宗教、スピ界隈の一部では、"悟りを得るには、7つのチャクラを開かなければならない"、と信じられています。
まるで、それがその道に至るすべてであるかのように...そういう人たちそれを疑うことが無いのでしょうか?
前言の通り、それが信じられているのは一部なのです。ヨガ、密教の行者とか、チャクラを丹田と言い換えた道教や仙道、そして最近の"悟りマニア"とも言うべき人たち...
イエスや仏陀、老子がそういう体験を経ていた、と伝えられているでしょうか?
ラマナ.マハルシなどは、"真我の実現というのは直接的な道であるのに、何故そういう回り道をしなければならないのか?"と否定的です。
五井先生は?...勿論、そんなことはどこにも言及されてません。自力行でない、祈りの道を推奨しているので当たり前の話です。
にも関わらず、上記の人たちの中には熱心な五井先生の信者も居るというのだから分からない...自力行だか祈りだか、意識が宙ぶらりんになっているようです。
五井先生が生きていたら、きっと"中途半端ならやめなさいi...完全覚醒?...バカなこと言いなさんなi、それよりもっと目を覚まさなきゃならないことがあるだろうi"、と言うでしょう。
といって、私はこのことを全く否定しているつもりもありません。本当のところは分からないですから...
覚者と言われる人たちは、知らずしてそういうことに(何かが開いた)なっていたかもしれないのです。
そうだとしても、それらはすべて後付けの知識として語られることなのです。
もし、考えている、何かをしようとする自分が思いを超えようとするのであれば、どう手をつけていいか、手がつかないことにならざるを得なくなるのではないでしょうか?
このことは、単純にどっかのチャクラに意識を集中しようとすれば分かるのではないでしょうか? そういう自分がそうしているのですから...
私自身の現実に即してみると...過去にも今にもそういう自力行に意識が赴くことはありません。
チャクラを開こうとしなくても、何かが自ずと開かれてしまう...意識がそれにゆだねられてしまうので、思おうとか、何かをやろうという気が起きてこないのです。
自力行についての本も読む気もしてきません。心が安らぐ気がしてこないのです。もう安らぎを感じているから...
要するに、意識が思いを超えたものに開かれているのに、それを閉ざす方に向けることは全く中途半端で、無駄なことなのです。
といって、こういうことは私の現実のことを言っているまででして、何かの因縁で、自力行に取り組んでいる向きを無闇に否定している訳でもないのです。
たとえ、無駄とも思える道、迷いの道であったとしても、そこに学びというのはある訳ですし...私はそっちの道には縁が無かったというだけの話です。
ただ、言いたいことは、チャクラを開くことがその道のすべてでは無い、ということですi
自分が思いにトラワレ、迷い続けるのは勝手だけど、それを他に向けて発信してしまうとはi
精神的な道はどこまでも自由でなければならないi...これが私のコダワリ。
まあ、悟りのことなどどっちでもいいのですが...
まるで、それがその道に至るすべてであるかのように...そういう人たちそれを疑うことが無いのでしょうか?
前言の通り、それが信じられているのは一部なのです。ヨガ、密教の行者とか、チャクラを丹田と言い換えた道教や仙道、そして最近の"悟りマニア"とも言うべき人たち...
イエスや仏陀、老子がそういう体験を経ていた、と伝えられているでしょうか?
ラマナ.マハルシなどは、"真我の実現というのは直接的な道であるのに、何故そういう回り道をしなければならないのか?"と否定的です。
五井先生は?...勿論、そんなことはどこにも言及されてません。自力行でない、祈りの道を推奨しているので当たり前の話です。
にも関わらず、上記の人たちの中には熱心な五井先生の信者も居るというのだから分からない...自力行だか祈りだか、意識が宙ぶらりんになっているようです。
五井先生が生きていたら、きっと"中途半端ならやめなさいi...完全覚醒?...バカなこと言いなさんなi、それよりもっと目を覚まさなきゃならないことがあるだろうi"、と言うでしょう。
といって、私はこのことを全く否定しているつもりもありません。本当のところは分からないですから...
覚者と言われる人たちは、知らずしてそういうことに(何かが開いた)なっていたかもしれないのです。
そうだとしても、それらはすべて後付けの知識として語られることなのです。
もし、考えている、何かをしようとする自分が思いを超えようとするのであれば、どう手をつけていいか、手がつかないことにならざるを得なくなるのではないでしょうか?
このことは、単純にどっかのチャクラに意識を集中しようとすれば分かるのではないでしょうか? そういう自分がそうしているのですから...
私自身の現実に即してみると...過去にも今にもそういう自力行に意識が赴くことはありません。
チャクラを開こうとしなくても、何かが自ずと開かれてしまう...意識がそれにゆだねられてしまうので、思おうとか、何かをやろうという気が起きてこないのです。
自力行についての本も読む気もしてきません。心が安らぐ気がしてこないのです。もう安らぎを感じているから...
要するに、意識が思いを超えたものに開かれているのに、それを閉ざす方に向けることは全く中途半端で、無駄なことなのです。
といって、こういうことは私の現実のことを言っているまででして、何かの因縁で、自力行に取り組んでいる向きを無闇に否定している訳でもないのです。
たとえ、無駄とも思える道、迷いの道であったとしても、そこに学びというのはある訳ですし...私はそっちの道には縁が無かったというだけの話です。
ただ、言いたいことは、チャクラを開くことがその道のすべてでは無い、ということですi
自分が思いにトラワレ、迷い続けるのは勝手だけど、それを他に向けて発信してしまうとはi
精神的な道はどこまでも自由でなければならないi...これが私のコダワリ。
まあ、悟りのことなどどっちでもいいのですが...