今度カテゴリーに「神」を加えることにしました。
今さらという感じなんですけど、ここ最近バカの一つ覚えのように神について書かされているようだし...
改めてなんですけど、神というのは、ひどく抽象的で、捉えどころのないものですね。
考えれば考えるほど、掴もうとすれば掴むほどそうなる...これは既に我々の現前に神的なものは、お在さなくなってしまったことを意味しているに他ならないのです。
もし、それが我々に現存するのであれば、我々は既に神に捉えられているだろうから...これに捉えられてみれば、これほど具体的で、アリアリと感じるものは無いといっていいくらいなのです。
神はこのように知的概念によって知ることは出来ません。それは思いを超えたものだから...それは、それ御自ら臨むことで知ることが出来るのです。
我々が神を慕い求め、神が御自ら現れ、臨み、導きたもうことは、ごく自然な流れと言ってもいいでしょう。ああ...神を切に待ち望むものに神が応えたまわないことなどあるでしょうか?
私が現臨、見えざる導師、照明、聖霊等々と言ったりしているものは、すべて神的なもののことを言い表しているのに他なりません。
というより神は、私の、人間の、世界の、宇宙のすべてに関わっていると言ってもいいでしょう。
神をこのように(直接)知ることは、本当の自分を知るということと一つのことなのです。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、正に"神、導師、真我は一つのもの"、と言えるのです。
以前の私は、あまり"神、神"と言うことに躊躇いを感じていました。
それは、先のように書く方にも、読み手にも漠然とした感じをもたらしてしまうように思えたのと、過去の宗教のように、二元的な印象を与えてしまうと思ったからです。
"新たな道はノンデュリアリティだi"、などと一寸、非二元の教えにカブレていたところがあったのです。
しかし、そうあろうと、信じ、従おうとする自分が居て、向こうに見て、そう合わそうとするような分離した在り方に、ノンデュリアリティのへちまもありゃしません。そして、今やあれらは一時の過ぎ去ったブームだったとの感があります。
真実は、一元も二元もなく、我々が求めるそのものに自然に会わされ、合わされてゆくということがあるだけでしょう。
そして、古来から悟りや救いということは、宗教的な道、即ち神的なものへの帰依と切り離されたものではなかった、という事実を知るべきなのです。
私が書いているものには何ら特別なものはありません。古来より宗教的な道で、先師たちが言い伝えてきたものばかりです。
(過去のものになったように見える)宗教で説かれてきた神は、我々の思念に取り込まれて、生きたものでなくなったに過ぎません。
しかし私は、"神は今もなお人の思いを超えて、アリアリと我々の現前に生きたもうi"、ということ、"神の道は、いつでも古くて、新しいのである"、ことを伝えずにおれない気持ちからかく記している次第なのです。
今さらという感じなんですけど、ここ最近バカの一つ覚えのように神について書かされているようだし...
改めてなんですけど、神というのは、ひどく抽象的で、捉えどころのないものですね。
考えれば考えるほど、掴もうとすれば掴むほどそうなる...これは既に我々の現前に神的なものは、お在さなくなってしまったことを意味しているに他ならないのです。
もし、それが我々に現存するのであれば、我々は既に神に捉えられているだろうから...これに捉えられてみれば、これほど具体的で、アリアリと感じるものは無いといっていいくらいなのです。
神はこのように知的概念によって知ることは出来ません。それは思いを超えたものだから...それは、それ御自ら臨むことで知ることが出来るのです。
我々が神を慕い求め、神が御自ら現れ、臨み、導きたもうことは、ごく自然な流れと言ってもいいでしょう。ああ...神を切に待ち望むものに神が応えたまわないことなどあるでしょうか?
私が現臨、見えざる導師、照明、聖霊等々と言ったりしているものは、すべて神的なもののことを言い表しているのに他なりません。
というより神は、私の、人間の、世界の、宇宙のすべてに関わっていると言ってもいいでしょう。
神をこのように(直接)知ることは、本当の自分を知るということと一つのことなのです。
この意味で、ラマナ.マハルシが言うように、正に"神、導師、真我は一つのもの"、と言えるのです。
以前の私は、あまり"神、神"と言うことに躊躇いを感じていました。
それは、先のように書く方にも、読み手にも漠然とした感じをもたらしてしまうように思えたのと、過去の宗教のように、二元的な印象を与えてしまうと思ったからです。
"新たな道はノンデュリアリティだi"、などと一寸、非二元の教えにカブレていたところがあったのです。
しかし、そうあろうと、信じ、従おうとする自分が居て、向こうに見て、そう合わそうとするような分離した在り方に、ノンデュリアリティのへちまもありゃしません。そして、今やあれらは一時の過ぎ去ったブームだったとの感があります。
真実は、一元も二元もなく、我々が求めるそのものに自然に会わされ、合わされてゆくということがあるだけでしょう。
そして、古来から悟りや救いということは、宗教的な道、即ち神的なものへの帰依と切り離されたものではなかった、という事実を知るべきなのです。
私が書いているものには何ら特別なものはありません。古来より宗教的な道で、先師たちが言い伝えてきたものばかりです。
(過去のものになったように見える)宗教で説かれてきた神は、我々の思念に取り込まれて、生きたものでなくなったに過ぎません。
しかし私は、"神は今もなお人の思いを超えて、アリアリと我々の現前に生きたもうi"、ということ、"神の道は、いつでも古くて、新しいのである"、ことを伝えずにおれない気持ちからかく記している次第なのです。