまり思いに憑かれる、囚われるということです。一体、"消えてゆく姿"の教えというのはどこへ消えて行ったのでしょうか?...
こういうところから、神的なものにつながる道は、けっして開かれることはないでしょう。
テープを聞かなければならない、その機器を備えなければならない、巻き戻しをしなければならない、"後、そう、そう"...お祓いをしなければならない...神とつながるのに一体、どんだけ段取り、段構えを要するのでしょうか? そこには自己と神的なものに乖離がある...直接的でない、つまり思いが超えられないということです。
神的なものとの接触には、"神機"というものがあるのです。それは風のようにやって来て、風のように去って行くものです。
それに与るには、やり方もへちまもなく、自由、無勝手、素のまま飛び込むといった、即応性が求められるのです。
五井先生は面倒だったり、急を要する場合には、パッと五井先生を呼べ、というか、意識を向けなさい、と説いていたのですが、これはこういうことを伝えていたのでしょう。
やんなきゃならないことに囚われてたり、あれは幽界の障りだったらどうしよう、とか考えているうちに、風は通り過ぎてしまうことでしょう。
"即する"ということは、同時に自己と神的なものとが、切り離されない、正に即した意識の在り方でもあります。
それは神と自己への深い信頼から生まれるのです。幽界のなんちゃらとかに思いが引っ掛かってたら、いつまでも経っても開かれる道理などありません。
(勿論、見えない世界に関わるには、"幽界ごと"でなくとも、いくつか危険は付きまとうものです。だから神への信頼、感謝の念は、深く持ち続けなければならないのは言うまでもありません)
要するに、こういう在り方が諸々の思いを超えた、神的なものにつながる在り方、ということに他ならないのです。
これは、くどいようですが、それ以外のものに容易く脱線する、第二義以下の思いに囚われることなく、"神そのものを求めるに如かず"、ということになるでしょう。
そのすべての人がそうではない、と思うのですが、何とも不自由な在り方と言わねばなりますまい。これは本当に初心者ならともかく、先生自身がそういう指導をしていたのでしょうか?
その主たる理由が、実修中、幽界からの障りを受けるからだと言うのです。その行以外の修行法は、そういうことに陥る、と本気で信じているのでしょうか?
私は長年、そのやり方を行じてきた信者で、何か憑霊的なことになっている人を知っているのですが、私にはその人は、既にそういう"幽界の何かがとり憑く"、という固定観念に憑かれているように見受けられました。
本当に邪なる霊の障りというものがあるか、どうかは私には分かりませんが、ここに"憑かれる"ことの本質的な問題が存在しているように思われます。
つまり思いに憑かれる、囚われるということです。一体、"消えてゆく姿"の教えというのはどこへ消えて行ったのでしょうか?...
こういうところから、神的なものにつながる道は、けっして開かれることはないでしょう。
テープを聞かなければならない、その機器を備えなければならない、巻き戻しをしなければならない、"後、そう、そう"...お祓いをしなければならない...神とつながるのに一体、どんだけ段取り、段構えを要するのでしょうか? そこには自己と神的なものに乖離がある...直接的でない、つまり思いが超えられないということです。
神的なものとの接触には、"神機"というものがあるのです。それは風のようにやって来て、風のように去って行くものです。
それに与るには、やり方もへちまもなく、自由、無勝手、素のまま飛び込むといった、即応性が求められるのです。
五井先生は面倒だったり、急を要する場合には、パッと五井先生を呼べ、というか、意識を向けなさい、と説いていたのですが、これはこういうことを伝えていたのでしょう。
やんなきゃならないことに囚われてたり、あれは幽界の障りだったらどうしよう、とか考えているうちに、風は通り過ぎてしまうことでしょう。
"即する"ということは、同時に自己と神的なものとが、切り離されない、正に即した意識の在り方でもあります。
それは神と自己への深い信頼から生まれるのです。幽界のなんちゃらとかに思いが引っ掛かってたら、いつまでも経っても開かれる道理などありません。
(勿論、見えない世界に関わるには、"幽界ごと"でなくとも、いくつか危険は付きまとうものです。だから神への信頼、感謝の念は、深く持ち続けなければならないのは言うまでもありません)
要するに、こういう在り方が諸々の思いを超えた、神的なものにつながる在り方、ということに他ならないのです。
これは、くどいようですが、それ以外のものに容易く脱線する、第二義以下の思いに囚われることなく、"神そのものを求めるに如かず"、ということになるでしょう。