今のご気分は?
まあ、まあってとこかな?
いや、最近全然知らない、一寸イカれた変質(偏執)的メールが毎日のように来てて、思い出す度にムカムカしてきますよi
コイツ、こんなことしてて楽しいのだろうか? きっと面白くないことがあるからだろう...でも、そういう感覚も歪んでしまって分からなくなってるのかもしれない...
こういう風にあれこれ思わなきゃ、人生って概ね快く、幸せに廻るものですよね。
人間の行動に駆り立てる感覚というものは、快か、不快かどちらかだと言われています。
ナルホドな、と思いますが、これは色々な思いが付加されて、それにより増幅されるようなものでない、純粋な感覚のことを言っているのです。
快いことを追い求め、不快なことは避けようとする...これは本能と言ってもよく、幸、不幸というものとも結び付くものですが、何もここで快、幸福"ばかり"を追い求めて、不快、不幸につながることはやらなくていい、ということを言っている訳じゃありません。
人生には、不快なことは望まなくてもやってくるし、それを受け入れ、甘んじなければならないこともある(多くの人は毎日、富を得れば幸福になれると思って、生業などに勤しんでいるのでしょう?)。
だけれど、自らわざわざそっちの方を望み、赴くというのは、どっか不自然です。そうなったら、なるべくそれを避け、快、幸福に転じるようなことに赴くというのが、自然な感情というものでしょう。
自然、本来的なものとは、損得、善悪など思惑、信念などで脚色されない、純粋な快、不快に基づく感覚、感情のことです。
そう、これには役に立つ、立たないも、善いも悪いも無いのですi
付加的なものは脇へ置けば、感じられて来ます。"腹が痛い、不快だi"、とか簡単に感じられるものでしょう。
これに本来的でない諸々の思いが絡むことで、不快な感情はどんどん増殖され、頭では快いものだったはずのものも、心の奥とは食い違って来て、不快なものになったりします。
これが現代社会に蔓延しているストレスを生み出す訳ですが、それが重なると本来の感覚、感情から離れてしまい、それを感じることが出来なくなってしまうのです。
お腹が痛かったら、胃腸薬でも飲めばいいのに、いつまでも痛い、苦しいと言ったり、そうなってることが自然なことなのでしょうか?...自分の信念だとか、主義、行動様式というのは、本当に自分の本来性とマッチしたものなのか?
快か不快かということは、単純に好きか、嫌いかということに置き換えてもいいでしょう。
それは単純に意識がそっちへ向くか、どうかで分かるのです。
で...やっぱりこう書いていると、向けられてしまう...あっちへ...というかあっちが臨んで来るのか...最愛のもの...それはもっとも快いものに違いないi
これが自然にこうなってしまうことなのです。そういうことが感じられなくとも、本来の感覚を感じることで、開けてくる...かもしれない。
少なくとも、思いによる無限増殖にストップはかけられるでしょう。
本来の感覚は、不快な状態から快の状態へと戻ろうとするものだからです。
しかし...そのように不快な状態というのは、自覚出来て分かりやすいですが、快の状態って、取り立ててそういうものは感じられない場合はどうなん?
フツー?...フツーに意識してみると...これが心地いいこと、幸福なことなんですi...それが根本的な幸福であり、自然なことなのですi
で...又、来やがったi...このタイミングでかi...いや、違ったi
何々、何かのポイントが貯まっているだって?...何百円分だって...なんというささやかな幸福であろう...いや、"まあ、まあ"だったものが、量では計られない幸せになってしまったではないかi
今日もいい一日を...
まあ、まあってとこかな?
いや、最近全然知らない、一寸イカれた変質(偏執)的メールが毎日のように来てて、思い出す度にムカムカしてきますよi
コイツ、こんなことしてて楽しいのだろうか? きっと面白くないことがあるからだろう...でも、そういう感覚も歪んでしまって分からなくなってるのかもしれない...
こういう風にあれこれ思わなきゃ、人生って概ね快く、幸せに廻るものですよね。
人間の行動に駆り立てる感覚というものは、快か、不快かどちらかだと言われています。
ナルホドな、と思いますが、これは色々な思いが付加されて、それにより増幅されるようなものでない、純粋な感覚のことを言っているのです。
快いことを追い求め、不快なことは避けようとする...これは本能と言ってもよく、幸、不幸というものとも結び付くものですが、何もここで快、幸福"ばかり"を追い求めて、不快、不幸につながることはやらなくていい、ということを言っている訳じゃありません。
人生には、不快なことは望まなくてもやってくるし、それを受け入れ、甘んじなければならないこともある(多くの人は毎日、富を得れば幸福になれると思って、生業などに勤しんでいるのでしょう?)。
だけれど、自らわざわざそっちの方を望み、赴くというのは、どっか不自然です。そうなったら、なるべくそれを避け、快、幸福に転じるようなことに赴くというのが、自然な感情というものでしょう。
自然、本来的なものとは、損得、善悪など思惑、信念などで脚色されない、純粋な快、不快に基づく感覚、感情のことです。
そう、これには役に立つ、立たないも、善いも悪いも無いのですi
付加的なものは脇へ置けば、感じられて来ます。"腹が痛い、不快だi"、とか簡単に感じられるものでしょう。
これに本来的でない諸々の思いが絡むことで、不快な感情はどんどん増殖され、頭では快いものだったはずのものも、心の奥とは食い違って来て、不快なものになったりします。
これが現代社会に蔓延しているストレスを生み出す訳ですが、それが重なると本来の感覚、感情から離れてしまい、それを感じることが出来なくなってしまうのです。
お腹が痛かったら、胃腸薬でも飲めばいいのに、いつまでも痛い、苦しいと言ったり、そうなってることが自然なことなのでしょうか?...自分の信念だとか、主義、行動様式というのは、本当に自分の本来性とマッチしたものなのか?
快か不快かということは、単純に好きか、嫌いかということに置き換えてもいいでしょう。
それは単純に意識がそっちへ向くか、どうかで分かるのです。
で...やっぱりこう書いていると、向けられてしまう...あっちへ...というかあっちが臨んで来るのか...最愛のもの...それはもっとも快いものに違いないi
これが自然にこうなってしまうことなのです。そういうことが感じられなくとも、本来の感覚を感じることで、開けてくる...かもしれない。
少なくとも、思いによる無限増殖にストップはかけられるでしょう。
本来の感覚は、不快な状態から快の状態へと戻ろうとするものだからです。
しかし...そのように不快な状態というのは、自覚出来て分かりやすいですが、快の状態って、取り立ててそういうものは感じられない場合はどうなん?
フツー?...フツーに意識してみると...これが心地いいこと、幸福なことなんですi...それが根本的な幸福であり、自然なことなのですi
で...又、来やがったi...このタイミングでかi...いや、違ったi
何々、何かのポイントが貯まっているだって?...何百円分だって...なんというささやかな幸福であろう...いや、"まあ、まあ"だったものが、量では計られない幸せになってしまったではないかi
今日もいい一日を...