人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

即応的な祈り

2021-01-04 09:52:38 | 祈りと瞑想
都内では、又緊急事態宣言が発せられるような動きになっており、いよいよ表向き三密は避けて、裏側の関係をより密にして行かなければならない状況になってきたようです。
それには如何にあるべきか?
私はいつも意識の次元とか、人の精神の本にあることに、それこそ意識が向き勝ちになるのですが、それは具体的な方法というものはどうでもいい、と言っているのでは勿論ありません。
実際、そのことに関して何度も触れてきています。それは、即ち祈ることです。
何をどう祈るか、と具体的な祈り方については出し惜しみでなく言えません。それは各人がもっとも神的なもの(最愛のもの)とつながりやすいものに則るという他ありません。
それは例えば、信奉する神の名を称えるでも、聖書やお経の一句を称えるでも、声に出しても、出さなくてもいいでしょう。
要するに、ここで言っている祈りの本義とは、神的なものと密につながるということです。
雑念を払うためとか、健康のためとか、悟りをひらくためとか神そのものに即していないものは本義ではないのです。
又念には念ですが、"祈り倒す"とか、自分の意念、思念に頼り、強めてしまうのもズレています。自ずと...というのが肝心なのです。為そう、念じようとする自分は引っ込めて、自ずと出てくるものにゆだねる...
その道が開かれれば、言葉とやり方とか形は自ずと超えられてしまうようになるでしょう。それがそのものが主導になる、そのものに捉えられるということに他ならないのです。(あ~、又いつものクセが出たi)
"神とつながるには瞑想がいいのでは?"、という向きもあるでしょうが、私的には祈りも瞑想も同じです。本源的には一体どこに違いがあるというのか?...ほんげんというものはですね...(これだよi)
インドには、バクティ.ヨガというのもありますし、祈りが深まると"感応"ということも起きてきて、そうなってみたら区別などつかなくなるのが分かるのです。
いずれにしても、こちらとあちらとの間に余計な技巧だとか、ややこしい教理だとか、直接的なつながりを妨げるものを挟まないものが望ましいと言えます。
つまり自己と神的なものとが即しているものということ...自己を超えて出てくるものにアクセスしやすいものということです。(その御名を呼ぶこと、ひいてはあの感覚が呼び覚まされるメモリーを作動させるーこれは秘伝ーのが手っ取り早いのではないですか?)
この即応性ということに関してですが、今日の状況は、いつ何時コロナに感染するとも限らないのです。
病床にあって苦しんでいる時に、呼吸法やらチャクラに意識を集中だとか、ややこしいことに従事などしていられるでしょうか?
しかし、神名を称えるとかごく簡単な祈りは出来るのです。
そこから胸や喉がつまって、気が滞って苦しんでいる状態にあっても、神的な愛のエネルギーの通路は開かれるでしょう。これは広げてはコロナの世界的規模の日蝕もそれにより開かれる、ということでしょう。
それは又、それまで本源にあって、隠されていたものが顕わになるということでしょう。
どうしても本源の方に意識が向いてしまう次第で...
コメント (3)
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