人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

神そのものを求めるに如かず

2021-01-10 09:49:48 | 
"神に祈る"と言います。
病の平癒、恋愛成就から大は世界平和に至るまで...
しかし、その願いはどれだけ神そのものに向けられているのでしょうか?
神はその願望成就のためのダシに使われているのではないでしょうか?
祈りという形でなくとも、神の力を利用しようという向きもあります。
例えば、悟りや覚醒を得るためとか...確かにそれには神の力、ハタラキというものが不可欠なのかもしれません。
私も長い間そういうことに囚われていました。"神というよりかはそうした霊的な、不可知のエネルギーが存在(これを私は疑うことが出来ませんが...)していて、それに如何に接触し、取り込むか、それが意識に浸透したら覚醒出来るのだ"、とか。
しかし、その力は例えば愛というものと切り離されて捉えられたりもするものです。
端的に、神に意識を向けなくともそれはハタラくことが出来るでしょう。エネルギー、パワーといったものが一人歩きしたら、如何に危険なことか...自分自身が、いや世界全体が焼き付くされないとそのことに気付けないのでしょうか? 
このように、神そのものから切り離されると、その主眼(願)にあったものが一人歩きし始めるのです。
このことは、神を語る宗教やスピに顕著に表れているのではないでしょうか?
そこで信じられているのは人間教祖であり、人がそう言っている神なのです。人が方便として設えた修行方法なのです。
何度も言うように、神から切り離されるや、信仰のための信仰、修行のための修行が繰り返されるだけなのです。
私は、ここで多くの人に盲点となっているであろう、もっとも人間的にして、根本的な問題に触れているつもりです。
即ち、"神そのものを求めるに如かず"、"神そのものが主眼i"、なのだ、と。
そりゃ、私も人間をやっている身ですから、苦難からの救われ、今でしたらコロナの終息のことなどを神に祈ったりもしますよ。それが人情というものでしょう。平安が与えられますように...と。
して、神に祈ったら、平安を呼ぶ何かが現れたり、神が現れて、平安を与えてくれるのでしょうか?
いいや、そうして神に意識が向く、神を求めること自体が、平安にあるということなのですi (こりゃ、ホントにホント~に驚くべきことなんだi)
このことは、こうしてそういうことを書いていることで、何度も経験していることなのです。(だから何度も書いている次第i)
これは、"霊的なエネルギーを発現させることが先決だi"、とやっていることよりはるかに即応しているし、ズレの無いことなのです。
神そのものに向かうことにはズレが無いi 神はオールマイティなのだから...
そうは言っても神は見えないし、捉えられないではないか?、というのが人間的な問題ではあるでしょう。
でも、深遠な神体験を求めずとも、単純な神への感謝でもいい、意識を神そのものに向けていたら、自ずと、いつのまにか平安に導かれることを私は信じて疑いません。
そこから、私の神の道は開かれたのは確かなことなのです。
コメント (2)
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