人生の裏側

人生は思われた通りでは無い。
人生の裏側の扉が開かれた時、貴方の知らない自分、世界が見えてくる・・・

たまにはホントのことを書こうi

2021-01-17 08:17:31 | 雑感
"私は長年の修行によって無の境地に達しましたi...業因縁から解き離れましたi...宇宙の叡知を獲得しましたi..."

"達成した、功を成した、獲得した"...多くの人間は、このように精神的な道においても、何かが進んだような変容などがあったことに対し、それを自分自身に帰したがるものです。
そして他に認められたい欲求が強いので、そういうことをつい主張してしまうのです。
ある意味で、そうゆうことを何の躊躇いもなく表現してしまうような人は、多くの人間に根付いた、そういう主我的な心根を正直に吐露しているとも言えるでしょう。
私のような狡猾な、もっと上を行くようなエゴを持った人間は、そんなあからさまに"自分が..."、という線を出してしまうと、他者から"はは~ん、あの人はそういう人間なんだi"、と思われてしまうので、控えめな、自分を抑えた感じを装ったりするのです。
考えてもみられよ、自分が達成した、獲得した無の境地などあろうはずが無いじゃありませんか?...
しかし、そのように、私は主我的な思いが根っこにこびりついているから、他人のバカさ加減はよく分かるのです。"ああ、苦節ン十年も..."ホント、ご苦労さんなことではありませんか?(人が高い境地から転落するように、目覚めは一瞬で起こるであろうに...)
お陰様で私は良識ある、節度を弁えた、"何かの境地に達した"ような人間で居られようというものです。
主我的な思いを堂々と表してしまう人は、あの"お照らし"が照らされるままに、表してしまう...これはホントに、ホント~に皮肉でなしにご苦労さんなことです。そこへゆくと私なんかは...
たまには偽らず、正直な気持ちを吐露してみよう(いつものは一体何なのか?)...あのお照らしにあって...
私はホントに、ホント~に(そうなんだってばi)主我的な思いがもたげている時、自分自身で居られる気がしないのですi
"本当の自分で居たいi"、こういう気持ちが無いと言ったらウソになります。
でも、"自分が..."という線を出していたら、どうしてもそうならないのです。
では、どうなったら、どうあったらそうなるのか?...主我的な思いがどうともならないのは、イヤというほど知っています。
自分で離れよう、無くそうとして、そうなった試しなどありません。
しかし、神に思いを向けることは出来るのです。そして、"神に思いを向けたって、パッとなる訳でもない..."、と思っていたのが、いつの間にか、そうなってしまったではありませんかi ホントですよi
そして、自ずと思いから離れることが出来たのです。否、出来る、出来ないってことじゃなくて、これは一陣の風が吹き抜けるようなことです。あるいはこれこそがお照らしのまま、照らされていることなのでしょう。
神的なハタラキにあって...帰されるのはこっちじゃない、そっちなんです。達した、獲得した何ものもありません。
これは、"私が私で無いほど私自身になる"、ようなことに他なりません。
すべては神に帰される...ここに私がいつも神のことに触れている大きな理由があるのです。
そして、自我を出さない、敬虔であることは、モラルの問題でないことがハッキリ分からされたのです。それではダメなんだi 
これほど私自身の問題でないものは無いのですi
良識ぶった顔を装ったって、お照らしの前ではすべて明らかにされるだけですよi

このように、たまにはホントのことを書いてみるものなのです。いつも書いている?
照らされるままのことで、ホントでないものなどありません。

コメント
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