人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

自ずと在らしめられる

2021-01-03 10:22:46 | 意識、照明
何ごとでもそうなのですが、ことに精神的な道では意識の在り方というものが、極めて重要であることは、何度も言ってきました。
どうやって、その方法"How"、ってことよりも、どう在るのか"To be"ということですね。
人との交流の中で、私は、"あ、この人は神そのものに意識が向かっている"か、そうでないかは、すぐに見分けられます。
話を訊いてみれば勿論ですが、目を見たら分かります。
焦点がはっきりしてるというか、意識が集中されているということが分かるのです。
一度話が神体験のようなことになると、話を逸らしたりしません。それもただのお話として交わしている感じにはなりません。"いいお話でした"、ってことにはならないのです。
そうでない人というのは、目がキョロキョロしてるし、話が脱線するし、結局は急用が突然出来たりして、サヨウナラ...(笑)
私の一寸した知り合いでも、口では神人合一だとか、完全覚醒だとか言っていても、精神的な祈りの道としてやっていることが、いつの間にか、健康維持だとか、体力増強だとかのことにズレてしまっていたりする向きもありまして、そして又宇宙の何かの歴史のこととか、前世やら未来予言や陰謀論などにハマってしまうのですが、これは端的に、"現臨にある"という意識の焦点からズレていることを物語っているのです。
一度、意識が神的なものにつながれば、仮に二義以下のものとして、そういうものに赴くことはあるとしても、第一義のものは意識に常に据えられているのです。言い換えると神に意識が捉えられているのです。
そういう人というのは、普段からその道の修行を熱心に取り組んでいるのでしょうか?
そういう人も居るのでしょうが、神的なものに意識がある、向いているということ自体がそういうことなのでしょう。これは、けっしてこちらの鍛練といったものだけで養われるものじゃありません。
これは、自ずと向かわせられる、惹き付けられる、意識が集まる、ということで、それが意識が現臨にあるということに他なりません。
何も特別な覚醒体験のことなどに囚われる必要はありません。神ということでなくてもいいでしょう。
最愛のものに意識を向ける、ということがどういうことなのか? 自ずと向けられるという感じが伝わらないでしょうか?
それは、"向けよう、向けよう"、という自意識が抑えられて、いつの間にか中からお出ましになる方が主導になってしまうようなことです。
そうなると意識は二義以下のものに逸れたり、移ったりしないものでしょう。
自ずとそうなるということは、どうやって、というヤボな思惑をこえて、そう在らしめられるだけ...
"To be"...意識の在り方ってことすらも、ないようなことではありませんか?
コメント
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